第37話 進級と海軍士官教育
2年生の制服が妙に重い。
肩に食い込む肩章の重み。いや、違う。重いのは制服じゃない。
廊下を歩きながら、胸の刺繍されたバッジに触れる。金糸が指先に冷たい。
心臓がドクドクと脈打つ。興奮? ……いや、不安だ。
進級式での発表が頭をよぎる。陸、海、空の三部門。俺と北園は海軍・操縦士適性で同じクラス。
偶然じゃない。選ばれたんだ。でも――
「上杉、お前もこっちか」
北園の声で振り返る。軽い口調。でも、目の奥に闘志が燃えてる。
「まあな。同じクラスなら、今度こそお前に追い越されないように気をつけないとな」
冗談めかして返す。なのに、喉がカラカラだ。
「そう簡単にはいかないさ」
北園が拳を握る。
「でも、俺も負けるつもりはない」
負けるつもりはない――その言葉が胸に突き刺さる。
去年の自分を思い出す。慎重すぎると言われ続けた日々。手のひらがじっとりと湿る。
今年は違う。違わなければ。でも――
***
教室のドアに手をかける。
ドアノブが冷たい。深呼吸。肺に空気が入らない。浅い呼吸を繰り返す。
ドアを開ける。
緊張感が肌を刺す。2年生の教室。去年とは違う空気。
みんなが振り返る。見慣れた顔ばかりだ。なのに、視線が重い。
窓際の席に座る。春の光がまぶしい。目を細める。
配られた資料を手に取る。ずっしり重い。ページ数を見て息を呑む。
これが2年生か。胃の奥がキリキリする。
北園を見る。
机に肘をつき、資料を睨んでる。眉間にシワ。集中力の塊だ。
ライバル――その言葉が喉に引っかかる。
去年は仲間だった。今年は?
***
教官が入ってくる。
空気が変わる。全員の背筋がピンと伸びる音が聞こえそうだ。
「2年生になった君たちは、さらに高い水準を求められる」
声が重い。腹の底に響く。
「操縦士としての基礎能力はもちろんだが、戦術や戦略を理解する頭脳も不可欠だ」
頭脳。
去年の俺に最も欠けていたもの。耳の奥が熱くなる。
慎重なだけで、戦略がなかった。
「そして、もう一つ重要な責任がある」
教官が続ける。
「※1対番制度だ。君たちは1年生の指導を担当する」
対番。胸の奥がざわつく。
俺も有馬先輩に世話になった。今度は俺が――
「対番の割り当ては明日発表する」
誰を担当することになるんだろう。
手のひらに汗が滲む。教える側になる。できるのか。
***
午後、シミュレーター室。
機械の唸りが骨に響く。オイルと金属の匂いが鼻をつく。
「シミュレーションとはいえ、これは単なる練習ではない」
教官の声が鋭い。鼓膜がビリビリする。
「各自、自分が戦場にいるつもりで取り組め」
戦場。その言葉で全身の毛が逆立つ。
操縦席に座る。
レザーが冷たい。いや、俺の手が熱いのか。
コントロールレバーを握る。滑る。汗を拭う。
「全センサー異常なし。動作チェック完了……」
声に出して確認。震えを押し殺す。
「よし」
離陸。スムーズだ。でも、操縦桿が妙に軽い。
高度を上げる。安定している。旋回――
硬い。
歯を食いしばる。もっと滑らかに。でも、身体が硬直してる。
着陸。問題なし。
でも――
何かが足りない。
去年と同じだ。安全運転。慎重すぎる操縦。
隣のシミュレーターで北園が操縦している。
力強い動き。的確な旋回。攻めの姿勢が見える。
比べてしまう。胸が締め付けられる。
***
海軍士官教育が始まる。
教室の空気が変わる。より専門的に、より実戦的に。
「今日は実際に起きた海戦を題材に学ぶ」
教官がスクリーンを指す。地中海での航空支援作戦。
「この作戦、なぜ失敗したと思う?」
資料を見つめる。文字が踊る。集中できない。
誰かが答える。
「航空機の投入が遅れたから……?」
「それは結果だ。なぜ遅れた?」
沈黙。
俺も分からない。いや、分かってる。でも言えない。
喉が詰まる。唾を飲み込む。
「指揮官が慎重になりすぎて、好機を逃したんです」
言った。自分の声とは思えない。
教官が頷く。
「その通り。慎重さは大切だが、戦場では一瞬の躊躇が命取りになる」
胸に刺さる。
まるで俺のことを言われているようだ。
顔が熱い。耳まで赤くなってるのが分かる。
***
シミュレーター演習。
グループに分かれる。俺が指揮官役。
手が震える。マウスを握り直す。
画面に敵艦隊。距離2万メートル。接近中。
心臓が早鐘を打つ。
「航空機、いつ出す?」
部下役の同期が聞く。
分からない。タイミングが読めない。
額に汗が滲む。拭う。また滲む。
待つ。待つ。
……待ちすぎた。
「出撃!」
遅い。
画面が赤く染まる。対空砲火。警告音。
航空機のマーカーが消えていく。
撃墜3機、大破2機。
胃が締め付けられる。吐き気がこみ上げる。
拳を握りしめる。爪が掌に食い込む。痛い。
「君たち、一歩先を読めていない」
教官の指摘。
分かってる。でも、できない。なぜだ。
***
夜、寮の自室。
机に資料を広げる。手が止まらない。ページをめくる音だけが響く。
敵艦の移動パターン。航空機の展開速度。
数字は分かる。理論も理解できる。
でも――
ペンを置く。手を見つめる。
まだ震えてる。
翌日の演習。
深呼吸。肺いっぱいに空気を入れる。
落ち着け。でも、落ち着きすぎるな。
画面を睨む。
敵の動きを観察。前回と違う。もっと攻撃的だ。
でも――見える。
次の動きが。パターンが。
「航空機、発進」
今度は早い。声も震えてない。
航空機が飛び立つ。敵艦に接近。
対空砲火。でも、散発的だ。
こちらが先手を取った。
「攻撃開始」
魚雷投下。命中。
敵艦のマーカーが点滅、消失。
損害報告。軽微な被弾1機のみ。
成功だ。
全身から力が抜ける。椅子にもたれかかる。
「上杉、今の指示は良かったぞ」
教官の言葉。
ほっと息を吐く。シャツが汗でびっしょりだ。
でも――これで満足?
いや、まだだ。まだ始まったばかり。
***
翌日、対番の発表。
掲示板の前に人だかり。
自分の名前を探す。あった。
『上杉義之――伊藤春樹』
伊藤春樹。
聞いたことがある。伊藤伯爵家の3男。
学習院での噂。爵位が下の家に当たりが強いという――
背中がゾクッとする。
厄介な相手を引いたかもしれない。
「よろしくお願いします、上杉先輩」
声がして振り返る。
綺麗に整った顔立ち。でも、目が笑ってない。
「伊藤か。こちらこそよろしく」
手を差し出す。
握手。力が強い。痛いくらいだ。
これも試されてるのか。
「期待してます。色々教えてください」
にこやかな笑顔。でも、どこか棘を感じる。
喉の奥が渇く。
有馬先輩は対番から外れる。
もう頼れない。今度は俺が導く番だ。
でも、この伊藤という男――
一筋縄ではいかなそうだ。
***
新しい制服の重み。
新しい責任の重み。
そして新しい人間関係の複雑さ。
2年生。
まだ慣れない響きだ。舌の上で転がしてみる。
窓の外、春の風が吹いている。
桜の花びらが舞う。美しい。でも、儚い。
去年とは違う自分になる。
そう誓った。でも――
本当にできるだろうか。
手を見る。まだ時々震える。
でも、それでも――
進むしかない。
震えながらでも、迷いながらでも。
明日も訓練だ。
明日も演習だ。
明日も、伊藤と向き合う。
一歩ずつ、確実に前へ。
それしかない。
深呼吸。
今度はちゃんと肺に空気が入った。
少しずつ、変われるはずだ。
***
※1 対番:士官学校における上級生が下級生を指導する制度。1対1で担当が決められ、学業から生活指導まで幅広くサポートする
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