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閑話 過去に生まれ変わった科学者その1~奇跡への序章

 ガイガーカウンターの音が、今も耳の奥で鳴っている。

 2150年代、私は核融合炉の前で最期を迎えた。百歳を超えた体で、それでも研究ノートを手放せなかった老科学者。瞳孔が光を失う瞬間まで、原子の炎に魅入られていた。

 そして今──1910年のロンドンで、私は10歳の少年として震えている。

 

 冷たい石畳の上で、小さな手を見つめる。皺もシミもない、柔らかな皮膚。でも、この手が覚えている。ウラン235の臨界量も、プルトニウムの半減期も、全て。

(なぜ、私なのか)

 答えはあの白い空間にある。


***


「君の願いは?」

 管理者と名乗る存在は、輪郭さえ定かでなかった。ただ、声だけが虚空に響く。

「マンハッタン計画が始まる前の世界に」

 即答した。百年の人生で、最も後悔したことがある。

 広島。長崎。

 私が生まれる前に落とされた原爆が、どれほど多くの未来を焼き尽くしたか。核融合を平和利用に導いた私でさえ、その原罪からは逃れられなかった。

「面白い選択だ」

 管理者の声に、かすかな興味が滲む。

「だが、全く同じ世界への転生は不可能だ。歴史の修正力が働く。少し異なる世界線なら──」

「構わない」

 私は遮った。どの世界線でも、核の炎が人を焼く未来だけは避けたかった。


***


 1910年、イギリスの地方都市。

 煤煙が立ち込める工業地帯の片隅で、私は労働者階級の息子として生まれ変わった。父は工場で機械油にまみれ、母は洗濯で指を赤く腫らしていた。

 でも、彼らは私を愛してくれた。

「アーサー、また本を読んでるのかい?」

 母が心配そうに覗き込む。私──アーサー・カヴェンディッシュは、10歳にして大学の物理学教科書を読み漁っていた。

「お母さん、原子って知ってる?」

「さあ、難しいことは分からないけど……」

 母は優しく微笑む。この人たちに、私が2150年代から来た核物理学者だなんて、言えるはずもない。


 夜、薄い毛布にくるまりながら考える。

(核爆弾は愚行だった)

 前世の記憶が疼く。研究室で見た被爆者の写真。放射線が人体に与える影響のデータ。数字の羅列の向こうに、失われた命があった。

 でも同時に知っている。核分裂も核融合も、使い方次第で人類の希望になることを。

(今度こそ、正しい道へ導く)

 小さな拳を握りしめる。この手で、歴史を変えてみせる。


***


 1930年、ロンドン大学。

 20歳になった私は、奨学金を得て物理学科に進んでいた。広大な講堂で、教授が黒板に数式を書き連ねる。

「量子力学の基礎方程式は──」

 退屈だった。私にとっては小学生レベルの内容。でも、演技は必要だ。適度に質問し、適度に間違え、そして適度に「天才」を演じる。

「カヴェンディッシュ君、君の洞察力は素晴らしい」

 指導教授のハリントン博士が、実験室で目を輝かせた。私が提出したウラン原子核に関する仮説を読んだ後だった。

「ただの思いつきです」

 謙遜してみせる。でも手が震えた。早すぎる発見は、歴史を歪めるかもしれない。

 

 深夜の実験室。

 ガイガーカウンターのカチカチという音が、前世の記憶を呼び覚ます。ウラン鉱石のサンプルを前に、私は一人で測定を続けていた。

(この放射線が、いつか街を焼く)

 胸が締め付けられる。でも、だからこそ──

「制御できれば、無限のエネルギーになる」

 呟きが、暗い実験室に響いた。


***


 1935年、コペンハーゲン。

 国際物理学会の会場は、熱気に包まれていた。ニールス・ボーア、ヴェルナー・ハイゼンベルク、エンリコ・フェルミ──歴史に名を刻む巨人たちが、目の前にいる。

「ウラン原子核の分裂可能性について」

 私の発表が始まると、会場がざわついた。まだ誰も核分裂を実証していない時代に、私は理論的可能性を示していた。

「興味深い理論だ」

 ハイゼンベルクが立ち上がる。鋭い眼光が私を射抜く。

「だが、実験的証拠は?」

「まだありません。しかし──」

 私は用意していた計算式を示す。中性子衝突の確率、質量欠損からのエネルギー算出。前世の知識を、この時代の言葉に翻訳していく。

 

 会議の後、ボーアが私を呼び止めた。

「君の理論が正しければ、膨大なエネルギーが解放される」

 彼の声は静かだったが、瞳の奥に不安が宿っていた。

「はい。だからこそ、制御が重要です」

「制御……か」

 ボーアは遠くを見つめる。きっと彼も感じているのだ。この発見が孕む、光と闇を。


***


 1939年、ベルリンからの報せが世界を震撼させた。

 オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンが、ついに核分裂を実証したのだ。私の理論が現実になった瞬間だった。

 そして──

「カヴェンディッシュ博士、アメリカからの招聘状です」

 研究室の助手が、震える手で封書を差し出した。差出人は、アメリカ陸軍。

 

 夜、下宿の狭い部屋で手紙を読む。

『貴殿の核分裂理論に関する研究は、我が国の安全保障上、極めて重要である。極秘研究計画への参加を要請する』

 マンハッタン計画。

 ついに、運命の瞬間が来た。

 

 手が震える。でも、恐怖じゃない。これは──使命感だ。

(今度こそ、核の炎を破壊ではなく創造へ)

 

 翌日、私はアメリカ大使館を訪れた。

「参加の条件があります」

 向かいに座る軍服の男──後にグローヴス准将と知る──が眉をひそめた。

「条件?」

「核爆弾の開発には協力しません」

 空気が凍る。准将の顔が険しくなった。

「君は我々が何を求めているか分かっているのか?」

「分かっています。だからこそ、別の道を提案したい」

 

 私は持参した資料を広げる。核分裂の平和利用、原子力発電の可能性、そして──核融合への道筋。

「これらの技術があれば、戦争に勝つ必要すらなくなる」

「理想論だ」

 准将が吐き捨てる。でも、隣にいた科学顧問が身を乗り出した。

「待ってください。この理論は……」


***


 数週間後、ロスアラモス。

 砂漠の真ん中に作られた秘密都市に、私は降り立った。乾いた風が頬を刺し、遠くで砂塵が舞い上がる。

 ここで、歴史を変える戦いが始まる。

 

「ようこそ、カヴェンディッシュ博士」

 オッペンハイマーが出迎えてくれた。痩せた体に、深い憂いを宿した瞳。後に「原爆の父」と呼ばれる男は、まだその重荷を知らない。

「一緒に働けて光栄です」

 握手を交わす。彼の手は、思ったより冷たかった。

 

 研究棟への道すがら、オッペンハイマーが呟いた。

「我々は神の火を盗もうとしている」

「いいえ」

 私は立ち止まる。

「我々は、その火で人々を温めるべきです」

 

 彼が振り返る。夕陽が、二人の影を長く伸ばしていた。

「君は、本当に核爆弾を作りたくないのか?」

「作りたくない、じゃない」

 拳を握る。爪が掌に食い込む痛みが、決意を研ぎ澄ます。

「作らせない」

 

 その夜、宿舎のベッドで天井を見上げる。

 木造の粗末な建物の隙間から、星が見えた。この星空の下で、人類の運命が決まろうとしている。

(私は未来を知る者として、過去を変える罪を背負った)

 でも、後悔はない。

 原子の炎は、破壊の光ではなく、希望の灯となるはずだ。

 

 明日から、本当の戦いが始まる。

 科学者たちの頭脳戦。政治家たちとの駆け引き。そして──歴史という巨大な流れとの格闘。

 

 眠りに落ちる寸前、ふと思った。

(歴史は繰り返すというが、私は二度目の歴史を書き換えるためにここにいる)

 

 遠くで、コヨーテの遠吠えが響いた。

 荒野の夜は、静かに更けていく。

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