太郎の日
いつもの如く、額に手を当てる。熱はない。実は、この手のひらに伝わる熱が、高熱なのではなかろうかと、太郎はひそかに期待している。しかし、頑健な彼の身体はすこしもその兆候を見せなかった。
――――今日もまた、つとめが始まる。
太郎はそのことを考えると、鬱々とした気持ちになった。日頃の生活の事を、彼はもったいつけて「つとめ」と呼んでいる。そう呼ぶことで、何か自分の人生を重々しくさせたいという願いが、彼の心の中には存在していた。
彼は起き上がる。朝の食事を済ませ、身支度をはじめる。その一つ一つが、彼にとっては「つとめ」でなくてはならなかった。
ここで種を明かせば、太郎は勤め人でも何でもない、一介の学生でしかない。しかし太郎はそのことを了承しなかった。彼は日々の生活が重たく、荘重なものであることを望んでいた。そのくせ、自ら進んで負担を感じるように仕向けた日々の生活を、わずらわしいものとして感じる正直さも忘れなかった。
要するに、彼は自分を自分で縛り、そのことに対して不快そうに進んでいくという性質があった。彼の望むことは彼の望まぬことであった。そのことが、この無口な学生を一層近づきがたい存在へとつくり上げていた。
彼は鞄を持つ。靴を履いて、外へと出掛けてゆく。
なるたけ一歩一歩が重々しい足取りになるように、彼は彼にしか分からぬ心のくだき方をした。
学校へ着く。授業が始まる。そのとたん、彼はまるで自分の役目は終わったとばかりに教師の話に耳を傾けなくなる。彼にとって、要求されているのは名前に沿った座席に一定の時間座っていることなのであり、そこに目の前の人間が話す言説に聞き入ることは含まれていなかった。
いや、実のところを言うと、彼も最初は純朴な学生だった。教師たる人間の発言を、一言たりとも聞き漏らすまいと努めたのは、そう昔のことではない。
しかし彼は、途中でそれが彼にとっていかに困難なことであるかに気付いた。彼は教師の話を聞く。教師が何かを喋る。そこで発される一つ一つの音声を、彼は逐一、了解していく。
しかしそこから、彼が自分の頭で反芻をし、ようやく次の話を聞く準備が出来た時、教師の話は奈辺にあるか。はるか遠くに行ってしまうのである。少なくとも、彼にはそう感じられた。教師の言うことはなるほど発音としてはよく分かる。単語の意味も明瞭だ。しかしそれらの単語を組み合わせて意味のある文を作ろうとする時、我らが太郎はひどく骨を折らねばならなかった。
時間が経つにつれ、修復の作業はいよいよその難度を増してくる。教師の話はあとからあとから降ってくる。しまいにそれらを繋ぎ合わせることはほとんど絶望的になってくる。
仕方なく、彼は黒板を見る。きっちりと色分けをされたチョークの文字が、彼の心を軽くする。要はこれなのだ。これさえ自分は持って帰ればいいのだ。
太郎は消される前に、あわててそれを書き留める。書いてゆくそばから消されてゆく文字達に、彼は哀惜の念を覚える。そうして、感謝せずにはいられない。
――――これで、今日の授業は無駄にならずに済んだ――――
彼は徒労というものを、ひどく嫌がるのである。
この感覚を彼は無口な彼なりに友人に話すこともあった。彼は同調が欲しかった。
しかし友人の反応には、一向に手ごたえが感じられなかった。そんな様子を感じ取り、彼もあえてこの話題を話すことはしなくなった。
そんな事柄にかまうことなく、日々は過ぎていくのである。
ある朝、また太郎は自分の額に手をやった。
すると、彼には手のひらに伝わる温度がいつもより高いように感じられた。
毎日同じことを繰り返している彼にとっては、些細な変化も注意することの内に入っていた。
さっそく彼は体温計を取り出した。ぬか喜びをするのが嫌で、いつもは使わぬこの体温計も、今日は輝いて見えた。
果たして熱はあった。それも、学校を休むに十分足る熱が、彼の内側には存在していた。
彼はまるで大切なものを戴くかのように、体温計を持ち上げた。そして台所にいた母親に、熱があるので今日は学校を休む旨を伝えた。
聞いた母親はやや訝しそうにしている。今まで太郎がそのようなことを言ってくることはなかった。
母はまず体温計の数字を確認し、自分でも太郎の額に手を当ててみた。
「あら」
ここにきて、母もようやく事態を了解したらしかった。彼は無事、学校を休むことになった。
彼には長い間の目標を達成した満足感があった。しかし同時に、長い間大切にしていた何かが彼の内から逃げていくような、そんな寂しさも彼の胸中には生まれていた。あるいは、滅多に風邪をひかない彼に生じた身体の熱が、彼をそんな感傷的な気分にさせていたのかもしれない。
彼は休むことにした。
時計の針をぼんやりと眺める。針は彼が普段家を出ていく時刻を指している。
「あ、始まったな」
そのまま時計を見続けていた太郎は、学校の始業時間に針がさしかかり、そして過ぎていったとき、はじめてこの一日が非日常なものなのだということを実感できた。
「さて、何をしようか」
始業の時間を見届けた太郎は、時計から目を離して、このようなことを考えだした。彼の前に、時間は無限にあるように思われた。