閑話 市民視点:俺、ニートから上杉グループ本社勤務になりました
高校を卒業し、俺は何の変哲もない企業に就職した。
しかし、そこは典型的なブラック企業だった。
毎日続く長時間労働。胃がキリキリと痛む。深夜のコンビニ弁当を口に運ぶ。味がしない。舌が麻痺している。
三年働き続けた結果、俺の精神は限界を迎えた。
退社した瞬間、膝が笑って立っていられなくなった。涙が止まらない。鼻水も混じって顔がぐちゃぐちゃだ。
「社会に負けた……」
つぶやきが漏れる。声が震えていた。
だが、幸いなことに今の日本は好景気だった。
「失業保険の通知、来てるな」
封筒を開ける手が少し軽い。最低限の生活はできる。
たまにアルバイトの面接に行くと、その場で採用される。景気のありがたみが骨身に染みた。
しかも、AIを活用したリモートワークが普及していた。
「今日も在宅で小遣い稼ぎか」
パソコンの前であくびをする。朝起きなくていいのが何より楽だった。
そうして一年ほど過ごしていたが、預金通帳を見るたびに胃が締め付けられる。
「そろそろ本気で仕事探さなきゃな……」
ため息が漏れた時、母親が部屋に入ってきた。
「上杉グループの会社が中途採用を募集してるわよ」
上杉グループ――日本を代表する巨大企業だ。舌が乾く。
「そんなの、一流大学卒のエリートばかりだろ」
「学歴不問だから」
母親があっさり言う。
半信半疑だったが、面接慣れのつもりで応募することにした。履歴書を書く手が震える。一年のブランクが重い。
しかし、そこからの流れが異常だった。
書類選考を通過。一次面接、二次面接と進む。気がつけば上杉グループ本社の面接会場にいた。
「……え?どういうこと?」
声が裏返る。一次面接から本社に呼ばれるまで、たったの2週間。心臓がバクバクと暴れる。
待機室で隣に座った奴が口を開いた。
「俺、東大卒でさ」
自慢が始まった瞬間、面接官に呼ばれて消えていった。
二度と戻ってこなかった。背筋が凍る。
監視カメラでもあるのか。首が勝手にきょろきょろ動く。完全に挙動不審者だ。
そして、俺の面接が始まった。
「こんにちは、あなたの適性を確認します」
モニターの向こうに現れたのは、まさかの※1AI。目を疑った。瞬きが止まらない。
「え、AIと会話すんの?」
軽く驚いたが、案外これが面白かった。AIのカメラが俺を見つめている。視線を感じるって変な話だが、本当に見られている気がする。
「あなたの強みは何ですか?」
「えー……うーん、特に目立った強みはないと思います」
正直に答える。喉がカラカラだ。
「では、あなたの思う『自分がチームで貢献できること』は?」
「協力は得意かもしれません」
ブラック企業での経験を思い出す。
「前の仕事でも、調整役をよくやってました」
「なるほど、調整力がありますね」
AIが続ける。
「後、緊張してますね」
「ってAIに指摘されて、汗が止まらねぇ!」
思わず声に出した。脇の下がびしょびしょだ。シャツが肌に張り付く。
そんなやりとりをしながら気づいた。このAI、受け答えから俺の思考プロセスを読んでいる。瞳孔の動きまで見られているような気がして、目が泳ぐ。
「面白いな、これ」
適性試験のはずなのに、妙に「忠誠心」や「警戒心」を試されている。なんだか尋問されているような……。
AIとの面接が終わると、人間の面接官による二次面接。扉が開いた瞬間、冷房の風が汗ばんだ肌を冷やす。
「君、監視カメラに気が付いたんだってね?」
「……え?」
血の気が引いた。顔面が冷たくなる。
正直に話した。舌がもつれる。
「これはもう落ちたな……」
肩を落として帰宅した。
まさかの合格通知が届いたのは三日後だった。
「……は?」
通知を見た瞬間、コーヒーを吹き出しそうになった。
***
完全に予想外だった。
一年間ニートをしていた俺。毎日昼過ぎに起きて、ゲームして、動画見て、また寝る。そんな生活をしていた俺が上杉グループ本社勤務?
初出社の朝、吐きそうになった。胃液が込み上げる。
「華族の経営する会社なんて、堅苦しいんだろうな」
スーツのネクタイが首を締め付ける。息苦しい。
ところが、実際に働いてみると思ったよりアットホームな雰囲気だった。
「おっ、新人君!今日の昼飯一緒に行こうぜ」
入社初日、先輩の声に肩の力が抜けた。
社員たちは気さくで、新人の俺にも丁寧に仕事を教えてくれた。民間企業以上に合理的で働きやすい空気がある。
ただ、設備が新しい。エレベーターのボタンを押すと、指紋認証が始まる。最初はビビった。指が震えた。
「社内にサウナまであるのか」
案内されて目を丸くする。サウナの熱気が疲れた体に染みる。極楽だ。
何よりありがたいのが昼食が無料だった。
「これ、タダ?」
「そうだよ」
社食のカレーを口に運ぶ。舌の上でとろける。涙が出そうになった。ブラック企業時代のコンビニ弁当とは天と地の差だ。
課外の文化活動にも熱心らしい。
「年末には表彰もあるんだ」
先輩が掲示板を指差す。
「茶道、華道、ロックバンド、ジャズ……なんでもありだな」
「へぇ、面白そうだな」
久しぶりにギターでも弾いてみようか。指がうずいた。
それでも、華族という存在は雲の上の人間だ。
廊下ですれ違う華族社員。背筋がピンと伸びている。俺なんか猫背だ。肩が丸まっている。
「特権はあるけど、制約も多いんだよ」
先輩が教えてくれる。
「不祥事起こしたら、一般人の比じゃないバッシングだし」
「俺には無理だな」
自販機でコーヒーを買う。100円。安い。缶が冷たくて気持ちいい。
***
仕事は淡々と進んでいった。
配属された部署では、統計資料の整理や海外駐在員の報告書をまとめる作業を任された。
パソコンのキーボードを叩く音が心地いい。カタカタとリズムを刻む。ブラインドタッチが錆びついていなくてよかった。
ただし、報告書には必ず自分で集めた資料を添付する必要があった。
「ここはこうやって、データベースから引っ張ってくるんだ」
先輩の指先を必死で目で追う。メモを取る手が追いつかない。
俺が選択した資料をAIが分析する。画面に「Good Choice!」と表示された。
「やった!」
思わず声が出る。顔がにやける。褒められた気がして嬉しい。
以前の企業より労働時間が短いのに生産性が高い。定時で帰れることに最初は罪悪感すら覚えた。
「ピピッ」
ミスしそうになるとAIのアラートが鳴る。心臓が跳ねる。
「危なかった……」
額の汗を拭う。
1日の課業が終了すると、成果がAIで管理される。
「俺、報告書から資料を取捨選択する能力が高いらしい」
評価画面を見てガッツポーズ。前の職場では評価なんて教えてもらえなかった。
***
だが、セキュリティの厳しさには参った。
入室時にIDカードだけでなく指紋認証と虹彩認証まで要求される。
「目、見開いてください」
「まばたきしちゃダメなんですか?」
「大丈夫ですよ」
最初は勘違いして目が乾いて涙が出た。
しかも入室時に何も持ち込めない。財布もスマホも保管室に預ける。
「スマホないと落ち着かない……」
ポケットに手を入れる。空っぽ。ため息が漏れる。
俺のIDカードは他の中途入社組と色が違う。赤いラインが入っている。
「これ、何か意味あるんですか?」
「さあ?」
先輩も知らないらしい。でも特別感があって、正直ちょっと優越感もある。
入社初日に支給されたスマートデバイスは持ち込めた。
「これ、軽い!」
手に馴染む。高性能で使いやすい。
「社外で仕事のことを話すな」
上司の声が妙に真剣だった。
「特に特定の国の人間とは接触しないように」
背筋が伸びる。
こんな厳重なセキュリティが必要な仕事って、一体なんなんだ?胃の奥でもやもやする。
ある日、ふとしたことで異変に気づく。
上司の資料入れに、俺の作成した資料が置かれていた。何気なく目をやる。
そこには「極秘」のスタンプ。
「極秘スタンプ見た瞬間、心臓止まるかと思った」
血の気が一気に引いた。手足が冷たくなる。
二度見した。いや、三度見した。
「俺が作った資料が極秘扱い?」
ただのデータ整理のつもりだったのに。背筋に冷たい汗が流れる。
動揺を隠して平静を装う。でも多分、顔は引きつっていた。
もしかして、俺はとんでもない部署に入ってしまったのか?
その夜は寝付けなかった。枕がやけに固く感じる。寝返りを何度も打った。
そして給料日。
ATMで給与明細を見た瞬間、息が止まった。
「……嘘だろ?」
数字を数え直す。ゼロの数、間違ってない?手が震える。
前職の倍以上ある。
「これ、ミスじゃないのか……?」
慌てて上司に相談した。
「正当な報酬だから、安心しなさい」
上司が笑う。口元に皺が寄る。
「……え?」
頭が真っ白になった。
その年の上杉グループの売上高を知って、椅子から転げ落ちそうになった。
「某自動車企業の5倍!?」
声が裏返る。
***
そして3年後。
「君の部署はね」
上司が突然切り出した。
「※2上杉特別情報局、通称USTIという諜報機関なんだ」
コーヒーを盛大に吹き出した。書類がビショビショだ。慌ててティッシュで拭く。
「俺、ニートからスパイになったのか?」
声が震える。でも、なぜか笑いが込み上げてきた。
人生って本当に何が起こるかわからない。
でも、悪くない。むしろ最高だ。
「今日もサウナ行こう」
タオルを手に取る。汗を流しながら、この奇妙な人生を楽しもう。
***
※1 AI:人工知能(Artificial Intelligence)。この世界では面接や業務管理に広く活用されている
※2 上杉特別情報局(USTI):上杉グループ内の情報収集・分析を行う部門。国家機関とも連携している




