第62話 戦略思考型AIと貴族院の実証実験
機械学習の法規制と権利保護の法案は無事、2年前に可決された。
AIの学習データの取得方法や個人情報の扱いが明確になり、合法的にAIを発展させるための基盤が整った。
この法案には貴族院研究会の協力も大きかった。俺としても彼らには恩義を感じている。
そして今、再び貴族院研究会の議員たちに会うことになった。※1戦略思考型AIの導入について提案するために。
会議室のドアノブに手をかける。
金属の冷たさが掌に伝わってきた。
***
「というわけで、戦略思考型AIは政策の選択肢を提示し、社会的影響を分析し、助言を行うことができます」
喉が渇いた。水を一口飲む。冷たい液体が食道を流れていく。
議員たちの視線が針のように刺さる。
「ただし」
舌が上顎に張り付く。
「AIが決定権を持つわけではなく、最終判断はあくまで人間が行うべきものです」
議員の一人が眼鏡を外した。レンズを拭き始める。布がガラスを擦る音が静かに響く。
「これは面白い」
最初に口を開いたのは三条議員だった。銀縁眼鏡の奥で目が光る。
「つまり、我々が過去の議論や社会情勢を踏まえて、より的確な判断を下すための補助になるということですね」
「その通りです」
「実際に使ってみたいというのが正直な感想だが」
三条議員が身を乗り出す。
「いくつか要望がある。これが満たされるなら、我々も積極的に導入を検討できる」
「要望とは?」
背筋がぴんと伸びた。
「大きく分けて三つある」
三条議員が指を折り始める。俺の手のひらにじわりと汗が滲んだ。
「①貴族院開設以来の議案の状況と、それに伴う社会状況の変化をAIが分析できるようにすること」
一本目の指が立つ。
「②各議員が自分の政治信条や思考を事前にAIに入力できるシステムを用意すること」
二本目。別の議員が机の上で指をトントンと叩いている。
「③AIが単なるデータ解析ではなく、それぞれの議員の価値観を反映した助言を提供できるようにすること」
三本目が立った瞬間、こめかみがずきずきと脈打った。
①については歴史データの蓄積は進めている。これを政治用のインターフェースに落とし込めば——
②の議員ごとの政治信条の入力。パーソナライズ機能として興味深い。
③の価値観を反映した助言。これが難しい。完全に議員の価値観に沿うと「AIが都合の良い答えしか出さない」ことになりかねない。
肩甲骨の辺りがじんわりと熱くなってきた。
***
「それと、※2量子コンピューターの小型化技術についてですが」
俺は一度言葉を止めた。胃の奥がきりきりと痛む。
「現時点ではまだ機密レベルの技術で、提供できるのはサーバーサイズのものに限られています」
議員たちの眉が寄る。
「処理の大半はクラウド側で行うのですが、現状どうしても量子コンピューターが必要なのです」
年配議員が扇子をパタパタと仰ぎ始めた。
「つまり、このAIをフルに活用するには」
扇子が止まる。
「警備・防犯体制のしっかりした場所が必要ということですね」
「その通りです」
シャツの背中が汗でべったりと張り付いている。
「量子コンピューターを安全に運用するためには、厳重なセキュリティ環境が不可欠です」
議員たちの顔を一人ずつ見た。
「そのため、現時点で導入可能なのは、十分な防犯設備を持つ環境を確保できる議員に限らせてもらいます」
一部の議員が眉をひそめた。
「私の自邸には十分なセキュリティシステムがあります」
最年少の議員が手を挙げる。
「AIの試験運用をぜひ実施させていただきたい」
「私も問題ない」
別の議員が続く。
「データセンターの一部を改装して運用環境を整えられる」
次々と手が挙がる。5人もの議員が手を挙げた瞬間、鼓動が早まった。指先がかすかに震える。
「お、俺もやってみたいが……」
恰幅の良い議員が苦笑いを浮かべる。
「家のセキュリティが貧弱でな」
「うちは妻に相談しないと」
別の議員が肩をすくめる。
「『また変なもの持ち込んで!』って怒られそうだ」
場の空気が和らいだ。緊張で強張っていた肩の力が抜ける。
***
「今回は参加を見送るが」
別の議員が口を開く。
「自邸を改築し、警備体制を見直すつもりだ」
真剣な表情だった。
「次回の導入時にはぜひ試験運用をさせてもらいたい」
「今後、貴族院としてもAIの活用を進めていくことは避けられない」
眼鏡がきらりと光る。
「我々としても、環境を整え次第、導入を前向きに検討したい」
「まさか、AIに仕事を取られる日が来るとはな」
年配議員が冗談めかして言う。
「いえいえ、あくまで補助ですから」
俺も笑った。頬の筋肉が久しぶりに動く。
「戦略思考型AIがどの程度、実際の政策決定に寄与できるのか」
三条議員が姿勢を正す。
「それを見極めるのが我々の役割だな」
「では、試験環境を整え、議員ごとのパーソナライズ設定も用意します」
肩から力が抜けた。息が楽になる。
5人の議員による実証実験が始まることになった。
「では、まずはこの5名の議員のもとで戦略思考型AIの試験運用を開始し」
俺は一呼吸置く。
「実際にどのような形で政策決定に役立つかを検証しましょう」
三条議員が満足げに頷いた。その顔に少年のような好奇心が見え隠れする。
「素晴らしい」
声に熱がこもる。
「我々もAIがどこまで政治の助けになるのか、実際に使いながら検討していきたい」
一瞬間を置いて付け加える。
「場合によっては、貴族院の他の議員にも導入を促すことも考えよう」
「ただし」
別の議員が釘を刺す。
「AIの提案をそのまま受け入れるのではなく、我々が適切に判断する補助ツールとして扱うことを徹底するべきだな」
「もちろんです」
短く答えた。喉がからからに乾いていた。
***
「ところで、上杉君」
会議が終わりかけた時、年配議員が声をかけてきた。
「このAI、将棋は指せるのかね?」
「え?」
予想外の質問に固まる。
「いや、最近のAIは将棋も強いと聞いてな」
真面目な顔で続ける。
「政策分析の合間に一局指せたら面白いかと思って」
周りから笑い声が起きた。
「技術的には可能ですが、それは別のAIの方が」
「冗談だよ、冗談」
議員が愉快そうに笑う。
俺も釣られて笑った。緊張の糸がぷつりと切れた。
会議室を出ると、廊下の窓から夕陽が差し込んでいた。
オレンジ色の光が大理石の床に長い影を作っている。
足が重い。体重が倍になったような気分だ。
窓の外を見る。夕陽が国会議事堂を赤く染めていた。
深呼吸をした。冷たい空気が肺の奥まで流れ込む。
明日から、本格的な準備が始まる。
拳を握る。爪が掌に食い込んだ。
さあ、始めよう。
***
※1 戦略思考型AI:人間の倫理観や価値観を考慮した判断を行う、作中で開発中の新型AI
※2 量子コンピューター:量子力学の原理を利用した超高速計算機。現在の技術では小型化が困難
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