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第68話 年末の家族の交差点

 大晦日、屋敷の空気はいつもとは少し違っていた。年末の忙しさもひと段落し、家族で穏やかに過ごせる時間だった。

 空気が冷たかった。窓ガラスが、うっすらと曇っている。意味のない観察だが、そう思った。

 北園兄妹は、「外で夕食を取ってくる」と言い残し、外出した。気を使ってくれたのだろう。そのおかげで、久しぶりに家族だけでの夕食となった。

 テーブルには、豪華すぎず、しかし品のある料理が並ぶ。おせちの黒豆が、つやつやと光っている。年末特有の静けさの中で、家族の会話がゆったりと交わされた。

 箸で掴んだ煮物が、ほろりと崩れた。

 出汁の香りが鼻腔をくすぐる。

 食事を進めていると、父がふと口を開いた。

 父の箸が止まった。かちんと、器に当たる音がした。

「士官学校からは、技官の役割も担ってもらっていると聞いているが、どうなんだ?」

 父らしい、淡々とした問いかけだった。でも、目が真っ直ぐこちらを見ている。

「まあ、普通の理系の大学に行ってたら……」

 一瞬、どう説明すべきか迷った。舌が、口の中でもたつく。

「経験できないことを任せてもらっている。技術も身についているから問題ないよ」

 俺がそう答えると、父は短く頷いた。何か言いたそうな表情を一瞬見せたが、それ以上は何も言わなかった。

「お前が満足しているなら、それでいい」

 父のその言葉が、なぜかとても重く感じられた。

 満足——俺は本当に満足しているのだろうか?

 味噌汁を一口飲む。温かさが、喉を滑り落ちていく。

 だが、その沈黙の中に、言葉にならない何かがあった。俺にもよくわからない、暖かいような、重いような。

(ここで、普通の授業は免除され、レポートで済ませていること、定期試験で上位10%に入っていること、シミュレーター訓練で北園に勝ち越せば主席で卒業が決まっていることを伝えたら、どう反応するだろうか? いや、父のことだからもう知っていてもおかしくないか……)

 そんなことを考えながら、数の子を口に運んだ。プチプチとした食感が、口の中で弾ける。

 母は少し寂しそうな顔をしながら、玲奈を見つめた。箸を置く手が、かすかに震えている。

「4月には玲奈も寮生活だから、さみしくなるわね」

 声が、いつもより高い。

 玲奈はそんな母の言葉に、明るく答えた。

「大丈夫よ。卒業したら情報本部希望だから、屋敷から通えるし」

 俺の箸が、宙で止まった。

 味噌汁の湯気が、ゆらゆらと立ち上る。

 耳の奥で、血流の音が響いた。

「待て! 今、玲奈は情報本部と言ったか?情報分析官希望か?」

 玲奈は、きょとんとした表情で俺を見る。目を大きく見開いて。

「そうよ、いけない?」

 少し……いや、かなり不満そうな顔だった。頬が、ぷくっと膨らむ。

「そうよ、いけない? 私なりに考えたんだから。研究職に就くことも考えたけど、お兄様を見てると自信なくしそうだから、女性でも不利のなさそうなのと内勤だし、腕力も必要ないから女性向きの職を選んだだけ。間違っている?」

 俺は驚いた。喉の奥が、からからに乾く。

 それでも、冷静に返そうとした。

「いや、そういう意味では間違っていないが、大丈夫なのか? その機密情報に携わることになるが……」

 そのやり取りを聞いていた母が、少し心配そうに俺に尋ねる。顔色が、心なしか青ざめている。

「義之、危険な職種なの?」

「いや、実戦とかの任務には就かないので直接の危険はないんだけど……」

 言葉を濁す。本当のことを言えば、母はもっと心配するだろう。

「情報分析官は機密情報を扱うから本当に厳しいからな。無理そうなら早めに進路変更しろよ」

「うん……」

 玲奈は少し考えるように間を置いた。視線が、一瞬宙を泳ぐ。

「ありがとう、お兄様。ちゃんと先輩や指導教官とも相談してみる。お兄様も当てにしているから」

 その言葉に、胸の奥で何かがちくりと痛んだ。

 玲奈がなぜ文系を選び、情報分析官を志望したのか。

 本当にそれでいいのだろうか? 一瞬、そんな疑問が頭をよぎった。

 いや、違う。俺は彼女の決断に驚くとともに、しっかりと考えた上での選択だったのだと……そう信じたかった。

「玲奈、本当に大丈夫なの?その、結婚する時に差し障りが有ったりしない?」

 母の声が震えていた。

「お母さま、結婚なんて早すぎます!」

 玲奈が頬を赤らめて抗議する。

「それに情報分析官の結婚相手なら情報本部の調査員が直接調べますから興信所に頼むより余程確かです」

 玲奈が笑って答えるが母は、まだ不安そうだったらしく、静かに玲奈に言った。ティーカップを持つ手が、小刻みに震えている。

「玲奈、士官学校が無理だと思ったら無理せず戻ってきなさいね。来年、普通の大学に進めばいいのだから」

「大丈夫だってば」

 そう言う玲奈の顔に、一瞬、不安の影がよぎったように見えた。

 でも、きっと気のせいだろう。

 玲奈は少し不満げにそう言った。だが——

「情報分析官になってお兄様の技術を守りたい!」

 玲奈の手が、テーブルの上でぎゅっと握られた。

 関節が白くなるほど、強く。

 玲奈の瞳に、俺は見たことのない光を見た。

「お兄様を守るためなら何だってする!」

 その声は震えていたが、決意に満ちていた。肩が、小刻みに上下している。

 ただ、玲奈の震える肩に、そっと手を置くことしかできなかった。温かい。でも、震えが手のひらに伝わってくる。

 本当の理由は、まだ全部聞けていない気がした。

 玲奈にも、きっと言えない何かがある。

 でも、今はそれでいい。

 指先が微かに震えた。緊張しているわけじゃない。ただ、震えた。

 しばらく一緒に生活していなかったから気づかなかったが、玲奈も玲奈なりに、将来についてしっかりと考えていたのだ。

 俺はその成長を感じながら、静かに夕食の時間を過ごした。

 何を考えているのか、自分でもよくわからなかった。

 玲奈を守りたい。でも、守られているのは俺の方かもしれない。

 そんな矛盾した気持ちが、胸の奥でざわついていた。


***


 玄関のドアが開く音。冷たい外気が流れ込んできた。

「ただいまー」

 北園の声が、少しかすれている。

 北園兄妹が外で夕食を済ませ、夜遅くに屋敷へ戻ってきた。

 玄関で靴を脱ぎながら、北園が大きく伸びをする。背骨がポキポキと鳴った。洋子もその後に続き、「ふぅ、やっぱりこの家は広いわね」と感嘆の声を上げた。

「おかえり、ちょうどいいところだったな」

 義之が迎え、4人でのパーティーゲームを始めることになった。

 リビングの暖かい空気が、冷えた体を包み込む。

 ゲームを進める中、北園が手に持ったピザを頬張りながら言った。チーズが、びよーんと伸びる。

「しかし、お前の家、本当にすごいな。ピザを焼ける釜まであるのかよ」

 口の端に、トマトソースがついている。

「うちなんてピザ屋の配達圏外だから、めったに食べられないのよね。兄貴」

 と洋子さんが続く。手についたチーズを、ぺろりと舐めた。

「行儀悪いぞ、洋子」

「だって美味しいんだもん!」

 北園も同意するように頷いた。

「あぁ、しかも年末年始まで使用人が24時間いるなんてな」

 苦笑しながら説明した。

「俺たち家族は休みにしても問題ないんだが、代々仕えている使用人たちが『こういう時こそ私たちが』と張り切るからな」

「それに、年末年始は特別食で給金も割増がつくから、勤務希望者が多くてな。交代制で休暇を取るんだ」

 北園はピザをもう一口食べながら、感心したように言った。

「へぇー、うちの親父にも聞かせてやりたいな。『年末年始くらい家族で過ごせ』って怒鳴るタイプだから」

 洋子さんが吹き出した。

「あー、それで実家に帰りたくなかったのね」

「うるさい」

 兄妹の掛け合いに、思わず笑ってしまった。

 ゲームを続けていると、屋敷の外から除夜の鐘の音が聞こえてきた。

 低い響きが、胸に染み込んでくる。

 窓ガラスが、かすかに震えた。

 時計を見ると、針は0:00を指していた。

「新年だな……」

 誰からともなく、立ち上がった。

「「「「あけましておめでとう。今年もよろしく!」」」」

 4人、自然と声を揃えて新年の挨拶を交わした。

 玲奈が嬉しそうに飛び跳ねる。

「今年から士官学校生よ!」

「そうだな、後輩ができるのか」

 北園が頭を掻きながら言う。

「優しくしてくださいね、先輩」

 洋子さんが敬礼の真似をした。手つきが、めちゃくちゃだ。

「それ、敬礼じゃなくてただの挙手だぞ」

 みんなで笑った。腹筋が痛くなるくらい。

 しばらくの余韻を楽しんでいると、北園が言った。

「俺たち兄妹は適当にやっているから、元日は家族水入らずでやってくれ」

 少し考えて

「あぁー分かった。そうさせてもらうよ」

 と頷いた。

 年が改まり今年の予定を頭の中で整理しながら玲奈の頭に手を置くと、玲奈は振り払う訳でも嫌がるそぶりもせずにさも当然の様に歩き出した。

 髪が、さらさらと指の間を抜けていく。

 まぁ口では言い合いになる事もあるが、玲奈の自慢の兄貴である事は止められないなと深く誓った。

 新しい年が始まった。

 何が変わるのか、まだわからない。でも、何かが確実に動き始めている。

 そんな予感だけが、胸の奥に残った。

 除夜の鐘の余韻が、まだ空気の中を漂っていた。

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