君が忌んだもの
君に断りなくこれを書き残すのは、もしかしたら非礼にあたることかもしれない。奇跡のような確率が万に一つ君の目にこの稿を触れさすような偶然があったなら、どうか悪しからず私の懐古を笑って下さい。
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毎年、夏になると決まって耳に入ってくるのが水難事故のニュースだ。幼い子どもや若者が、不馴れな海や川で溺れて命を落とす事例は昔から後を絶たない。
うちの近所でも数年前、とある青年が友人らとの旅行先で川に入り、溺れて帰らぬ人となった。ネット時代の残酷さで、本人達のSNSには旅行当日の彼らの楽しげな気分までが当たり前のように残されていて、あの元気者がどうしてと、故人を知る周囲の大人は皆、青年の早すぎる死を惜しんだ。
別の年には沖縄で、著名な漫画家の男性が、荒れた海に流された一家を助けようとして亡くなった。文字通り青天の霹靂のようなニュースだったから、一報を目にした瞬間の衝撃は今でも記憶に新しい。
彼の作品は本当に多くの子供たちに愛され、その最期はとても英雄的だったけれども、母なる海は時として、かくも冷酷に容赦なく、偉人の命をも奪っていく。
水の力は恐ろしい。
それでも我々はほとんど本能的と言っていいほどに水辺の景色に魅せられて、信仰と愛情の入り交じったような懐かしい気分を海や川に対して抱いている。抗いがたい優しさで、汀の気配は人を手招く。
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「川が嫌いです」と彼女は言った。不思議なことを言う子だと思った。もっとも、彼女の言葉と思考が尋常一様でないことくらいは、その頃にはもう知っていたのだが。
生まれながらに霊感が強く、15歳の今日(当時)になるまで数え切れない非日常を経験してきた彼女のことは、仮にSと呼んでおく。いわゆる不登校のSの母親から、高校進学のための個人授業を依頼されてから、半年ほどが経過していた。彼女の霊媒体質は遺伝性のもので、祖母から父親を経由して彼女に受け継がれた。Sの述懐によれば幼少期から少なからず兆しはあったようだが、思春期を迎えた頃から日常的に霊障に見舞われるようになっていた。
それらの個々の出来事については、ここでは詳しく触れないつもりでいる。ただ、私はSが知るはずのない私の個人的な体験が、彼女の身の上にフィードバックしたという超常の経験から、Sの才能については全面的に信用していた。
「川が?」
「はい。怖いので」
「帰省先の川遊びで亡くなる人も多いから、そういう田舎の川が怖いのかい」
「いえ、もっと近所の」
霊の話をする時、Sはけっして相手を怖がらせようとしなかった。ごく当たり前のように、少し面倒くさそうに、呟くように話をした。
「この辺でも入水なんかする人がいたかな」
長引く不況で飛び込みは多かったが、主に電車の事故で橋から川へという話は聞かない。
「どうだろ、でも違うんです、そういうのじゃなくて」
珍しく、Sは言い淀んだ。怪異の目撃や数々の心霊体験を日常茶飯事であるかのように話す彼女が、言葉を濁したのはこの時だけだったような気がする。
「川には排水口があるじゃないですか」
今度はこちらが返す言葉を失う番だった。
彼女がそこに何を見て、そして何を思って言葉を選んだのか、想像できる程度には彼女のことを理解していた。ここでとぼけたり気付かないフリをしてしまえば、Sは直ちに察知するだろう。それでは今後の指導に差し支える。親御さんにも申し訳が立たない。
長すぎず短すぎずの間が開いて、
「そりゃ苦労するな、君も」
「うん」
過剰なほどに礼儀正しいSが、そんな風に頷いたのも、思えば初めてのことだった。内臓に染みてくるような恐怖を味わいながら、私は自らの責任をありがたいと思った。
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友人のRは前職の頃、川沿いの道を自転車で通勤していた。若手ながら次世代のホープとして重責を担っていた彼は、退勤が終電後になる日も珍しくなかった。路線の都合で自転車通勤でも時間はさして変わりはしないと笑っていたが、悪天候もあるのだから実際はずいぶん大変だっただろう。それでも彼はイタリア製だかのロードバイクをあつらえて、長いことその習慣を続けていた。
諸事情により数年後にRは転職するに至るのだが、退社前の一年間ほどはよほど職責が重かったと見えて、毎晩のように気晴らしの雑談電話の相手をさせられた。夜道に自転車を駆りながら、ハンズフリーのマイクで話すRの声は、良くも悪くもギラギラしていた。通話の内容はたいてい上司の愚痴や他愛もないジョークだったが、何度か妙なことを言った日がある。
Rの話によれば、川沿いの通勤路には小さな木の祠があって、八坂の神様が祀られていた。祠には白い札が貼られていたが、ある晩に通り掛かると札がなく、祠の扉がガタガタと激しく音を立てて揺れていたという。例によって通話中だった私は、どうせ風だろうと気のない返事をしたのだが、Rは真剣な調子で風ではなかった、もう通り過ぎたが今にも扉が開きそうだったと繰り返した。
また別のある時に彼は、同じ通勤路に泥が乾いたような白い足跡が、長く続いているのを見たと言ってきた。農地や川辺も近いのだから泥靴の足跡も少しはつくだろうが、先の祠の件もありどうも不穏なようなので、翌日、翌々日と私の方から電話中に件の足跡について訊ねた。今夜もまだあるか、と聞くと、ある、はっきり白い靴の跡があるとRが答えた。
夏のまだ暑い時分で、雨の日も夕立の日もあっただろうが、白い靴跡はその後もなかなか消えなかった。足跡がどこから始まってどこで消えているのか、何度かRに訊ねたものの、かなりのスピードで通り過ぎるだけの道だから、と明確な答えは得られなかった。やがて半月もすると、その件は話題に上らなくなった。
Rが会社を辞めたのは、同じ年の秋だったように記憶している。彼が心残りと口惜しんだ当時の最後の教え子は、数年後には教える側へと成長し、私のところでSとも面識を得ることになる。ほとんどの大人を信用できずにいた当時のSが彼女をさほど嫌がらなかったのは、事情は違えど同じ不登校の経験者だったからかもしれない。
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君に断りもなく昔話を書いてしまったので、埋め合わせにもなるまいけれど、私のことも少しだけ記そう。
父親の兄弟に、幼くして亡くなった人がいた。辛い記憶であるせいなのか家族もほとんどその話をしなかったので、そのことを知ったのはたしか高校生になってからだった。
亡くなったのは血縁上は私の叔父にあたる人で、年上の男友達に連れられて遊びに行った先で川に落ち、そのまま流された。家族の口が重かったのは、その時に一緒にいた男友達というのが成長して、近所の各家庭の主人になっていたからでもあっただろう。あのとき連中がもっと早く知らせてくれていればと、昨日のことのように悔しがる祖母を、他の大人たちがたしなめ励ます光景を一度だけ見た。
不義理な私は結局いまだに亡くなった叔父の名前も知らないが、よんどころない事情によって彼と自分の血が全く同じだという変な事実だけは知っている。医者が言うには白血球の型が同じなのだそうだ。そのパターンは血液型よりも複雑で、兄弟以外で合致するのは極めて稀な例らしかった。
子供の頃に川で亡くなった、顔も知らないその叔父は、私と、そして私の父と同じ型の血を持つ人だった。父が重い病の床についた時、その治療に私の血が必要になった。治療の結果は映画のようにはいかなかったけれども、叔父と同じ型の血液が、父の治療に役立てられたのは確かなようだ。
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その後すこしばかりの紆余曲折を経て、私は君たちと出会い時間を共にする幸運に恵まれた。今はそれらもみな過去となり、私たちの他に誰ひとり、知る人もなく流れていく。
名も知らぬ叔父、白い足跡、君が忌んだもの。
全てを呑み込み、川下へ、川下へと。
(終)