第60話 戦略思考型AIの試行錯誤
深夜2時。
研究室のモニターが放つ青白い光だけが、俺の顔を照らしていた。
コーヒーはとっくに冷め切っている。手が止められない。※1戦略思考型AI。俺が追い求める新しい可能性が、少しずつ形になり始めていた。
いや、形になっているのか?
画面のシミュレーション結果を見つめる。目を擦った。まぶたの裏がざらつく。
「従来の軍事AIとの違いを……もっと明確にしないと」
独り言が静かな研究室に響く。
窓の外は真っ暗だ。遠くを走る車のヘッドライトが、闇を切り裂いていく。
背伸びをする。肩甲骨がゴリゴリと音を立てた。仮想戦場のシミュレーション。赤と青の点が、モニター上で複雑に動き回っている。
通常のAIは、データ分析と戦力評価から最適解を導き出す。効率的だ。合理的だ。
「でも人間は、そんなに単純じゃない」
キーボードを叩く指が震えていた。新しいテストケースを入力する。民間人が巻き込まれる可能性がある戦闘シナリオ。
通常のAIの反応は予想通り。戦略的優位を取るための攻撃指示。数値上は正しい。でも、そこに人の命への配慮はない。
一方、開発中の戦略思考型AIは——
「民間人の避難経路を最優先で確保……か」
画面の提案を見て、小さく頷いた。首筋が鉄のように凝り固まっている。
これだ。これが俺の求めていたものだ。
でも問題もある。判断に時間がかかりすぎる。
スマホが震えた。美樹さんからのメッセージ。
『まだ起きてるの?無理しないでね』
時計を見る。こんな時間か。返信しようとして、やめた。胸の奥で何かが軋む。
***
翌朝、研究室に高橋が顔を出した。
「おい、義之。徹夜か?」
高橋が眉をひそめる。
「顔色悪いぞ」
「ああ……ちょっとな」
声がかすれていた。喉の奥が砂紙でこすられたみたいだ。
高橋がコーヒーを2つ持ってきてくれた。温かい。手のひらから熱が伝わってくる。
「戦略思考型AIの進捗はどうだ?」
「まあ、ぼちぼち」
昨夜のシミュレーション結果を見せる。高橋が画面を覗き込んだ。
「ほう、民間人の避難を優先するのか」
感心したような声。
「確かに従来のAIとは違うな」
「だけど、判断速度が遅すぎる」
「※2量子コンピューターを使ってもか?」
「ああ。人間の心理的影響まで考慮すると、どうしても」
高橋が腕を組む。
「でもさ、義之」
声が真剣になる。
「そもそも戦場で悠長に考えてる時間なんてあるのか?」
胃の底で何かがずしりと沈んだ。痛いところを突かれた。
「分かってる」
拳を握る。
「だから最適化が必要なんだ」
「並列処理の改善は?」
「試してる。データ圧縮アルゴリズムも見直してる」
高橋が肩をすくめた。
「まあ、頑張れよ」
俺の肩を叩く。
「でも倒れるなよ?」
高橋が自分のデスクに戻っていく。
コーヒーを一口飲む。苦い液体が喉を焼くように落ちていく。
戦場では一瞬の遅れが命取りになる。このAIが本当に人を導く存在になるためには——
待て。
手が止まった。指先がキーボードの上で宙に浮いている。
人を導く?俺はこのAIに何を求めているのか?
***
数日後、改良版のテストを続けていた。
応答速度は改善された。理論上は従来の戦術AIの1.5倍。
「でもリソースを食いすぎる」
消費電力のグラフを見て、両手で頭を抱えた。指先がこめかみにめり込む。
スマホが鳴った。美樹さんだ。
『今日は早く帰れる?』
優しい声が聞こえる。
『久しぶりに一緒に夕飯でも』
『ごめん、もう少しかかりそう』
『……そう。無理しないでね』
電話を切った後、みぞおちの辺りがぎゅっと締め付けられた。
最近、美樹さんとゆっくり話す時間も取れていない。
「このままじゃダメだ」
立ち上がる。膝がかくんと笑った。
廊下の窓から外を見る。学生たちが楽しそうに話しながら歩いている。平和な光景だ。
でも世界のどこかでは今も戦争が起きている。
俺のAIは、そんな場所で本当に役に立つのか?
研究室に戻ると、画面にエラーメッセージが表示されていた。
また失敗か。
でもなぜか肩の力が抜けた。息がすっと楽になる。
完璧なAIなんて、本当に必要なのか?
椅子に座り直す。背もたれが疲れた背中を受け止めてくれる。
***
その夜、美樹さんに電話をかけた。
「どうしたの?急に」
「ちょっと、聞いてほしいことがあって」
「うん」
「俺が作ろうとしているAIは」
言葉を選ぶ。
「人の判断を助けるものであるべきか、それとも人の代わりに判断するものであるべきか」
「……難しい質問ね」
電話越しに小さな吐息が聞こえる。
「でも、義之君はもう答えを知ってるんじゃない?」
「え?」
「だって、今の質問の仕方からして」
美樹さんの声に笑みが含まれる。
「もう心は決まってるでしょ?」
苦笑いが漏れた。頬の筋肉が久しぶりに動く。
「……ああ、そうかもしれない」
「AIは道具よ」
美樹さんが続ける。
「大切なのは、それを使う人間の意志」
胸の奥がじんわりと温かくなった。
「義之君なら、きっと正しい答えを見つけられる」
「ありがとう」
「それより」
声が弾む。
「今度の週末は空けといてよ?デートの約束、忘れてないでしょうね」
「もちろん」
電話を切った後、新しいドキュメントを開いた。
戦略思考型AI——設計指針 改訂版。
最初の一行を書く。
『AIはあくまで補助であり、決断の主体は常に人間でなければならない』
窓の外では月が静かに輝いていた。
背筋がすっと伸びる。迷いはない。
***
一週間後、高橋に改訂版の設計を見せた。
「へえ、複数の選択肢を提示するのか」
高橋が興味深そうに画面を見る。
「ああ。最適解を押し付けるんじゃなく」
俺は説明する。
「選択肢とそれぞれのリスク、メリットを示す」
「指揮官の心理状態も分析する、と」
「極度のストレス下では、人は合理的な判断ができなくなる」
拳を軽く握る。
「そこをサポートする」
高橋が感心したように頷いた。
「前より人間的になったな」
「人間的?」
「ああ。完璧じゃないところが、逆にいい」
胸の奥でふわりと何かが解ける。
モニターには新しいシミュレーションが動いている。救助作戦と戦闘の両立というシナリオ。
AIは複数の選択肢を提示した。どれも一長一短。完璧な答えはない。
でも、それでいい。
人生に完璧な答えなんてないのだから。
窓から夕焼けが見えた。オレンジ色の光が机の上の書類を染めている。
美樹さんとの約束の時間だ。
パソコンをシャットダウンして立ち上がる。
足取りが軽い。
明日もまた、試行錯誤は続く。
でも今は——
人間らしく、大切な人との時間を過ごそう。
それもまた、AIには真似できない人間だけの選択なのだから。
***
※1 戦略思考型AI:人間の倫理観や心理を考慮した判断を行う、作中で開発中の新型AI
※2 量子コンピューター:量子力学の原理を利用した超高速計算機
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