閑話 二条帝国の崩壊
二条家と上杉家の経済戦争は、第2幕に突入していた。
株式と委任状の取り合い。※1ストップ高の最終日を基準に購入価格を決めた上杉グループは、市場の動向を巧みに利用し、※2BOTを駆使して買収攻勢を仕掛けていた。
「報告です! メインバンクが、上杉グループに委任状を正式に渡したそうです!」
突然の報告に、場の空気が凍りついた。誰かの呼吸が止まる音が聞こえたような気がした。
「なんだと! 裏切るのか!」
二条侯爵は持っていたグラスを床に叩きつけた。クリスタルが砕ける音が鋭く響く。飛び散った破片が、靴に当たる。赤ワインが大理石の床に血のように広がった。
「……高騰した後の価格ではとても買取できません」
財務担当の重役が搾り出すように言う。喉が締め付けられているような声だ。額に脂汗が浮かんでいる。シャツの襟元が湿っていた。
市場はすでに二条家にとって不利な方向へと動いていた。
「※3第三者割当増資では?」
誰かが震え声で提案する。
「誰が受けてくれるんだ。既存株主が納得しまい」
別の役員が首を振る。その動作が妙にゆっくりに見えた。
「新規株の発行も模索するも既に上杉グループが1/3以上握られている以上、※4株主総会で承認されまい」
肩が落ちる。重力に負けたように。
「外資に頼るか?」
声が上ずっている。
「しかし、外資に頼っても経営者交代は避けられない。下手をすると海外資本に日本企業を売り渡した事で心象を悪くして爵位に影響も出かねない」
誰かがそっと呟いた。唇が青白い。
「もう、終わりだ。打つ手がない」
小声だったにもかかわらず、その言葉は異様に辺りに響いた。全員の背筋が凍る。まるで死の宣告のように。
二条侯爵の表情が一瞬で険しくなり、怒声が轟く。顔が真っ赤に染まっている。こめかみの血管が脈打つ。
「お前らは能無し揃いか! もっと有効な策を考えろ!」
唾が飛ぶ。机を叩く音が部屋を震わせる。
しかし、部屋にいる誰もが気づいていた。視線を合わせようとしない。足元を見つめる者、窓の外を眺める者。
二条侯爵は、自分が誤った決断を下したと頭の片隅で分かっていながらも、意地と誇りがそれを許さなかった。拳に力が入る。爪が掌に食い込む。目先の株価高騰に気をよくして、市場に大量に放出したのは二条侯爵自身だ。
ここにいる誰もが呆れつつも、そのことを口に出せない。喉に言葉が詰まっている。まるで見えない鎖に縛られているかのように。
一族や関連グループも、「市場が落ち着いてから買い直せばいい」という安易な考えで売却していた。その隙を狙われて二条家単独で1/3以下の持ち株では、拒否権すら行使できない。
まるで市場を操る悪魔のような上杉グループの動きに、誰もが冷や汗を流していた。背中がじっとりと濡れている。
二条侯爵以外の誰もが、二条製鉄の買収という未来を見据えていた。
その時、1人の取締役が懐から封筒を取り出した。紙が擦れる音が、やけに大きく聞こえる。長年二条家のために尽くしてきた古参の取締役・安藤が立ち上がった。椅子が軋む。
「申し訳ありませんが、私はこれ以上この戦いに付き合えません」
そう切り出すと、重苦しい沈黙の中、彼はゆっくりと部屋を後にした。革靴が大理石を踏む音が、葬送曲のように響く。
それに釣られ、さらに2人が封筒を出し、この場を去った。扉が閉まる音が、決別の音だった。
「では——」
その言葉が、残された者たちの胸をえぐるように響いた。息を呑む音がする。
二条侯爵の膝がガクリと折れそうになる。机に手をついて、かろうじて体を支えた。
「…まだだ、終わるはずがない…この俺が負けるはずが…!」
声が枯れている。喉が焼けるように痛い。しかし、その言葉は虚しく部屋に響くだけだった。
でも、本当にそうなのだろうか? 一瞬、現実を受け入れそうになって、慌てて首を振る。
その時、さらに悪い報せが入り、秘書が震える声で告げる。携帯電話を持つ指が白くなっている。
「さらに悪い報せが入りました。上杉グループが追加資金を調達し、さらなる買収を仕掛ける構えのようです」
重苦しい沈黙が続く中、誰もが次なる展開を恐れずにはいられなかった。時計の針の音だけが、異様に大きく響いていた。まるで処刑までの秒読みのように。
***
そして翌朝。
東京地検特捜部が※5証券取引法違反や脱税の容疑で二条製鉄の各拠点を家宅捜索した。黒塗りの車列が本社前に静かに停まり、捜査官たちが次々と降り立つ。革靴がアスファルトを踏む音が揃っている。
「東京地検特捜部だ! 令状を確認しろ!」
鋭い声が響き、待ち構えていた警備員たちが色を失った。顔面が蒼白になる。無線機を握る力が抜けた。扉が開かれ、捜査官たちが次々と社内に流れ込む。
社内では役員たちが電話をかけまくっていた。受話器が汗で滑る。
「法務部! すぐに対応を——」
「ダメだ! もう全員拘束された!」
声が裏返る。
次々にパソコンの電源が落とされ、書類が押収される。段ボール箱が積み上げられていく音。秘書室では女性社員が泣きながら机に伏せていた。肩が小刻みに震えている。嗚咽が漏れる。
同時に、メディアはこの騒動を一斉に速報した。
「二条財閥、ついに崩壊か?」
「日本の産業史に残る経済犯罪」
各新聞の一面を飾る見出しは、二条家の名誉を完全に破壊していった。インクの匂いが、破滅の匂いのように感じられる。
SNSでは「#二条財閥崩壊」「#脱税王」がトレンド入りし、
「税金を払わない華族なんていらない」
「そもそも華族って税金で食ってるんじゃ?」
「↑それな。税金貰って脱税とか二重取りじゃんwww」
「国民の敵」
といった辛辣なコメントが飛び交っていた。スマートフォンの通知音が鳴り止まない。まるで弔鐘のように。
***
「やはり計画通りだな」
一方、上杉グループ本社の最上階、会長室に集まった幹部たちは、静かに進行中のニュース映像を見つめていた。大型モニターの光が、彼らの顔を青白く照らす。
その中央に、上杉義之が座っていた。まだ士官学校の制服姿のままだ。
「政府は完全に二条家を切り捨てた。我々の勝利は確実だ」
幹部の一人が、コーヒーカップを置く。カチャリという音が響く。
「……しかし、問題は次だ。二条家の崩壊後、業界全体のバランスをどう保つか」
別の幹部がそう口にすると、室内の空気は引き締まった。全員の背筋が伸びる。椅子に座り直す音がする。
義之が初めて口を開いた。声は落ち着いているが、瞳の奥に鋭い光が宿っている。
「二条製鉄の従業員に罪はない。彼らの雇用は守る。ただし、経営陣は総入れ替えだ」
その言葉に、幹部たちが頷く。安堵の息が漏れる。
「二条製鉄の弱点は経営体質が旧態依然だったのが問題だ。設備を近代化して財務体質を強化すれば買い手はいる。所詮、うちのグループの本業ではない。株価が高値で安定した時に売れば元手は充分回収できる」
冷静な分析が続く。だが、義之の表情は複雑だった。勝利の喜びはない。ただ、必要なことをしただけという顔だ。眉間に、かすかな影が落ちている。
***
その頃、二条本家の屋敷では。
「お父様、もうおしまいです! 早く海外に逃げましょう!」
二条侯爵の長男である二条徹は、涙ながらに父に懇願した。頬を涙が伝う。鼻水も混じっている。父の袖を掴む指に力が入る。
そこへ、二条侯爵の娘・美咲が駆け込んできた。
「お父様! 警察が屋敷の前に!」
彼女の顔は青ざめ、息が上がっている。着物の裾が乱れているのも気にしていない。額に汗が光る。
「馬鹿を言うな! 二条家がこの国を去るなど……」
侯爵の声に、もう以前のような威厳はない。掠れた声が、空虚に響く。まるで枯れ木が風に揺れるような、力のない声だった。
「お父様、もうやめて!」
美咲が父の腕を握る。その手は氷のように冷たかった。
「私たちのせいで、どれだけの従業員が路頭に迷うと思っているの? もう十分よ。これ以上、恥を晒さないで」
娘の言葉に、侯爵の顔が歪む。唇が震えた。
「もうそんな誇りにしがみついている場合ではないんです! 叔父上も資産を持ち逃げしました。もはや我々には何も……!」
その瞬間、二条侯爵の目から光が消えた。瞳孔が開いたまま、焦点が合わない。膝から力が抜ける。椅子に崩れ落ちた。
すべてが終わったのだ。
静かに屋敷の窓から外を眺めていた。ガラスに映る自分の顔が、他人のように見える。老いた顔。敗者の顔。頬がこけ、目の下に深い隈ができている。
「これが……私の結末か……」
その声は、誰にも聞こえなかった。喉の奥で消えていく。
風が窓を揺らしている。カタカタという小さな音だったが、やけに大きく響いて聞こえた。まるで死神が扉を叩いているかのように。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れていく。誇りか、希望か、それとも——
一つの時代が終わり、新しい時代が始まろうとしている——その瞬間だけが、静寂の中に残っていた。
二条侯爵の手から、先祖代々の印鑑がコトリと床に落ちた。まるで王冠が転がり落ちるように、虚しい音を立てて。
***
※1 ストップ高:一日の値上がり幅の上限に達した状態
※2 BOT:自動売買プログラム。市場で自動的に取引を行うシステム
※3 第三者割当増資:特定の第三者に新株を割り当てて資金調達する方法
※4 株主総会:株式会社の最高意思決定機関
※5 証券取引法違反:株式取引に関する法律違反。インサイダー取引や相場操縦など




