釣り針
「上人さま、釣れますか」
池に釣り糸を垂らしていた坊主は、声をかけられた方へ向かって、振り返った。
「おお、太郎か」
その目には目の前の子供を優しくいとおしむ気持ちがあらわれていた。
「今日はいい天気ですね」
太郎と呼ばれたその少年は、そう言いながら坊主の座っているあたりを眺めた。
「いやはや、うまく釣り上げられないもんだわい」
坊主の横に置いてある小さなつぼには水が張ってあるばかりで、魚は一匹も入っていなかった。
「上人さま、釣れますか」
ある日、少年はまた釣りをしている坊主にたずねた。
「いやはや、なかなかこれがどうにも」
坊主は困った様子もなく、そう答えた。少年は坊主がいつも釣りに来ているのを知っていた。いつのまにか池のそばに座っていて、いつのまにかいなくなっている。
少年は坊主のあたたかそうな背中をいつもそれとなく眺めていた。
「上人さま、釣れますか」
ある日、そうたずねようとした太郎は、いつも坊主が釣りをしている場所に、坊主の釣りざおと魚を入れる小さいつぼだけ残されているのを目にした。坊主はどこかへ席をはずしているらしかった。
「上人さまはいつも魚が釣れないとおっしゃる。どんなエサをかけているのだろう」
ひょいと好奇心が湧いた太郎は、坊主の釣りざおを手に取ってみることにした。
「あれ?」
太郎は不思議に思った。
釣りざおには、エサはおろか、魚を引き上げる釣り針もついていなかった。
「上人さまは変わっていらっしゃる。こんな釣りざおじゃあ、釣れるものも釣れないだろうに」
太郎はなんとも狐につままれたような気分になった。
「上人さま、釣れますか」
いつものように少年がたずねる。坊主は飽きもせずに目の前の水を眺めている。
「いいや、まだまだ」
坊主はにこにことしながら答える。
「上人さま」
そんな坊主に、太郎はもう一度声をかけた。
「なんだ、太郎」
坊主が振り返って応じる。
太郎は釣りざおの方も気にしながら、坊主の顔を見た。
「釣りは、楽しいですか」
そう太郎はきいた。
それを聞いた坊主は、にっこり笑って答えた。
「楽しいものだよ。釣れなくてもな」
日はゆっくりと動いてゆく。のどかな日の光が春の空気をつくり、二人をあたためていった。