瓦礫
「畜生め、しけてやがる」
隣で瓦礫をあさっていた男は、そう言い捨てて、どこかへ行ってしまった。
建吉はそちらの方を見る。民家のあった瓦礫があちらこちらとひっかきまわされていて、最初その家が崩れた時よりも、おそらく今の方が荒れているに違いない。
あの男は、きっと他の瓦礫をあさって、めぼしいものがないか、探しつづけることだろう。
建吉はそんなことを思いながら、自分の作業へと意識を戻した。
蒸し暑い、夏の日のことである。あたりには何らかが腐って放置されている臭いと、火事の焼け焦げた匂いがたちこめている。人間の慣れというのは恐ろしいもので、最初は少なからず吐き気をもよおしていた建吉も、今ではこうして瓦礫を掘り返すことを苦もなく出来ている。
しかし時たま、腐臭の源に出くわす時があり、その時ばかりは建吉も、顔をしかめずにはいられなくなる。
あたりは一面の瓦礫が広がっている。
時おり瓦礫を組み合わせて、吹けば飛ぶような掘っ立小屋が作られている時もある。それは生き残った者の必死の知恵であって、彼らは点在するその小屋の中で生命をつないでいる。
建吉は、瓦礫を掘り返している。
彼はあるものを探しているのだ。
数日前、建吉は通りの道を行く、のどかな若者だった。その日の日射しは、暑いとはいえまだ本格的なものではなかったし、建吉の歩いていたのは早朝だったので、日が昇るか昇らないかという時間だけが持つ、あの一種独特な清澄さがあたりを占めていた。
建吉はそんな中を一人歩いていた。
ふと彼は空を見上げた。雲が朝日に照らされているのか、向こうに見える雲のひとつかみがやけに黄いろく見えた。
「不思議な色だ」
ほのぼのとした空に浮かぶ空を眺めるのが好きな建吉は、そのやや黄色がかった雲をのんびりと眺めていた。
その時、視界が揺れだした。
視界が揺れたのは、彼が体勢を崩したからだ。建吉は突然の揺れに、右側へややよろめいた。
建吉は、何が起きたのかを分からないでいる。しかし、彼は立っていられなくなり、彼のすぐそばに立っていた一軒家が音を立てて崩れだした時、彼はようやく事態の異常さを実感した。
微細な揺れがその後も続く中、彼は家路を急いだ。
あちらこちらで火の手が上がっている。煙の焦げ臭いにおいと共に、人々の泣き苦しむ声が聞える。建吉はその中を駆けていった。
――――うちはどうなっていることだろう。家族は、隣人は。
走り通しで酸素の薄くなっている中、建吉は必死に考えた。
角を曲がる。もうしばらく走れば、家が見えてくるはずだった。
「もし、そこの人」
あともう少しという所で、建吉に話しかける声が聞えてきた。
建吉が、声のした方に足を止め、顔を向ける。
しかし、声の方向に人の姿は見えない。崩れた民家の瓦礫があるだけだ。
「もし、そこの人」
再び声がした。
建吉は不審に思いながら、瓦礫の方へと近付いていった。
「おお、やっと来てくれた」
声の主は、瓦礫の向う側にいるようだった。
「大丈夫ですか?」
今まで家に行くことに一心だった建吉は、不思議とこの声に対して応えようという気持ちになっていた。それは落ち着いた、老人の声だった。決して大きい声ではないはずだが、なぜだか建吉にははっきりと聞こえた。
「外はどうなっているかね」
老人は続けてそう言った。
建吉が、改めてあたりを見渡す。
ひどいありさまだ。おろおろする者、諦めたかのように座り込むもの、どこからか聞こえる傷に苦しむ声、うす暗く立ちのぼる煙、そして、見渡す限りの瓦礫――――。
建吉はやりきれない思いで目をそむけ、また老人の声のした方へと向き直した。
「ひどいものです。これじゃあ、なにもかもがめちゃくちゃです」
そう言うと、老人はしばらくの間答えなかった。
少しずつ、日が高くなってゆく。それにつれて、周囲の温度も高さを増してゆく。
建吉は自分の胸に汗が伝うのを感じていた。
「なに、それなら何の心配もいらん」
意外にも、老人の声は明るいものだった。
「心配いらない、ですか」
建吉は訝しそうに老人へと聞き返す。
「ああ、その通りだ。心配いらん。わしも安心してこの世にいとまごいができる」
そう聞いて、建吉は改めて、この老人の声が瓦礫の下から聞こえているということを思い出した。
「待っていてください。いま掘り起こします」
建吉はあわてて瓦礫をどかそうとした。
「いや、手をわずらわせる必要はない。そのままにしておいてくれ」
声は依然として穏やかだ。
「早くそこから出ないと、本当に死んでしまいますよ」
建吉はてこになるようなものを探した。瓦礫をどかすために、どうにも自分一人の力ではどかしきれないものがあった。
「このままで、いい」
声は繰り返した。
「あなたはそうでも、それじゃあこっちの寝覚めが悪いのです」
ようやくてこの代わりになりそうな棒を見つけた建吉は、瓦礫の下にそれをはさみ込み、力を入れて動かそうとした。
「やめろ!」
突然、老人は鋭い声で叫んだ。
建吉は驚いて手を止めた。
「余計なことをするのではない。放っておいてくれ」
そして、こうもつけ加えた。
「私の今の姿を、あなたは見ない方がよい」
建吉は、面喰らったように立ちすくみ、困惑した面持ちでこうたずねた。
「それなら、なぜあなたは私を呼び止めたのです。助けてほしいのではないのですか」
建吉は、棒を地面に置いた。近くでは、何かが燃えるパチパチという音が、どこからか響いている。
「おお」
老人は、何かを思い出したようだった。
「そうだ、そうだ」
彼は大きくひと息をついた。
「忘れるところだったわい」
先ほどまでの叫び声などなかったかのように、老人は明るく続けた。
「お前さん、老人の最後の願いだと思って、ひとつ頼まれてはくれないかね」
その声は以前のような落ち着きを取り戻していた。
「頼みごと、ですか?」
建吉は聞き返した。
「そう、頼みごとだ。あなたに、探し物をしてもらいたいのだ」
老人はなおも続けた。
「ここを真っ直ぐ、しばらくの間歩いたところに、民家があるはずだ。近くに川があって、その橋のすぐ隣に建っている。今はもう崩れているかもしれんが、その建物の中から、位牌を持ってきてはくれんかね。古い位牌だ。書いてある戒名は、忘れてしまった」
それを聞いて、建吉は妙な顔をした。
「そんなものを探し出して、どうするのです」
老人はクツクツと笑い出した。
「どうもしないさ。ただ、この瓦礫の前に置いてくれればいい。それが、わしの最後の願いだ」
老人は、しばらく黙っていた。
「ゆきずりのあなたに、こんなことを頼んで、すまないとは思っている。しかし、これも何かの縁だと思って、どうか頼む」
切実な口調がその言葉のうちには感じられた。建吉は、うなずいて応ずるより他なかった。
その後まだ何か言いはしないかと思い、建吉はしばらくそこにいたが、それっきり、瓦礫の向こうからは物音ひとつ聞えなくなった。
建吉は、棒で瓦礫をどかす気持ちは、もうすでに持っていなかった。
ただ、老人の最後の願いだけが頭に残っていた。
「橋の近くか」
老人にそう言われた時、散歩の好きな建吉は、だいたいの場所に見当をつけていた。老人の言う通り、ここからある程度歩いたところに、それだろうと思われる川と橋は存在していた。いま行けば、日が落ちる前にはたどり着けるはずだ。言われたことを忘れぬうちに、探しに行こうかと建吉は考えだした。
と、ここまできて、建吉は自分の本来の目的を思い出した。
「そうだ、家だ」
もともと建吉は家族の様子を確かめに、ここまで急いで戻ってきたのであった。
家に帰ると、建吉の家族は皆無事だった。家族総出で壊れた家の木材を片付けているところに建吉が来たので、みな手を止め、一斉に建吉の無事なことを祝った。
「建吉や、お前も運ぶのを手伝っておくれ」
年老いた母はそう言って建吉に語りかけたが、既に人手は充分に足りているように見えた。
建吉は家族にしばらく行くところがあると言い残し、その場を離れた。
向かった先は、老人の行っていたあの橋の近辺だ。老人が言っていたような家屋は、橋の近くに何軒かあった。行ってみると、どの家も人の気配はしなかった。
建吉は、家屋たちに対して黙って一礼をしたあと、ひとつひとつの瓦礫を取りのぞき、位牌を探していった。
数日間の捜索の後、果たしてそれはあった。土埃にまみれてはいるが、普段は丁寧に手入れされていたらしいその位牌は、建吉の手にずしりとした重さを感じさせた。
「これを、持っていけばいいのだろう」
建吉は再びあの老人のことを思い出した。
落ち着いた、全てをよくよく理解したような声色。助けようとした建吉を制したあの叫び。それらのことが、彼にはひどく昔のことであるかのように思われた。
「早く持っていかなくては」
建吉は記憶をたよりに、あの老人の声がした瓦礫の地点へと歩いた。以前自分が棒でどかそうとした瓦礫があったので、場所は思っていたよりもすぐに見つかった。
建吉は来ている服で丁寧に汚れをぬぐったあと、老人の言ったように、瓦礫の前に位牌を置いた。倒れぬように、彼はしっかりと置いた。
これは誰の位牌なのだろう。親しい人のものか、先祖のものか、あるいは――――。
何となく、建吉にはその位牌が、その老人自身のものなのではないかという思いが消えなかった。
位牌を置き終わった時、また地面の揺れが起こった。
激しいものではない。穏やかで、ゆっくりとした揺れだ。それはすぐにおさまった。位牌も、揺れでは倒れなかった。
建吉はその揺れが、老人から建吉へ対する応答のように思われて、少し微笑んだ。
「心配いらない、か」
心地のよい疲労感が、彼の身体のうちにはあった。