第60話 華族の戦略
北園と同期の対立は収まった。しかし、俺の胃の奥で何かが蠢いている。
廊下ですれ違う同期の視線が針のように突き刺さる。食堂での会話が急に途切れる。俺が近づくと空気が変わるのを、皮膚で感じ取れた。
椅子の背もたれに体重を預ける。革張りの感触が冷たい。
「このまま放っておくわけにはいかないな」
つぶやきが漏れる。
士官学校での人間関係は、将来の戦場でも影響する。今のうちに火種を消さなければ——背筋を冷たい汗が流れた。
「来年、玲奈が入学する」
妹の名前を口にした瞬間、拳が握られた。爪が掌に食い込む。
「玲奈が『お兄ちゃんのせいで虐められた』なんて」
想像しただけで奥歯が軋む。
目を閉じる。瞼の裏で歯車が回り始める音が聞こえるようだ。
「金を使うしかないな」
結論に至った瞬間、胸の奥で何かが冷たく固まった。口の中に苦い味が広がる。
※1特定寄附金制度を利用する。『学生生活費』として寄付を行い、食事の質を向上させる。腹が満たされれば、心も穏やかになる。単純だが効果的だ。
***
机に向かい、キーボードを叩く。静かな部屋に音が響く。
ノックの音。扉が開くと、美樹さんが立っていた。
「義之君、大丈夫?」
眉が寄っている。
「最近、顔色が良くないみたいだけど」
「ああ、ちょっと考え事をしていて」
張り詰めていた肩の力が抜ける。
「もしかして、あの件のこと?」
美樹さんが小さく息を吸い込む。北園の一件を知っているらしい。
「私、義之君が皆のことを考えてるの知ってる」
彼女の視線が机に落ちる。寄付申請書の文字が見えた。
「これは……」
「食堂の改善に寄付をしようと思って」
美樹さんの頬がほんのりと赤く染まる。
「やっぱり義之君は優しいね」
指先が書類の端を軽く撫でた。
「でも……これで解決するかな?」
「分からない」
正直に答える。
「でも、何もしないよりはマシだと思う」
書類に記入する手が妙に重い。これは偽善か、戦略か。喉の奥に何か引っかかる。
数字を見つめる目が疲れてくる。電卓を叩く指に力が入りすぎて、ボタンが軋んだ。
「清廉潔白でありたいが」
自分に言い聞かせる。
「俺は華族であり経営者だ」
鏡に映る顔が、他人のように見えた。
***
寄付の話が広まった。食堂での会話に俺の名前が混じる。
「上杉が寄付したらしいぞ」
「へぇ、金持ちは違うな」
背中がむず痒くなる。
北園が部屋に乗り込んできた。
「おい、寄付の金額見たぞ」
頭をガシガシと掻く。
「ゼロの数、間違えてないよな?」
「間違えてない」
「……マジかよ」
北園の大げさな反応に、つい笑ってしまう。
「お前、そんな金どこから出てくるんだよ」
「企業経営してるから」
「あー、そうだった」
北園が手を叩く。
「お前、学生じゃなくて社長だった」
廊下から歓声が聞こえてきた。
「見ろよ!明日から食堂のメニューが増えるってよ!」
「マジで!?やった!」
窓から覗くと、掲示板の前で同期たちが喜んでいる。顔が自然とほころぶ。
「なんだ、案外単純に喜んでくれるんだな」
北園がニヤリと笑った。
「当たり前だろ」
肩を叩かれる。
「腹が減ってちゃ、文句を言う気力もなくなるってもんだ」
***
廊下を歩いていると、声が聞こえた。
「華族だからといって、やりたい放題するつもりか?」
拳が震える。でも直後に別の声。
「バカか?俺たちが得するんだから黙って受け取れよ」
「そうそう。文句があるなら食堂の飯食うなよ」
擁護の声に胸が熱くなる。
食堂で声をかけられることが増えた。
「上杉、ありがとな!」
「おかげで腹いっぱい食えるよ」
素直な感謝の言葉に、俺も素直に応える。
「みんなが喜んでくれて良かった」
千鶴さんが満面の笑みで近づいてきた。
「義之君!食堂のデザート、種類が増えたの知ってる?」
「ああ、栄養バランスを考えて果物も増やしてもらった」
「きゃー!最高!」
千鶴さんが俺の腕に抱きついた。柔らかい感触に顔が熱くなる。
「あ、ごめん!」
慌てて離れる千鶴さんの頬も赤い。
「つい嬉しくて」
真奈美さんも近寄ってきた。
「義之さん、ありがとうございます」
小さな声で囁く。
「みんな喜んでます」
沙織さんは少し離れたところから頷いていた。その瞳に感謝の色が浮かんでいる。
***
夜、自室で報告書を読む。数字の羅列が現実の重みを持って迫ってくる。
「玲奈が入学するまでに、環境を整えておくのが俺の役目だ」
ペンを握る手に汗が滲む。
これが華族としての生き方なのか。金で解決することが本当に正しいのか。
答えは出ない。でも——
「次に動くのは、反発する者たちがどう動くかを確認してからだ」
窓の外を見る。星が瞬いている。
胸の奥で疑問が渦巻く。でも前に進むしかない。
玲奈のためにも。
そして、この士官学校で生きていくためにも。
拳を握る。明日も戦いは続く。
***
※1 特定寄附金制度:教育機関や公益法人への寄付金制度。税制上の優遇措置がある




