旧校舎の影
旧校舎の中は、外よりもさらに冷え込んでいた。
薄暗い廊下に差し込む夕日の残光が長い影を落とし、風もないのに古びたカーテンが揺れる。
「ギィ……」
床板が足の重みで軋むたび、美羽は小さく肩を震わせた。
「お化け屋敷のバイトでもしてる気分だな」
杏里が鼻で笑いながら懐中電灯を振る。しかしその声にも、微かに強がりが混じっている。
「静かに」
燈夜の低い声が響いた。彼は既に周囲の気配を探っている。
空気の“濁り”――常人には決して感じられない、魔力の揺らぎ。
千景が扇子で口元を隠しながら、囁くように言った。
「感じるわね……ここ、もう長いこと“祓われてない”」
廊下の突き当たり、半開きの教室の扉が不自然に揺れた。
美羽が悲鳴をこらえて燈夜の袖を掴む。
「し、白石くん……」
「大丈夫だ」
燈夜は扉に近づくと、掌を軽くかざした。
空気がピリリと震え、青白い光が一瞬だけ指先から走る。
「やっぱりか……虚影の反応」
その言葉に、杏里と千景が顔を見合わせる。美羽は意味がわからず固まった。
「く、虚影って……なに?」
「あとで説明する。今は静かに」
燈夜が扉を押し開けると、教室の中は夕闇に沈み、机や椅子が乱雑に倒れていた。黒板には意味不明の落書き。壁際には、誰かが残した古い紙人形のようなものが貼りついている。
そのとき――。
「……たすけて」
確かに声がした。
それは教室の中央、影が濃く落ちているあたりから響いた。
「ひっ……!」
美羽の顔が蒼白になる。彼女は確かに、その声を聞いたのだ。
影が、じわじわと膨らみ始めていた。
床から滲み出すように黒が広がり、人型とも獣ともつかない歪んだ形を取っていく。
「出るぞ」
燈夜の瞳が鋭く光を帯びた。
校舎裏の倉庫は、夕暮れの光に沈んでいた。古びたトタン屋根にカラスが二羽、重たそうにとまっている。人気はなく、部活動を終えた生徒の声も遠い。だが――燈夜には、確かな気配が感じ取れていた。
魔力の流れが、空気の底で濁っている。
それは、常人には決して感知できない異質な震えだった。
「……いるな」
低くつぶやいた燈夜の言葉に、隣の一条が肩をすくめる。
「何が? 俺には何も見えねえけど」
「見えないのが普通だ」
燈夜は短く返し、足を進める。床板の下から吹き出す冷たい気配が、まるで血管の中を逆流する毒のように全身をざわつかせる。
その瞬間だった。
――ギギ、と鉄がきしむ音。
倉庫の扉が勝手に揺れ、次いで、闇色の靄がじわりと溢れ出した。
「っ……!」
一条は思わず後ずさる。だが燈夜は一歩前へ。
黒い靄は瞬く間に形をとり、人型に収束していく。輪郭はあるのに質量はない。顔はのっぺりと曖昧で、空洞のような瞳孔がぎょろりと動いた。
虚影。
「これは、ただの“迷い子”じゃないな……」
燈夜は冷静に状況を測る。魔力を認識できる者の間で呼ばれる分類の一つ、虚影の低位種は影のように徘徊するだけだ。だが、今目の前に立っている存在は、はっきりとこちらを狙っていた。
倉庫の窓ガラスが震え、周囲の空気が重く沈む。
虚影の魔力は、常人にとっては不可視の毒霧だ。それを吸い続ければ、体調を崩し、やがて心までも侵される。最近の不審な症状を訴える生徒たちの正体は、やはり――。
「……これが原因か」
燈夜は腰のホルスターに手をかける。指先に触れたのは、師から託された魔力銃。視界奪取の能力を併用すれば、敵の動きを封じつつ仕留められるはずだ。
一条はまだ事態を飲み込めず、唖然と立ち尽くしている。
「お、おい……あれ……何なんだよ」
「説明はあとだ。下がっていろ」
燈夜の声音は静かだが、有無を言わせぬ圧があった。
虚影が咆哮をあげた。空気が爆ぜ、ガラスが割れる。
それは声ではない。人の理から外れた「存在の揺らぎ」そのものだ。
倉庫の影が、いっせいに虚影に吸い込まれていく。
次の瞬間、刃のように鋭い闇の腕が燈夜へと襲いかかった。
――戦闘開始。




