蛸盤談‐2
しばらく過ごしていると、少しずつだが水槽の中のことも分かってきた。
エサは定期的に上から降ってくる。食べるには十分な量で、味も悪くない。絶えず水は浄化がされているようで、常に清潔感が漂っている。魚たちは、そこここで話をしながら暮らしているようだった。
「慣れてしまえば、結構居心地のいいもんだな。あのタコ壺がないのが残念だが……」
「そうだな」
ただ、日に何度か、水槽の中に網のついた棒が入れられることがある。水槽の魚たちは単純にそれを「網」と呼んでいる。網はやってくると、中にいる魚をすくい上げてどこかへ行ってしまう。そんなときは一様に、水槽の中の空気が少し静かになる。
ある日、タコ壺の親父がその網に捕まった。
親父は最初、網を避けていた。しかし、網は明確にタコ壺の親父を狙っていたようで、とうとう最後には捕らえられてしまった。
タコ壺の親父は網の中から、怯えた目でタコ八に訴えた。
「おい、俺は嫌だ。引き揚げられたらどうなるんだ?なんで誰もそれを教えてくれない?八公、助けてくれ」
タコ八はなんとか網を破ろうとしたが、無駄だった。親父は、そのまま上へと引き上げられていった。
呆然とするタコ八の背後から、ブリが声を掛けてきた。
「あの老いぼれには、網に捕まったらどうなるのかは伝えなかった。どうせ教えても、余計に怯えさせるだけだと思ってな」
タコ八はブリの方を振り向いた。ブリはタコ八の顔を見てから、水槽の外側に顔を向けた。
「あそこで人間が食っている食べ物があるだろう。あれはお前、ここにいた連中が混ざってるんだ。」
「なんだって?」
タコ八は改めて外を見た。
そこではたくさんの人間が賑やかそうに飲み食いしている。赤や白や緑、茶、様々な色の物を食べている。タコ八にはそれが、いままで水槽にいたタイやヒラメ、そうしてタコ壺の親父だとはあまりすぐ想像できなかった。
「ほら、いま皿が出てきた。あの中にあの老いぼれが入っている筈だ」
ブリにそう言われて、タコ八は新しく出てきた皿に注目してみた。
「ああ!」
信じたくはなかったが、確かにその皿の中には、彼が日頃親しく見知っていた親父の腕が、ブツ切りになって盛られていた。それを、外にいる人間達は実においしそうに食べるのだった。
「つまり、親父は殺されたのか」
「そうだ。網に捕まって、帰ってきたやつはいない。奥でさばかれているんだろう」
「………………」
「怖くなったかい」
「怖いもんか、俺はしっかりと覚悟を決めておくぞ」
タコ八はいつ自分が網に捕まってもいいように、日々決心を固めているようになった。
だが、タコ八は長く水槽にとどまった。その間、新しく来た魚もあれば、引き上げられていく魚もあった。
「なんで俺は引き上げられないんだ?」
ある日、耐えられなくなったように、タコ八はブリにたずねた。
「そりゃあお前が、そうするに値しない奴だからさ」
ブリはせせら笑うように言った。
「何故だ。俺はりっぱに死んでみせる。ここにいるどの魚よりも、男らしい最期を迎えてやる」
「ふん、口ではどうとでも言えるさ」
「なんだと」
「嘘つきになりたくなかったら、行動で示してみるんだな」
ブリはちらりと上を見上げた。
「ほら、また網がやってきた」
二人が話している間に、網はいつものように水槽の上方にあらわれた。
「ようし、見てろよ。ちゃんと捕まってやるから」
タコ八は決心して、網に近付いた。しかしいくらまとわりついても、網はすげなくタコ八を追い返した。
網はなかなか目当ての魚を見付けられないようだった。
「おい、あの網は、ひょっとしてお前を探しているのではないか」
戻ってきたタコ八はブリにそう言った
「そうかもな」
ブリはさほど興味がないように答えた。
網はしばらくさまよっていたが、最終的にブリを捕らえた。
「とうとう俺の番か。ようやく来てくれた」
ブリの顔には、どこか安心したような色があった。
「じゃあな。もう会うこともないだろうが、達者でやれよ」
網に入れられたブリは、タコ八の方をじっと見た。
「俺はずっと死ぬ勇気がなかった。いつもいつも、連れていかれる仲間たちを尻目に、のうのうと暮らしていた。……最初のうちは辛くてたまらなかったが、そのうち感覚がマヒしてきたんだ。連れていかれる魚が俺じゃないことに、ほっとしている自分がいた。タコ八、お前がうらやましい。俺は、お前のようにはなれなかった。
念を押しておくが、ここから生きて出られる方法は万に一つもない。これは俺の予感だが、お前はなかなか引き上げられることもないだろう。お前は一体、この水槽の中でどう生きるつもりだ?……いつか、あの世で俺に教えてくれ」
そう言って、ブリは上へと引き上げられていった。
タコ八は、自分がそう簡単には引き上げられないだろうというブリの予測を、奇妙な実感を持って受け止めていた。だからと言って、ブリのように、すべてを諦め生き永らえることもタコ八には考えられなかった。
タコ八は次第にものを食べなくなっていった。定期的に、上から降ってくるエサはある。水槽の魚はそれを濁った眼で食べている。タコ八はそれに断じて口をつけようとしなくなった。そんなタコ八を、水槽の面々は意識しながらも、つとめて見ないようにしていた。ブリがいなくなって以来、タコ八に話しかける者は誰もいなかった。
何日も経ったのち、タコ八はやつれはてて息絶えた。
「店長、このタコ、死んでますよ」
ある日、タコ八の死に気付いた店員が、店長に報告をした。
「ああ、珍しいな、水槽の中で死んだのか。……もったいないが、店の裏に捨てておけ」
「分かりました」
店員によって、タコ八だったものは店の裏のゴミ捨て場に投げ入れられた。それをかえりみる者は、誰もいない。
ただ月の光だけがさし込んでいて、このタコを静かに照らしていた。