第38話 華族と士官学校と掟
4月末、※1カッター訓練が終わった。
オールを置く。手のひらが火傷みたいに熱い。マメが潰れて、透明な液体が滲んでる。
でも、胸の奥に温かいものが広がる。
みんなの顔も同じだ。疲れ切ってるけど、目が輝いてる。
「おい上杉、片付け手伝えよ」
北園が声をかけてくる。Tシャツが汗で背中に張り付いてる。でも、口元は笑ってる。
「分かってるよ」
オールを担ぐ。肩に食い込む重さ。でも嫌じゃない。
そんな時――
「上杉君、ちょっと話があるんだけど……」
田村だ。声を潜めてる。
背筋にゾクッと冷たいものが走る。表情が硬い。目が泳いでる。
「何だ? 後片付けが――」
「倉庫裏に来てくれ。あんまり大っぴらに話したくないんだ」
大っぴらに――
喉の奥が締まる。嫌な予感しかない。
***
倉庫裏。
カビと埃の匂いが鼻をつく。薄暗い。
もう一人いた。山田だ。
二人とも落ち着かない。足をもじもじさせてる。
俺の胃がキリキリし始める。
「呼び出して悪いな」
田村が口を開く。唇が乾いてるのが分かる。
「実はさ、伊藤君のことで相談があるんだ」
伊藤。
胸の奥で何かがざわつく。あの値踏みするような目――
「俺の対番か? それで?」
声が硬くなる。
「伊藤君さ、自分の仕事を俺達の対番1年生に全部押し付けてるんだよ」
全部?
耳を疑う。でも、二人の顔は真剣だ。
「洗濯とかアイロンがけとか掃除とか」
山田が続ける。手が震えてる。怒りか、それとも――
「しかも、1年生が文句を言っても『お前たちは俺とは違う』って」
華族として威張り散らして――
拳を握る。爪が掌に食い込む。痛い。
でも、それ以上に腹の底が熱い。
「なるほどな……」
なるほどじゃない。最低だ。
俺の前では猫かぶってたのか。
三男として家で軽んじられてきた鬱憤を――
そんな考えが頭をよぎる。でも、それは言い訳にならない。
「上杉君が指導しているときだけ大人しくしてるんだよ」
田村の声に悔しさが滲む。
「だから、俺たちじゃどうにもならない。華族相手に意見するなんて……」
怖い、か。
その気持ちは分かる。でも――
「よし、わかった」
即答する。喉がカラカラだ。でも、声は震えない。
「俺が話をつける。任せてくれ」
二人の顔がパッと明るくなる。
その信頼が、重い。でも、逃げない。
***
翌日、中庭の隅。
噴水の音だけが響く。人通りは少ない。
伊藤が来た。
相変わらず涼しい顔。でも、俺の視線に気づいたのか、肩がピクッと動く。
「何かご用でしょうか?」
敬語。でも、目は笑ってない。
「伊藤、洗濯やアイロンがけに困っているようだな」
単刀直入に切り出す。
顔色が変わる。一瞬、青白くなった。
「そ、それは……同期に頼んでいます」
頼む? 命令の間違いだろう。
腹の底がグツグツと煮えたぎる。
「でも、お金を渡しているので正当だと思います」
お金。
その言葉で、何かがプツンと切れた。
「それが正当だと思っているのか?」
声が低くなる。抑えてるつもりだけど、震えてる。怒りで。
「士官学校は全て自分のことを自分でやる場所だ」
一歩前に出る。伊藤が後ずさる。
「それができないなら、ここを出て行け」
「で、でも……」
動揺してる。唇が震えてる。
今まで通用してた理屈が、通じない恐怖。
「言っておくが、5分以内に決めろ」
腕時計を見る。秒針がカチカチと動く。
心臓の鼓動と重なる。
「自分でやるのか、それとも俺が教官に報告して※2放校処分になるかだ」
放校処分。
その言葉に、伊藤の顔から血の気が引く。
1分。
額に汗が滲む。拭おうとして、手を止める。
2分。
拳を握りしめてる。指の関節が白い。
3分。
唇を噛んでる。血が滲みそうなくらい強く。
4分。
肩が小刻みに震えてる。プライドと現実の板挟み。
4分30秒――
「……わかりました」
うなだれる。
肩が落ちる音が聞こえそうだ。
「自分でやります。申し訳ありませんでした」
声が震えてる。屈辱と後悔と、少しの安堵。
「自分の価値を示すには行動が必要だ。見ているぞ」
最後に念を押す。
胸の奥で、何かがチクリと痛む。厳しすぎたか?
……いや、これが必要だ。
***
夕方、食堂。
ざわめきの中、田村と山田に報告する。
「伊藤君にちゃんと話をした」
二人の目が丸くなる。箸が止まる。
「本当に? あの伊藤が?」
「ああ。もう1年生に押し付けることはないはずだ」
安堵の表情。でも――
「いや、俺の監督不足だった」
頭を下げる。首筋が熱い。恥ずかしい。でも、これは俺の責任だ。
「やめてくれよ!」
田村が慌てる。
「上杉君がいなかったら、俺たちや対番の1年がどうなってたか」
山田も頷く。
「そうだよ。華族相手に物申せる同期がいるって、本当に心強い」
その言葉に、胸が熱くなる。
喉の奥が詰まる。泣きそうになる。堪える。
「もしまた華族絡みで理不尽なことがあったら、すぐに俺に言ってくれ」
声が少し震えた。情けない。でも、二人は気づかないふりをしてくれる。
「助かる。それなら安心だ」
「やっぱり上杉君は頼りになるね」
笑顔が返ってくる。
温かい。仲間っていいな。
***
数日後の朝、洗濯室。
ドアの隙間から覗く。
伊藤がいた。
不器用な手つきでシャツにアイロンをかけてる。
額に汗。シャツの襟が濡れてる。
手が震えてる。慣れない作業に苦戦してる。
でも、やってる。自分で。
目が合った。
一瞬、顔が赤くなる。恥ずかしそうに目を逸らす。
でも、すぐに背筋を伸ばして、小さく頭を下げた。
俺も軽く頷き返す。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
彼は変わろうとしている。
それで十分だ。
***
夜、ベッドで天井を見上げる。
華族として生まれた責任。
それは特権を振りかざすことじゃない。
むしろ率先して規律を守り、仲間を守ること。
伊藤も、少しずつ理解し始めた。
行動で示そうとしている。
でも――
俺は正しかったのか。
あんなに厳しく言う必要があったのか。
胸の奥がモヤモヤする。
……いや、必要だった。
士官学校の掟は絶対だ。
階級も家柄も関係ない。
ここでは行動だけが全て。
それでも、人は変われる。
伊藤が証明しつつある。
窓の外で、誰かが笑い声をあげた。
1年生だろうか。屈託のない声。
少しだけ、肩の力が抜ける。
明日も訓練だ。
伊藤の成長を見守りながら、自分も成長しなければ。
対番としての責任。
2年生としての自覚。
まだまだ、学ぶことは多い。
でも、今日は少し前進した。
そう信じて、目を閉じる。
***
※1 カッター訓練:手漕ぎボートを使った集団訓練。チームワークと体力を鍛える
※2 放校処分:士官学校からの退学処分。将来の軍人への道が閉ざされる重い処分
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