最強の一角
春の夜はまだ冷たい。仙台の市街地を吹き抜ける風は、冬の名残を忘れないまま、アスファルトに張りついた冷気を纏わせていた。
その夜、通りには誰もいなかった。
人々は知らない。目には映らず、耳にも届かない“それ”の存在を。
黒い霧のような靄が、街路灯の下でじわじわと広がっていく。霧は次第に人の形へとまとまり、その場に立ち尽くしている。
虚影。
現世に滲み出す異形の存在。
政府の公式記録では一度も表に出たことのない、人知れぬ災厄。
その虚影に相対するように、一人の少年が立っていた。
フードを目深にかぶり、灰色のパーカーの裾を風に揺らしながら。
白石燈夜。
年齢は十七。だが彼を知る者たちは口をそろえて言う。――この少年は最強だ、と。
燈夜の右手には黒い拳銃。左手には古びたナイフ。
いずれも魔力を込めて強化された武具であり、何より彼自身の魔力操作が、常人には到底到達できぬ精度と速度を誇っていた。
虚影が、顔のない顔をこちらに向けた。
圧迫感が走る。視線を交わすだけで肺が重くなり、心臓が凍る。
常人なら立っていられないほどの圧力がある。
だが、燈夜は平然と一歩踏み出した。
「――おっさん。借りるぜ。」
小さく呟いた瞬間、世界が裏返る。
燈夜の目に映る風景の奥に、もう一つの視界が重なった。
それは虚影の視界である。
虚影の目には、獲物――つまり燈夜自身が映っている。
相手の視界を通して戦場を視ることが、燈夜の戦闘スタイルなのだ。
虚影が動く。
粘液の身体を弾丸のように跳ばし、鋭い爪を振り下ろす。
常人の反応速度では到底捉えられない一撃。
だが燈夜は既に見ていた。虚影自身の目を通して。
左へ。
体を滑らせ、爪が髪をかすめる。すぐさま銃を構える。
引き金を引く。乾いた銃声。
青白い閃光を帯びた魔弾が虚影の胸を撃ち抜いた。
黒い体がぐらりと揺れる。だが倒れはしない。
虚影は心の影。肉体を破壊しても意味は薄い。
燈夜は舌打ちした。
続けざまに前へと踏み込む。ナイフを逆手に構え直し、低く呟いた。
「……消えろ」
霧を裂く一閃。
刃が虚影の胸奥――核に相当する部分を突き刺す。
しばしの沈黙の後、虚影は崩れるように膝をつき、その身体は細かな靄となって夜風に溶けていった。
戦いは終わった。
だが燈夜の呼吸は荒い。肩が上下し、頬には冷たい汗が流れる。
確かな強さを持つ燈夜である。しかし虚影と対峙すれば、何者だろうと魂を削られる思いをするのだ。
「……ふぅ」
小さく息を吐いたとき、耳に挿した無線機がかすかなノイズを立てた。
『お疲れ、エース。やっぱりお前は化け物じみてるな』
気さくな声が飛び込んできた。
現場外からモニタリングしていた仲間だ。燈夜は眉をひそめる。
「……そう呼ぶな」
『はは、悪い悪い。“特異指定者”って言えばいいか? 政府がそうランク付けしてるんだから仕方ないだろ』
「余計に嫌だ」
燈夜は銃を下ろし、空になった弾倉を入れ替える。
戦闘の余韻の中、仲間の声だけがやけに現実味を帯びて響いた。
『でもよ、こんな任務も今日でひとまず終わりだな。お前……明日から高校生だろ?』
その言葉に、燈夜は無意識に動きを止めた。
明日。
制服に袖を通し、机に向かい、クラスメイトと顔を合わせる。
仙台市立白萩高校。その歴史研究部の新入生として。
もちろん表向きは普通の文化系部活だ。だがその実態は――政府公認の秘密組織。
対虚影の育成拠点であり、将来の戦力を生み出すための装置。
そして燈夜の新たな“任務”は、その部の再建だった。