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ベートーヴェン

 十八世紀の後半、ドイツの音楽家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、自宅の一室にこもって一人物思いにふけっていた。彼は人間一人の生涯というものについて思いを巡らせていた。


「もし、運命というものがあるのならば」


 ベートーヴェンは考えた。


「運命の喉首を締めあげてやる。私は決して運命に圧倒されない」


 彼は顔を上げ、燃えるようなまなざしで目の前を見つめた。


 そこには彼が常日頃、自分の最良の友として接している一台のピアノが横たわっていた。


 激しい熱情とあふれでる才能を持ったベートーヴェンにとって、この白と黒で出来た楽器は、絶えざる心の慰めとなった。


 何かひとつ鍵盤を押す。すると彼の押した力に応じて、ピアノは音を出す。彼はこの率直さが好きだった。正直なものを、彼は愛した。


 それだけに、このベートーヴェンに訪れた運命は、彼にとって耐えがたいものだった。




 ある日彼は、この良き友の様子がいつもと少し違うことに気が付いた。


 いつものようにピアノの前に座り、彼は最初の一音を出した。すると普段は彼の力に素直に反応してくれるピアノが、心なしかいつもより小さい音を返してくる。不思議に思ったベートーヴェンはもう一回鍵盤を押してみた。


 部屋の中に音階が響く。やはり聞き間違いではない。音が小さくなっている。彼は慣れ親しんだ曲を弾いた。今度の演奏で披露する予定の新曲を弾いた。どれもこれも、わずかな違いではあるが、確実にいつも聞いている音より弱く響く。彼は目の前にあるピアノを長いこと見た。



 

 ここからベートーヴェンの長い苦難の日々は始まった。


 彼の聴力は日増しに弱くなっていった。耳が聞こえなくなる。それは音楽家であるベートーヴェンにとって、死の宣告にも等しい出来事だった。彼は苦しんだ。


 ベートーヴェンは何人もの医者にかかり、耳が回復する希望を持っていた。しかし六年の歳月の後、彼はこの病気に回復の見込みがないことを認めざるを得なくなった。


「なんという屈辱だ、なんというみじめさだ!私はもはや自分の優れていた聴覚をもたない。その弱点を、どうして人々の前にさらけ出すことができようか?」


 ベートーヴェンは都会から田舎にこもって、人に会わずに過ごすようになった。他の人には聞こえているはずの音が、自分には聞こえない。このことが、ベートーヴェンにとってはいっそう辛いことだった。


 彼を暗い考えから引き留めていたものは、ただ「芸術」への執念ということに尽きた。彼の中から、音楽は去らなかったのだ。


「勇気を出せ。たとえ肉体にいかなる欠点があろうとも、わが魂は、これに打ち勝たねばならぬ。結局私は、自分が使命を自覚している仕事をし遂げないではいられないのだ」


 これがベートーヴェンの出した結論だった。ベートーヴェンの苦しみが消えたわけではない。しかし彼は、もっと大きなものに突き動かされるようにして、何回も何回も楽譜を書き直しながら、綺羅星のような作品を次々と残していった。




 その中のひとつに交響曲第九番、通称「第九」があった。


 第九はそれまでの音楽にはない、斬新な形式をしていた。これが聴衆にどう受け取られるかは、実際に披露するまで誰にも分からなかった。


 そんな中、いよいよ発表の時はきた。




 演奏が終わったとき、指揮者の隣にいたベートーヴェンは何も聞えなかったので、この曲が失敗したと思った。


 その時、歌唱者の一人がベートーヴェンの手を取って、後ろを振り向かせる。するとそこには、立ち上がって帽子を振り、感激を持って喝采を送る聴衆の姿があった。彼の音楽は大成功を収めたのだ。もはやベートーヴェンの耳は完全に聞こえなくなっていた。だが、彼は心の中に素晴らしい音楽をいくつも響かせており、聴取はそこから出来た曲に雷鳴のような拍手を浴びせたのだった。




 難聴という耐え難い苦しみを乗り越え、数々の傑作と言われる作品を生み出してきたベートーヴェン。


 最後にこの偉大な音楽家は、次のような言葉を残した。




「苦悩を突き抜け歓喜に到れ!」

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