初めての依頼
春の午後、放課後の陽光が差し込む白萩高校の旧校舎二階。
歴史研究部と大きく書かれたプレートは、剥げかけた木の扉に斜めにぶら下がっていた。部室というより、物置を片付けたような狭い空間だ。棚には古い史料や参考書、そして千景が勝手に持ち込んだ洋書や骨董品が乱雑に並んでいる。
「で、今日は誰が来るの?」
窓際の椅子に腰かけた一条千景が、紅茶を優雅にかき混ぜながら言った。名門お嬢様然としたその姿は、この埃っぽい部屋には場違いなほどだった。
「……さっき教室で声かけられた。放課後に相談したいって」
白石燈夜は机に肘をつきながら、短く答えた。声にはあまり感情が乗っていない。
「また恋愛相談とかじゃないでしょうね。そういうのは保健室に行けばいいのに」
部屋の隅、ソファに寝転がっていた蓮沼杏里がジト目でつぶやく。小柄な身体を丸め、スマホをぽちぽちしながら、面倒くさそうにため息をついた。
歴史研究部――表向きは「歴史に関する調査・研究」を行う部活動だが、実際には「校内で困ったことや気になる噂を調べる」活動が多い。探偵部と揶揄されることもある。燈夜にとってはただの仮面。だが、ここで寄せられる“噂”の中には、ときに虚影の存在と結びつくものもあった。
コンコン、と扉がノックされた。
千景が微笑みながら「どうぞ」と声をかけると、緊張した面持ちの女子生徒が顔を覗かせた。
「し、失礼します……あの、相談があって……」
同学年のクラスメイト、佐伯美羽。いつもは目立たないが、今は怯えたように手を握りしめている。
「大丈夫よ。さ、こちらへどうぞ」
千景が優雅に立ち上がり、椅子を勧めた。美羽はこくりと頷き、か細い声で語り始める。
「旧校舎の二階の廊下で……黒い影を見たんです。人の形をしたような……。近づいたら、空気がすごく冷たくなって……怖くて逃げました」
その言葉に、杏里は「幽霊話かよ」とあからさまにうんざりした顔をした。
だが燈夜の心臓は一瞬だけ強く打った。
(……やはり、虚影か)
彼は表情を変えないまま、美羽の話を黙って聞いていた。
佐伯美羽の声は震えていた。
「そのとき……気のせいかもしれないけど、影が、私の名前を呼んだ気がしたんです」
部室の空気が少し張りつめた。
杏里が半身を起こし、じろりと彼女を睨む。
「アンタ、怖がらせるために話盛ってない? “影が名前呼んだ”って、漫画じゃあるまいし」
「ち、違う! 本当に聞こえたんです……」
美羽の目には涙が浮かんでいた。
千景はふっと表情を和らげる。
「信じるわ。普通の人なら、そんなことをわざわざ作り話にして持ってきたりしないもの」
燈夜は黙っていたが、内心では確信に近いものを抱いていた。
虚影――人に寄生し、恐怖や不安を糧に姿を顕す怪異。普通の人間には見えないが、魔力に感応する者だけが存在を知覚できる。
(つまり、佐伯も“魔力を認識できる人間”ってことか……)
それは数万人に一人の稀有な資質。だが同時に、虚影に狙われやすい危険も伴う。
「場所は旧校舎の二階、だよな」
燈夜が口を開くと、美羽は驚いたようにうなずいた。
「……あそこ、昔から噂あるよな。夜になると人影が歩いてるとか」
杏里があくび混じりに言う。
「決まりね。調査に行きましょう」
千景が扇子を軽く開き、優雅に笑う。
「えぇ〜、また残業かよ……」
杏里は投げやりにソファへ倒れ込んだ。だが断らないあたり、彼女なりにやる気はあるのだろう。
美羽は戸惑いの表情を浮かべた。
「あ、あの……いいんですか? みなさんを巻き込んじゃって」
「心配しなくていい。僕らはこういうことを扱うために集まってるから」
燈夜は淡々と答える。その瞳の奥にだけ、冷たい炎のような決意が揺らめいていた。
夕暮れ。
日が沈む頃、四人は旧校舎の入り口に立っていた。
赤く染まる空を背にして佇む廃れた建物は、昼間とは別物のように不気味さを帯びている。窓ガラスはひび割れ、木造の床は軋む音を立て、空気はひんやりと冷えていた。
「うわ……来なきゃよかった」
杏里が小声で愚痴をこぼす。
その後ろで、美羽は息を呑み、両手を胸の前で固く握りしめていた。
燈夜は一歩足を踏み出す。
「……始めるぞ」
廃墟のような旧校舎へと、歴史研究部の調査が始まった。




