閑話 転生者たちの邂逅――戦後ドイツの変革
煙草の煙が、ロンドンの外交サロンに漂っていた。
俺の曽祖父――上杉義弘の視線が、一人の男に釘付けになった。
※1ヴァルター・シェレンベルグ。
男の話しぶりに、首筋がぞわりとした。
「……イギリスは戦後、植民地政策を転換せざるを得なくなる」
取り巻く外交官たちに語る声。落ち着いている。確信に満ちている。
まるで既に起きたことを語るような――
「アメリカの経済的な影響力が拡大し、覇権は変化するだろう」
曽祖父の眉がぴくりと動いた。喉の奥が渇く。唾を飲み込んだ。
推測や希望的観測じゃない。この男は「知っている」。
まるで――
「失礼」
気づけば足が動いていた。
「上杉義弘です。日本の留学生です」
「シェレンベルグです」
男が振り返る。
「お噂はかねがね」
差し出された手を握る。
冷たい。氷のような手だった。
***
暖炉の前のソファ。革張りが体を沈める。
パチパチと薪が爆ぜる音。二人の間に沈黙が流れた。
曽祖父の指が、グラスの縁をなぞる。神経質な動き。
「興味深い話をされていましたね」
声が震えないよう、慎重に言葉を選ぶ。
「戦後の世界について、随分と明確なビジョンをお持ちのようだ」
「経験と分析の結果です」
シェレンベルグが微笑む。目は笑っていない。瞳孔が動かない。
「あなたこそ」
男が身を乗り出す。
「東アジアの未来について興味深い見解をお持ちだと聞きました」
「ほう?」
「先ほど、あちらで話されていたでしょう」
指差す先に、先ほどまでいた場所。
「日本が戦後も強大な軍事力を維持し、アメリカと対等な関係を築くと」
曽祖父の呼吸が止まった。心臓が一拍飛ぶ。
聞かれていたか。
「単なる推測です」
「推測……ですか」
シェレンベルグがワイングラスを傾ける。赤い液体がゆっくりと揺れた。
「にしては、随分と具体的だ」
男の唇が薄く笑う。
「まるで、未来を見てきたような」
視線がぶつかった。
空気が凍りつく。暖炉の火すら遠くなる。
曽祖父の背筋を冷たい汗が流れた。
相手の瞳の奥に、自分と同じ「何か」を見た。
***
「なぜクーデターに?」
沈黙を破って、曽祖父が核心に触れた。
「ヒトラーを排除することのリスクは、計り知れなかったはずだ」
「このままでは」
シェレンベルグの声が落ちる。首筋に汗が滲んだ。
「ドイツは東西に分裂し、永遠に分断される運命だった」
運命――その言葉に、曽祖父の鼓動が早まる。
「それが嫌だった」
男の拳が震える。
「もしもドイツが二つに分かれ、※2冷戦の最前線となるなら……」
言葉が途切れる。暖炉の炎が横顔を赤く染めた。
「私には、それが見えていた」
見えていた。
曽祖父の拳が握られる。爪が掌に食い込んだ。
やはり――この男も、自分と同じだ。
「私にも」
息を整える。喉が震えないように。
「見えているものがある」
互いに言葉を交わさなくても分かった。
転生者としての直感が、相手の正体を告げている。
だが口には出せない。この時代、この場所では。
「戦後のドイツは」
シェレンベルグが話題を変える。いや、変えたように見せかけた。
「軍事ではなく、技術と産業で立ち上がる」
「日本も同じです」
曽祖父の肩から力が抜ける。
「軍事力は維持しつつも、技術革新で世界に貢献する」
「面白い偶然ですね」
シェレンベルグが微笑む。今度は目も笑っていた。
「日本の電子技術と、ドイツの精密機械」
男が手を差し出す。
「組み合わせれば……」
「新しい時代が作れる」
曽祖父が言葉を継ぐ。
握手を交わす。
温かい。今度は人間の手だった。
***
その夜、宿舎で曽祖父は手記を書いた。
ペンが紙を走る。インクの匂いが鼻を突く。
『転生者は、私だけではなかった。世界のあちこちに、未来を知る者たちがいる。彼らもまた、歴史を変えようとしている。だが、それは正しいことなのか?私たちが変えた歴史の先に、本当により良い未来はあるのか?』
ペンを置く。手が震えていた。
窓の外を見る。ロンドンの街は灯火管制で暗い。
でも、どこかに希望の光が見えた。いや、見たかった。
***
現在――
祖母がシャネルの包みを開ける。手つきが嬉しそうだ。鼻歌まで出ている。
俺は紅茶のカップを置いて、その様子を眺めた。
「今年も届いたのね」
八十を過ぎても、プレゼントをもらう時は少女になる。
「養父の古い友人からよ」
毎年クリスマスに届く贈り物。差出人はシャネル本社。
「ドイツから?」
俺が聞く。
「ええ」
祖母が頷いた。
遺言で故人になった今でもシャネル本社から送られてくる。
「戦争中に知り合った人よ。詳しくは知らないけれど……」
香水の瓶を取り出す。※3No.5。シャネルの永遠の定番。
「養父は言っていたわ」
瓶を光に透かす。
「『彼もまた、未来を変えようとした一人だ』って」
未来を変えようとした、か。
俺は立ち上がる。窓に近づいた。
ガラスに映る自分の顔。他人みたいだ。目が疲れている。
外には平和な日本の風景が広がっている。
もしもあの時、曽祖父とシェレンベルグが出会わなかったら。
もしも彼らが、違う選択をしていたら。
胸の奥が締め付けられる。
答えは誰にもわからない。
ただ一つ確かなのは、転生者たちの選択が今の世界を作ったということ。
良くも悪くも。
祖母が香水を一吹きした。
甘い香りが鼻腔を抜ける。なぜか目頭が熱くなった。
「あら、目に染みた?」
祖母が俺の顔を覗き込む。
「……花粉症かな」
嘘だ。でも、そういうことにしておく。
転生者の曽祖父も、きっとこんな風に言えない想いを抱えて生きていたんだろう。
拳を握る。爪が掌に食い込んだ。
曽祖父と同じように。
***
※1 ヴァルター・シェレンベルグ:ナチス・ドイツの親衛隊将軍。実在の人物だが、本作では転生者として描かれている
※2 冷戦:第二次世界大戦後の米ソ対立。史実では1945年から1989年まで続いた
※3 No.5:1921年に発表されたシャネルの香水。マリリン・モンローの愛用品として有名




