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閑話 市場を支配する者たち

 二条家でのパーティが開かれてからちょうど1週間後、株式市場は異様な熱気に包まれていた。

 東京証券取引所では、開場と同時に激しい売買が繰り広げられ、市場全体が活性化していた。モニターの数字が目まぐるしく変化する。トレーダーたちの指がキーボードを叩く音が、機関銃のように響く。

 その夜、高級ホテルのスカイラウンジで、株式トレーダーたちが集まるパーティが開催されていた。そこには、国内外の著名な投資家、トレーダー、ヘッジファンド関係者たちが顔を揃えていた。

 グラスを傾けながら、参加者の一人がぼそりと呟いた。シャンパンの泡が喉を刺激する。

「始まったな」

「……あぁ」

 男の視線が、窓の外の夜景に向けられる。瞳に東京の光が映り込む。まるで獲物を狙う鷹のような鋭さだった。

「先の見えない連中は愚かだな」

 

 その時、赤いドレスを着た女性トレーダーが割り込んできた。

「あら、もう始まってるの? 私も一枚噛ませてもらうわよ」

 彼女の手が電卓に伸びる。真っ赤なマニキュアが、血のように見えた。

「相変わらず嗅覚が鋭いな、麗華」

「当然でしょ。金の匂いがプンプンするもの」

 彼女は薄く笑った。その笑みは、冬の月光のように冷たかった。

 ここにいるのは、政治・経済の情報を武器に収入を得ている者ばかりだ。彼らの鼻は、金の匂いを嗅ぎ分ける。

 肩が前のめりになる。興奮が体を支配し始めている。

「二条侯爵の無策な一言が、保守派の一部を離反させた」

 この情報が流れると、トレーダー達の動きも変化し始めた。目つきが鋭くなる。

 市場に目を向ければ、二条製鉄の株価は大きく変動していないにもかかわらず、※1取引量が異常に増えている。

「誰かが……同じ価格帯で二条製鉄を買い続けているな」

 男がスマートフォンを操作する。画面の光が顔を青白く照らす。

「株価が変動しないように、か……」

 喉の奥が渇く。興奮のせいだ。

「となると、次は……」

 別の男が身を乗り出す。椅子が軋む音がした。

「次は※2株主代表訴訟からの※3TOB(株式公開買付)か」

「……そうなるな」

 グラスを置く音が、カウンターに響く。

「この時点で二条に勝ち目はない」

 二条製鉄の株式が、外部の投資家によって大量に買い集められている。しかも、それが株価を大きく動かさないように慎重に行われていることが、市場関係者には明白だった。

 首筋に汗が滲む。獲物を前にした緊張感だ。

「おそらく、上杉グループが水面下で動いている」

 誰かが呟く。声に確信がこもっている。

「TOB(株式公開買付)で主導権を握るつもりか……」

「二条製鉄の支配権が、完全に外部に移る日も近いな」

 男たちの口元に、薄い笑みが浮かぶ。

 膝が小刻みに揺れる。抑えきれない興奮の表れだ。

「俺たちもこの流れに乗るか?」

 一人が提案する。瞳孔が開いている。

「……それが最適だな。株価に影響を与えない範囲で買い、TOBで高値で売る」

「いや、待て。もし二条製鉄に上杉グループの技術が導入されるなら……?」

 男が前のめりになる。頬が紅潮している。

「……なるほど。そうなると、株価は一気に上がるな」

 計算機を叩く音。手が震えている。興奮のせいだ。

「※4ホールド(長期保有)でも十分利益が見込める」

「上杉グループの支援で、二条製鉄が近代化する可能性があると?」

「AIの導入、ロボット技術、自動化システム、最新鋭の生産ライン——それらが組み込まれれば、旧態依然とした二条製鉄も生まれ変わる」

 話す男の瞳が輝く。未来の札束が舞い散るように見えているかのようだ。

「むしろ、今が買い時かもしれないな」

 舌なめずりをする音が聞こえた。

「それなら、俺たちもこの流れを加速させてやるか」

 グラスが掲げられる。シャンパンの泡が光を反射する。

 すると、冗談交じりに

「今まで散々、上杉グループに儲けさせて貰ったのだから偶には恩返しでもするか」

 そう言いながら、男は既にスマートフォンで買い注文を入れている。親指が画面を滑る。

「結局、俺たちも儲かるんだから、これは恩返しとは言わんだろう」

 誰かがそう言うと、場に笑いが広がった。笑い声が天井に響く。

 麗華が呆れたように肩をすくめる。髪が揺れる。

「『恩返し』って言葉の意味、辞書で調べ直したら?」

「うるさいな。俺たちなりの恩返しだ」

「へぇ、win-winを恩返しって言うのね。新しい日本語ね」

 彼女の皮肉に、男たちが苦笑いを浮かべた。

「しかも、普段は偉そうな顔をしている華族保守派が減るなら大歓迎だ」

 男の声に悪意が滲む。口角が歪む。

「今回の件で華族も大分減るだろう。華族改革派にとっては追い風だな」

「上杉家はもはや華族というよりも、ITを中心にあらゆる分野を支配する巨大企業グループだ」

 誰かが指を鳴らす。パチンという音が響く。

「単なる華族の一族ではなく、実業界の新たなリーダーになりつつある」

 背もたれに体を預ける。満足感が全身を包む。

「『秋葉原の奇跡を築いた男』に続いて『AIの天才』か、上杉子爵家は人材に事欠かないな」

 羨望と嫉妬が入り混じった声。でも、敵意はない。金になるものに敵意は向けない。

「今の上杉義信氏も大過なくあの超大企業グループを纏めている。大した者だ」

「AIの天才君も士官学校に在籍しながら軍のAI開発に従事している。これから軍需も増えるだろう」

 男たちの鼻の穴が広がる。軍需という言葉に、金の匂いを嗅ぎ取った。

「普通なら敵も大勢出来る所だが既に市場を潤して投資も堅実だからな。莫大な私財も毎年行われる非営利研究団体や非営利企業、福祉団体への多額な寄付、表だって敵対したいと思わないよ」

 氷が溶ける音がする。時間の経過を告げている。

「これを機会に上杉家に泣きつく華族も多いだろう」

「引導を渡される華族も多そうだな。今まで華奢に振る舞って借金が増えた華族とか」

 冷たい笑いが漏れる。他人の不幸は蜜の味だ。

「寧ろ、地元で採算度外視で経営している企業に支援の手を差し伸べるだろう」

「地方の活性化か。地価もあがりそうだな」

 また計算が始まる。頭の中で数字が踊る。

 眉間に皺が寄る。集中している証拠だ。

「アメリカは酷い状態らしい。分断が進んでいる。日本への脱出を考えている企業もいるそうだ」

「あぁ。既に何社か日本に視察に来ている」

 声が小さくなる。秘密の匂いが漂い始めた。

「AI関連や半導体企業だな。その辺りは法整備も整っているからやりやすいだろう。非営利研究団体も日本に本部を移す団体も増えそうだ」

「アメリカの※5GDPを抜くかな?」

 誰かが大胆な予測を口にする。

「10年後は無理でも20~30年後は分からんぞ」

「それぐらいならこの目で見られるかも知れないな」

 男たちが笑う。未来の金を数えながら。

 頬が赤く染まっている。アルコールと興奮のカクテルだ。

***

 ここにいる全員にとって、すでに二条製鉄の運命は決まっているも同然だった。

 でも、本当にそれだけで終わるのだろうか?

 パーティ会場の隅で、一人の男が静かにグラスを傾けていた。他の者たちとは違う、落ち着いた佇まい。まるで深海の底で待つ捕食者のような静けさだった。

 彼は、この会話を興味深そうに聞いていたが、何も言葉を発しなかった。ただ、唇の端が微かに上がっている。

 しばらくして、スマートフォンを取り出し、短いメッセージを送る。動きは素早く、正確だ。

「計画通り、次のステージへ移る」

 送信ボタンを押す。かすかな振動が掌に伝わる。

 画面に映った送信先には「義之様」の文字が一瞬だけ表示され、すぐに消えた。

 そのメッセージが誰に向けられたものか、この場の誰も気づかなかった。男は何食わぬ顔で、再びグラスを口に運ぶ。

 喉を通る液体が、妙に冷たく感じられた。

 しかし、それが新たな局面の始まりであることだけは、明らかだった——

 男は立ち上がる。革靴がカーペットを踏む音が、妙に大きく響いた。

 夜景が窓に映り込んでいる。美しい光の粒だったが、どこか冷たく感じられた。

 ガラスに触れる。冷たい。東京の夜の冷たさが、掌に伝わってくる。

 背筋がぞくりとした。予感なのか、それとも——

 何かが動き出している——静寂の中に、その予感だけが響いていた。

 エレベーターのチャイムが、遠くで鳴った。まるで終幕を告げる鐘のように。

***

※1 取引量:株式市場で売買された株式の数量

※2 株主代表訴訟:株主が会社に代わって役員の責任を追及する訴訟

※3 TOB(株式公開買付):企業の経営権取得を目的とした株式の大量買付け

※4 ホールド:株式を長期間保有する投資戦略

※5 GDP:国内総生産。その国の経済規模を示す指標

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