第64話 年末年始休暇?そんな暇はない
年末年始休暇?
そんなものが与えられるはずもない。むしろ、この時期こそやるべきことが山積みだ。AIの技術進捗の確認、秋葉原の新規開発計画。
そして、年が明けたら初詣。軍務よりも忙しい年末年始の幕開けだった。
俺は背もたれに体を預けた。肩甲骨がぎしりと鳴る。
「では、次の議題に移りましょう」
年末最後のビデオ会議。横浜のAI研究所との回線が繋がる。画面の光で目が痛い。指先で目頭を押さえながら、データを睨む。本当はもう少し休みたかったが——開発進捗の確認を行う。
「※1計算アルゴリズムの最適化は順調です」
相馬さんの声を聞きながら、俺は首を回した。
ゴキッと嫌な音がする。何時間、同じ姿勢でいたのか。
「※2リアルタイム適応型制御に関しても、試験段階に入りました。ただ、いくつか細かいバグが発生していまして……」
主任研究員の相馬さんが送ってきたデータを解析する。喉の奥がひりつく。乾燥した室内の空気が、粘膜を刺激している。フリーズするバグがあるな。ログは?
「こちらです」
画面上にバグ発生時のログが流れる。文字を追うたびに、こめかみがずきずきと脈打つ。なるほど……。※3リアルタイム推論の負荷分散が偏ってるな。
「え?」
画面を見ながら考える。どう説明すべきか——舌が上顎に張り付いた。コーヒーを一口飲むが、もう冷め切っていた。苦い。
「既存の※4スケジューリング方式では、負荷が演算ユニットに集中しすぎる。並列処理をもっと柔軟に再配分しろ。※5GPU側の負担を減らせば、演算遅延を最適化できる」
「……!」
主任の顔が輝く。まるで暗闇に光が差したような表情だ。
「それなら、計算遅延を大幅に改善できるかもしれません」
「あと、※6フィードバックループの回数を増やせ。今のままじゃ誤差補正が追いつかない」
「なるほど……! ありがとうございます、すぐに試してみます!」
直接指示を出すよりも、研究者が自分で考えられるようにヒントを与える方針を取っている。その方が、長期的に見て成長につながる。
胃の奥で、何かがもやもやと渦巻いている。この方法で本当に間に合うのか?
進捗があれば、年始にまた報告してくれ。
「了解です!」
通信が切れる。これでAI開発は、年末年始でもしっかり前進していくだろう。
画面が暗くなった。静寂が綿のように部屋を包む。耳の奥で、自分の鼓動だけが響いていた。
***
仮眠を取った後、秋葉原の開発進捗を確認した。
ベッドから起き上がると、首筋に鈍い痛みが走る。枕が合わなかったのか。
「予定通り、1月中にすべてのテナントが撤退します」
電話越しの声に耳を傾けながら、窓の外を見る。師走の街は慌ただしい。人々が川の流れのように行き交っている。
「次の入居テナントは?」
「ゲーム関連の企業が複数。ライブハウスと※7eスポーツ施設も予定されています」
秋葉原は、文化の発信地としてさらに進化する。
「解体工事は?」
「2月から開始予定。問題なく進めば、春には新ビルの基礎工事に入れるでしょう」
すべて順調。秋葉原の未来を、手で作り上げる。
胸の奥で、期待と不安が渦を巻いていた。脈拍が、かすかに速くなる。
***
大晦日。ようやく休暇らしい時間が訪れた。とはいえ、静かに過ごせるわけではない。
「義之君、準備できた?」
美樹さん、沙織さん、千鶴さん、真奈美さん、そして玲奈が待っていた。PMCの護衛と俺たちは神田明神へ初詣に向かった。
参道の砂利が、靴底でじゃりじゃりと鳴る。線香の煙が鼻をくすぐり、思わずくしゃみが出そうになった。
「義之君は、何をお願いするの?」
美樹さんがそっと尋ねてくる。手を擦り合わせている。手袋を忘れたらしい。
「……全員が無事で、来年もこうしてまた集まれますように」
「……私も、同じお願いにする」
微かに笑ってしまった。頬の筋肉が、寒さでこわばっている。
空を見上げる。新しい年が、静かに幕を開けようとしていた——。
参道を歩きながら、それぞれが願い事を書いた絵馬を奉納する。灯籠の明かりが揺れ、周囲のざわめきの中に、かすかに鐘の音が響いていた。夜の冷たい空気が頬を刺すが、それが心地よかった。鼻の奥がツンとする。
「今年もいろいろあったわね」
沙織さんがふと呟く。マフラーに顔を半分埋めながら。
「来年はどうなるのかしら」
「少なくとも、俺たちはまた戦い続けることになるな」
そう答える。白い息が、言葉と一緒に夜空に溶けていく。
「来年もこうやって集まれるといいですね」
千鶴さんが微笑む。耳まで真っ赤だ。
「戦地に出ると、こういう時間の貴重さが身にしみます」
喉の奥が、急に熱くなった。何か言おうとしたが、言葉が出ない。
「だから、今年の願いは特に大事にしないとね」
美樹さんが絵馬を見つめている。頬がほんのりと赤い。寒さのせいだけじゃないかもしれない。
玲奈は無言で空を見上げていた。何を考えているのかは分からないが、彼女の視線の先には、夜空にかかった朧げな月があった。
「玲奈は、何をお願いしたんだ?」
尋ねると、彼女は小さく笑う。唇が、かすかに震えている。
「秘密。……でも、お兄様には関係あるかもね」
「なんだそれ」
玲奈の曖昧な答えに、他の4人が不満そうな表情を見せる。
「気になるじゃない」
真奈美さんが口を尖らせる。足踏みをしながら、体を温めている。
「さあ、何でしょう?」
玲奈は楽しげに笑う。
「そのうち分かるかも」
「もったいぶるなよ」
苦笑しつつ、再び絵馬を見つめる。
軍人だ。次の一年がどんなものになるのかは分からない。
だが、こうして過ごせる時間があるのなら、それを大事にしたいと思う。
背筋を、冷たい風が撫でていく。身震いが止まらない。寒さのせいか、それとも——。
「さて、そろそろ帰るか」
そう言い、皆を振り返る。
「そうね。寒くなってきたし」
美樹さんが頷く。鼻の頭が赤くなっている。
「今年もよろしくね、義之君」
沙織さんが微笑む。眼鏡が、白く曇っていた。
「来年も無事に過ごせますように」
千鶴さんが静かに祈る。手を合わせたまま、目を閉じている。
「次の正月も一緒に来られるようにしようね」
真奈美さんが元気よく言う。声が、少し震えていた。
「もちろん、みんなで」
玲奈がいたずらっぽく付け加える。瞳の奥に、何か決意のようなものが宿っている。
彼女たちの顔を順番に見つめながら、静かに頷いた。
「……ああ、来年も、な」
言葉と一緒に、白い息が夜空に消えていった。
神田明神の境内を後にする。背中を、月明かりが水のように照らしていた。
足音が石畳に響く。意味のない音だったが、なぜか心に残った。
拳を、ポケットの中で握りしめた。指の関節が、じんわりと痛い。
何かが終わり、何かが始まろうとしている——そんな予感だけが、胸の奥で小さく燃えていた。
***
※1 計算アルゴリズム:コンピュータが問題を解くための計算手順
※2 リアルタイム適応型制御:状況の変化に即座に対応して制御方法を調整する技術
※3 リアルタイム推論:AIがその場で即座に判断や予測を行うこと
※4 スケジューリング方式:複数の処理をどの順番で実行するかを決める方法
※5 GPU:画像処理用の演算装置。近年はAI計算にも使われる
※6 フィードバックループ:出力結果を入力に戻して精度を上げる仕組み
※7 eスポーツ:コンピュータゲームを使った競技
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