昔話
ここではない話をしよう。
どこか昔、そう、そう遠くない昔だ。あるところに一人の男がいた。
その男は自分の出自を知らなかった。興味がなかったわけではない。むしろ他の人よりも知りたがったくらいだ。
だが、彼の質問は誰に聞いても満足に満たされることはなかった。めいめいが、勝手な話をした。男はこのことを大変不満に思った。男は自分がどこから来たのか分からなかった。それは男にひとにぎりの寂しさを与えた。
他の皆は自分自身に満足している。満ち足りているように感じる。男にはそれが無かった。俺は一体どこから来たのだということが、意識には出ないにせよ、いつも男の頭の片隅にはあった。そうしてその問いは、いつまでも満たされることがなかった。
しかし生活は続く。そんなことにかかずらっていては何も進んでいくものではない。
この男も例外ではなく、食うための作業に日々の時間を費やしていた。
ある日、男の働く店先に見慣れぬ人物が訪れた。
その人間は、身なりが汚く、あまり裕福ではなさそうだった。男の働く店の商品を買えるほどの金銭を持っているとは、男にはとうてい思われなかった。
「冷やかしなら帰ることだ」
荷物を持ちながら、男は客人にそう言った。
「あまり店先にいられても困るのだ」
その口ぶりはいくらか横柄だったことだろう。客人はそんな口調の文句を浴びせかけられるだけの身なりだった。
客人は答えず、店先に立ったままでいる。被りものをしているので、その表情はあまり見えない。
気味の悪い奴だと思いながらも、準備に忙しい男はそれきり店の中の作業に入った。
しばらくして、また店先に商品を置きに行く。先程の客人は相も変わらずそこにいる。
「おい」
男は多少不機嫌になりながら客人に声をかけた。
「いつまでいるつもりなんだ。さっさとここを離れるのだ」
横柄な男の口調は変わらない。客人はまたもや答えない。
業を煮やした男は、客人の方に手をかけた。無理やりにでも、店先からつまみ出す心積もりだった。
「お前は」
客人はその時はじめて口を開いた。
「自分というものを考えたことがあるかね」
ざらついた、低い声である。言葉数は少ないが、一語一語にゆるがせには出来ないと感じさせる独特の空気が籠もっている。
男は初めて喋る客人の語勢にいくらかひるんだものの、断固としてつまみ出す気持ちでいる。
しかし力を入れている筈の客人の肩は、一向に動く気配がない。
「早く動くことだ」
少し薄気味悪さを感じながらも男は続けた。
「店主を呼ぶぞ」
「呼べるものならな」
客人は笑っているらしかった。
「お前も動けまい」
そう言って、客人は少し顔を上げた。
髪に隠れたすき間から、大きな口が笑っているのが見える。
男はなんと言ってよいのかわからなかった。しかし手を客人の肩からどけようとしたとき、今度は自分の手が肩から離れないのを発見した。
「何をした」
男はおびえている。
「離せ」
客人は相変わらずにやにやしている。
「質問に答えることだな」
客人は穏やかに、しかし有無を言わせぬ語調で話した。
「お前は、自分というものを考えたことがあるかね」
男は、自分の血が逆流するような感じを覚えた。
自分の出自が定かではない男にとって、その質問は世にある事柄のなかで最も堪えがたい項目のように思われた。
「知らん」
男は言った。
「お前に答える筋合いは無い!」
知らず、自分の思っていたよりも大きな声が出ていた。
男はしまったと思った。きっと今の声は店主の耳にも入ったはずだ。男は店主に面倒が起こったことを知られたくはなかった。
しかし店の奥から店主が出てくる気配はない。真昼時だというのに、周囲は至って静かだった。時間さえ止まっているかのようだった。
客人はすましている。
「なに、時間は沢山ある。焦ることはない」
そしてまた笑う。
今度の笑みは先程よりいくらか穏やかだった。
「考えたことの無い奴は、ああまで取り乱しはすまい」
そうして身をよじった。男の手が肩からようやく離れた。
しかし男は、この客人から離れていくことが出来ない。男は何か、魔力のようなものにとらえられていた。
「お前は気になりはしないかね」
客人が続ける。
「自分が何者かということが」
しばらく間があく。客人の言葉は、知ってか知らずか、男のもっともやわらかい所に触れ、数々の過去の記憶を呼び起こしていた。
「ついてきなさい」
男が過去の記憶を次々を思い起こしている間に、客人は手招きをしてそう言った。
男は言われるままに客人のあとをついていく。この時の男の頭の中には、店の事も、店主の事も考えになかった。
「お前の望むことを教えてあげよう」
そうして二人は店先を離れた。
その後男がどうなったのかを知る者は、誰もいない。