閑話 二条家凋落の始まり
低迷していた二条製鉄の株価が高騰し、市場の注目を浴びてから数週間が経った。
株価は連日※1ストップ高を記録し、一般投資家の間でも話題となる。
「この勢いなら、我が二条製鉄は再び鉄鋼業界の頂点に立つ」
二条侯爵はワインを傾けながら豪語した。赤い液体が喉を滑り落ちる。アルコールが血管を広げ、顔が熱を帯びた。
彼はかつて伝説的な活躍を見せた『秋葉原の奇跡を築いた男』上杉義弘に憧れていた。しかし、自分がどう足掻いても彼に及ばないと知った時、憧れは憎悪に変わった。胸の奥で黒い炎が燃え上がる。
「この資金をもとに、保守派の影響力を再編する」
グラスを握る力が増す。クリスタルが軋む音がした。
「爵位を奪い、上杉家を政治の場から排除する。やはり、我々伝統ある華族こそが国を導くべきなのだ。貴族院も儂のいう事を聞くはずだ」
彼は市場が自分の思い通りに動いていると信じて疑わなかった。瞳孔が興奮で開いている。まるで賭博に酔いしれる者のように。
しかし、ラウンジの片隅で、一部の投資家たちは違う見方をしていた。煙草の煙が天井に向かって立ち昇る。
「侯爵の様子はどうだ?」
「ご満悦のようだな。自分の影響力を過大評価している」
男たちの口元に、冷たい笑みが浮かぶ。
「所詮は世間知らずの華族だな。それで上杉グループと張り合おうとは」
「……ならば、そろそろ次のフェーズに移るか」
市場の一部では、二条製鉄のバブル崩壊がすでに予測されていた。
その一方で、二条家の古株の顧問たちは侯爵に助言をしようとしたが、彼は耳を貸そうとはしなかった。顧問の額に汗が滲む。
「市場は今、我が二条家に注目しているのだ。何を恐れることがある?」
顧問たちは互いに顔を見合わせ、肩を落とした。やがて誰も進言する者はいなくなった。
足音が廊下に響く。逃げるような、早足の音だった。
家令が再び耳打ちする。唇が小刻みに震えている。
「侯爵様、このまま株を保持し続けるのは危険かと」
「何を言う。二条製鉄の価値はまだまだ上がる」
侯爵の声が部屋に響く。家令の背筋に冷たいものが走った。
「しかし、上昇の勢いが鈍っております。一般投資家が熱狂している間に、我々は一部を売却して現金化するべきです」
(侯爵様、すいません……)
心の中で謝罪しながら、家令のポケットが重い。スマートフォンが罪悪感のように熱を持っている。
そこに経営コンサルタントも加わった。眼鏡の奥の瞳が、計算高く光る。
「市場というものは、感情で動くものです。今の株価は一時的な熱狂に過ぎません。冷静に考えれば、現在の評価額は実態を反映しておりません」
「売却して、資本を別の事業に回すのが得策です」
二条侯爵は一瞬考え込む。眉間に皺が寄る。先日の取引で株式の51%を切った。しかし、他の保守派華族や一族の保有分を含めればまだ、余裕がある。
でも、本当にそれでいいのだろうか? 胃の奥で何かがざわめく。
結局は売りに出すことにした。ペンを握る指が、わずかに躊躇った。
「二条製鉄の価値は本物だ。我が家の伝統が、二条製鉄の価値を押し上げているのだ。市場がやっと価値に気が付いただけだ」
彼の誤算は、市場が「伝統」ではなく「利益」で動いているという単純な事実を理解していなかったことだった。
さらに、保守派の他の華族家が徐々に二条家から距離を取り始めていた。彼らは上杉家と表立って対立するよりも、合理的な判断を下し始めたのだ。電話の着信音が、次第に少なくなっていく。まるで潮が引くように、静かに、確実に。
***
数日後、最初の異変が市場を襲った。
二条製鉄の株価が、突如として大幅に下落したのだ。モニターの数字が真っ赤に染まる。
「ストップ高が続いていたのに、突然の売り圧力か……?」
トレーダーの顔から血の気が引いた。頬が土気色に変わる。
「これは……誰かが大量に売りを仕掛けている」
キーボードを叩く音が、パニックのリズムを刻む。
市場の動向を監視していた投資家たちは、ある異変に気づいた。
「まさか、二条家自身が売りに回ったのでは?」
その疑念はすぐに確信へと変わった。画面に映る取引履歴が、真実を物語っていた。
「侯爵様、大量の売りが入っています! しかも、一度に大量の株式が市場に放出されています!」
使用人の言葉に、二条侯爵はワイングラスを握りつぶしそうな勢いで立ち上がった。赤ワインがテーブルクロスに飛び散る。まるで血しぶきのように。
「バカな! 誰が売っている!?」
声が裏返った。喉が締め付けられる。
「私たち以外に一族や関連メーカーも同じタイミングで」
しかし、もはや手遅れだった。
市場は冷徹だった。二条製鉄が投機の対象として利用されていたことが明らかになった瞬間、投資家たちは一斉に手を引き始めた。売り注文の音が、葬送曲のように響く。
さらに悪いことに、内部からの裏切りが明らかになった。
「侯爵様……実は、家令が外部と接触していた形跡があります」
報告する使用人の膝が震えている。
「何……?」
侯爵の顔が青ざめる。こめかみの血管が浮き出た。
「どうやら、息子の不祥事の件で懐柔されていたようです。実刑を避ける為に被害者と交渉してもらったらしく。その代わりに、侯爵を売却へ誘導することを条件にしたと」
「奴を連れてこい!」
拳がテーブルを叩く。衝撃で肩が跳ねた。
「既に行方を眩ませました」
二条侯爵の顔が怒りで紅潮した。耳まで真っ赤に染まる。
「裏切り者め……!」
叫び声が、虚しく部屋に響いた。
さらに、経営コンサルタントの動きも露見する。
「全て、予定通りに。これ以上泥船に乗る気はありません」
彼が送ったメールの内容が流出し、二条製鉄内部の信頼関係が崩壊したことが市場にも伝わった。
さらにネット系ニュースに保守派のパーティでの二条侯爵の発言が盗聴されていたらしく流出すると、二条家へのバッシングも強くなった。スマートフォンの通知音が、悪意の連鎖を告げる。そしてメディアはここぞとばかりに過去、二条家の威光で闇に葬られていた事を暴き出す。
「市場がこれを知れば、投資家たちは二条製鉄から完全に手を引く……」
秘書の顔が土気色になる。唾を飲み込む音が聞こえた。
「今すぐ動きを止めなければ!」
しかし、もはや止められる状況ではなかった。電話が鳴り続ける。全てが悪い知らせだ。まるで弔鐘のように、ひっきりなしに鳴り響く。
そしてついに、市場は決定的な一手を打った。
『二条製鉄への※2株主代表訴訟が提起される』
「バカな……! これは私の会社だ! どう使おうと自由ではないか!」
二条侯爵は激怒したが、声が枯れ始めていた。腕を振り上げるが、もう力が入らない。膝が崩れそうになる。
市場は冷静だった。伝統ではなく、企業価値で評価される世界において、彼の時代錯誤な発言は致命的だった。
鼻の奥がツンとする。涙か、それとも——
そして、最悪のニュースが市場を駆け巡る。
『上杉グループ、二条製鉄の※3TOB(株式公開買付)を発表! 敵対的なTOBか?』
「二条製鉄への大規模投資、近代化を約束、役員の総退陣を要求へ」
モニターの文字が、死刑宣告のように見えた。
この発表に相場に踊らされた一般投資家も安心する。暴落しつつある今よりTOBなら購入価格より高く買ってくれる。しかも、暴落していた株価が再び買いに戻り、市場は騒然となった。
「馬鹿な!何としても上杉グループを抑えろ、あらゆる力を使って構わない」
侯爵の叫びが、断末魔のように響く。
「儂が間違っていたというのか?いやそんな事はない!」
老侯爵の手が微かに震えていた。ワイングラスが床に落ちて砕ける。赤い液体が、血のように広がった。
足元がふらつく。壁に手をついた。冷たい。全てが冷たい。
怒りなのか、恐怖なのか——本人にもわからなかった。
何もかもが崩れ去ろうとしている——その現実だけが、静寂の中に響いていた。
窓の外では、二条製鉄の看板が夕日に照らされて、まるで燃えているように見えた。
侯爵の息が荒くなる。心臓が早鐘を打つ。全てが終わった——その事実だけが、重くのしかかっていた。
***
※1 ストップ高:一日の値上がり幅の上限に達した状態
※2 株主代表訴訟:株主が会社に代わって役員の責任を追及する訴訟
※3 TOB(株式公開買付):企業の経営権取得を目的とした株式の大量買付け




