第67話 年末の祝宴と未来への一歩
士官学校のクリスマスパーティーに出席するのは、今年が初めてではない。しかし、AIの改善要求がまとまり、次回の試験に向けた準備が完了したことで、今年は余裕を持って参加することができた。士官学校の普段の生活は厳格な規律のもとで成り立っているが、こうしたイベントの際は息抜きとして楽しむことが許されている。
華族のパーティーに比べれば質素なものではあるが、それでも仲間と共に過ごす時間は貴重だ。
会場を見渡していると、ふと片隅で飲み物を手にしながら浮かない表情をしている北園の姿に気がついた。グラスを握る手に、妙に力が入っている。
「北園、浮かない顔をしているがどうした?」
声を掛けると、北園はこちらを見た。それから、深いため息をついた。肩が、がくんと落ちる。
「あぁ、上杉か。ちょっとな……洋子が大学に行かず、士官学校に行くと言って親に内緒で試験を受けてな。それで親と口論になって、年末年始休暇で家に帰るのが気が重くてな」
北園の妹・洋子さんも士官学校を受験していたとは知らなかった。親に内緒で試験を受けるとは……なかなかの行動力だ。
「なら……」
一瞬迷った。また誘うのは、お節介すぎるだろうか? 舌が、口の中でもたつく。
「またうちに来るか?妹さんも一緒に来ていいぞ」
その提案に、北園は一瞬戸惑ったようだった。何も言わず、グラスの中の液体を見つめている。氷がカランと音を立てた。
「いや、そう何度もお前の家に世話になるのも悪いだろう。年末年始だし」
遠慮がちにそう言った。声が、いつもより小さい。
「気にするな。以前も言ったが、うちの家は来客が多い。年末年始を日本で過ごす海外からの来客もいるから、遠慮することはない」
しばらく沈黙があった。北園は何か考えているようだった。指先で、グラスの縁をなぞっている。
「すまん……」
やがて、申し訳なさそうに口を開いた。
「そうさせてもらえるなら、ありがたい」
言い終わると、北園の表情が少し和らいだ。胸の奥で、何かがふわりと軽くなった気がした。
***
年末年始休暇に入る前に、士官学校の合格発表が行われた。北園の妹・洋子さんと玲奈、二人とも無事に合格していた。
士官学校の年末が近づくと、寮内の雰囲気もどこか浮ついたものになる。普段は規律正しく行動する士官候補生たちも、長期休暇が目前に迫ると、さすがに気が緩むのか、寮内での会話も増え、表情も柔らかくなる。廊下を歩く足音も、心なしか軽い。
そういえば……ふと思い出した。
「北園、お前はクリーニングに出した制服を一着持ってこい」
「なんでだ?」
「うちは年末にホテルの広間を借り切ってパーティーをしてるからな。制服ならドレスコードに引っかからない」
北園の口が、ぽかんと開いた。
目を瞬かせること数回。やがて、額に手を当てた。
「なるほどな……」
しばらくして、ようやく頷いた。喉が上下に動く。
「年末にパーティーなんて凄いな。華族はどこもそうなのか?」
「いや、年末にパーティーをする家はそう多くない。うちは曽祖父から始めているが、経営しているグループも大きいし、数少ない例外だ」
北園は納得したような、それでもまだ信じられないような表情を浮かべていた。口元が、微妙に引きつっている。なんだか、笑えてきた。
***
翌日、年末年始の休暇に入り、北園とともに屋敷へ帰ることになった。
玄関のドアが開く音がして、玲奈が飛び出してきた。
髪がふわりと揺れる。いつもより少し大人っぽい香水の匂いがした。
「お兄様、お帰りなさい!」
声が弾んでいる。頬が、ほんのりと赤い。
「玲奈、合格おめでとう。でも、来年入学したら先輩・後輩になるんだから、けじめはしっかりつけろよ」
そう言うと、玲奈は少し膨れっ面をしながら抗議する。頬が、風船のように膨らんだ。
「もうー、お兄様、私だってもう子供じゃないんだから、士官学校がそういう場所だって解っています」
その反応に……笑ってしまった。肩の力が抜ける。
「そうか、それは悪かったな」
玲奈はしっかりしているつもりでも、まだまだ子供だ。でも、彼女なりに成長し、新たな世界に踏み出そうとしているのだろう。
北園も「玲奈さん、おめでとう。俺の妹も合格していた。同期になるからよろしくな」と声をかける。
「洋子さんもですか?それは楽しみですね!」
玲奈の目が、きらきらと輝いた。
洋子の到着は翌日。玲奈と体格が似ているため、玲奈のドレスを借りてパーティーに出席することになっていた。
明日の準備を整えながら、にぎやかになりそうな年末を楽しみにしていた。新たな仲間が増え、これからの士官学校生活がますます面白くなりそうだと思いながら、二人の合格を祝福した。
***
ホテルの広間を借りて、年末の立食パーティーが盛大に開かれた。
会場に足を踏み入れた瞬間、熱気が頬を撫でた。
香水とワインの匂いが混じり合い、鼻腔をくすぐる。シャンデリアの光が、ドレスのスパンコールで乱反射している。どこかでピアノの生演奏が流れていた。
士官学校での質素なクリスマスパーティーとは違い、このパーティーは格式があり、華やかな雰囲気に包まれていた。
北園はそんな会場を見渡しながら、グラスを持つ手が、かすかに震えている。
「お前の家が凄いのは知っていたが、こんなに豪華なのか」
声が、少し上ずっていた。
「まぁな、うちは儲けているから使えるところで使わないとケチと思われるからな」
軽くそう返すと、北園は苦笑しながらも納得したようだった。肩の緊張が、少しほぐれたように見える。
シャンパンの泡が、喉を心地よく刺激する。冷たさが、食道を滑り落ちていく。
しばらくして、美樹さん、沙織さん、千鶴さん、真奈美さんが同じテーブルに合流した。4人とも華やかに着飾っており、それぞれに似合っていることを伝えると、彼女たちはそれぞれ微笑みながら礼を言った。
別のテーブルでは、玲奈と洋子さんが楽しそうに談笑している。身振り手振りを交えながら、時折大きく笑う。洋子さんの頬が、興奮で上気している。
オードブルのパテが、舌の上でとろけた。濃厚な味が、口いっぱいに広がる。
その様子を見ながら、北園がふと呟いた。
「こんな盛大なパーティーに呼ばれるのは、これが最後かもしれんな」
それを聞いた千鶴さんがすかさず反論する。フォークを置く音が、カチンと響いた。
「北園君、何言っているの。貴方も海軍なんだから、国外に行ったら立食パーティーなんて何度もあるわよ」
「4年生になったら海軍は国際プロトコールは必修科目よ」
と美樹さんも続ける。
「国際プロトコール?」
北園が首をかしげる。額に、うっすらと汗が浮かんでいた。
「外交や貴族間の礼儀作法だよ」
「俺は華族じゃないし、外交なんて関係ないぞ」
北園が困惑している。眉間に、深いしわが寄った。
沙織さんが笑いながらとどめを刺す。
「あら、北園君、海軍は一人一人が外交官だって習わなかった?」
「うー……」
北園が反論に困って、うめき声を上げた。耳まで赤くなっている。
「別に難しいことじゃない。ただ……」
言葉を探すように間を置く。
「席次とか、挨拶の順番とか……カトラリーの使い方とかで、異文化尊重と相互理解、答礼主義、序列、右上位、レディファーストの5大原則が守られていればいいだけだ」
「若い内から起業して伸し上がった実業家や政治家が侮られるのも、そういうことができていない人が多いからだ」
北園はまだ納得していないようだが、興味はあるらしい。身を乗り出してきた。
「上杉は詳しいのか?」
「うちは海外の貴族との親交も深いからな。言語とプロトコールは初等科の頃から習わされた。プロトコールは、外交・軍事・社交全ての細かいものを含めると膨大な数があるから大変だぞ」
「まさか、上杉はその全てを記憶しているのか?」
北園の声が、裏返った。
「さすがに全部は覚えきれないよ。でも恥をかかない程度には覚えているよ」
すると、真奈美さんが得意げに微笑む。
「義之君のプロトコールは完璧だものね」
その言葉に、テーブルが笑いに包まれた。誰かがワインをこぼしそうになり、慌ててグラスを置く音がした。
北園が余程心配したのか、額の汗を拭いながら聞いてきた。
「俺も使う機会があるのか?」
「親善訪問や共同演習があるだろう。軍人同士のプロトコールもあるから必ず使うぞ」
と脅すと、北園の顔が青ざめた。
テーブルはさらに笑いに包まれた。笑い声が、天井の高い会場に響く。
***
華やかなパーティーの熱気が少しずつ落ち着き、会場の雰囲気も穏やかになってきた。
足元から、じんわりと疲労が這い上がってくる。立ちっぱなしの時間が長かったせいか、ふくらはぎが重い。
食事を終えた人々が歓談を楽しみ、時折笑い声が響く。玲奈と洋子もすっかり打ち解け、テーブルを移動しながら楽しそうに会話を続けていた。洋子さんは思っていたより活発な性格らしく、すぐに玲奈と打ち解けていた。二人の笑い声が、シャンデリアの下で弾けている。
グラスの中で、シャンパンの泡が静かに消えていく。
「こうしてみると、俺たちもいよいよ大人の世界に足を踏み入れるんだな……」
北園がグラスを片手にそう呟いた。声に、微かな震えがあった。
「お前はまだ正式な場に出たことがないだけだ。そのうち慣れるさ」
笑いながらそう答えた。でも、喉の奥が妙に乾いていた。
この一年は、多くの変化があった。士官学校での生活、AIの開発、玲奈や北園の妹・洋子さんの合格、そしてこの年末のパーティー。こうした節目のひとつひとつが、俺たちを成長させていく。
美樹さんが静かにワイングラスを傾けながら、遠い目をして呟いた。
「みんな、それぞれの道を歩んでいくのね……」
その言葉に、テーブルが一瞬静寂に包まれた。誰かの息を呑む音が、かすかに聞こえた。卒業を控えた美樹さんにとって、この時間がどれほど貴重なものかを理解していた。
でも、本当にそれでいいのだろうか? 一瞬、そんな疑問が頭をよぎった。胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
千鶴さんが微笑みながら口を開く。グラスを置く手が、かすかに震えていた。
「でも、絆は変わらないわ。みんな、ここから始まったんだもの」
「そうだね」
と沙織さんも頷いた。眼鏡の奥で、目が潤んでいるように見えた。
「どんなに離れていても、私たちは仲間よ」
真奈美さんがそっと俺を見つめ、小さく微笑んだ。その視線を受けて、胸の奥で何かがくすぐったく動いた。
何を考えているのか、自分でもよくわからなかった。ただ、鼻の奥がツンとした。
「来年からは、また新しい挑戦が待っているな……」
そう言うと、テーブルの皆が静かに頷いた。
パーティーはまだ続いていたが、すでにそれぞれの未来へ向けて思いを馳せていた。
シャンデリアの光が揺らめく中、この瞬間が永遠に続けばいいのに——誰もが心の奥で願っていたことを、言葉にする者はいなかった。
空気が重かった。
肺に入ってくる空気が、妙に濃く感じられる。
誰かの笑い声が、遠くで響いた。
でも、それすらも遠い世界の出来事のように思えた。




