閑話 千鶴とピアノコンクール
朝の冷気が肺に突き刺さる。
私は無意識に肩をすくめた。今日は制服じゃない。白いワンピースの裾が、歩くたびに膝に触れる。
慣れない感触に、足取りが少しぎこちない。
ピアノコンクール。胸の奥で何かがざわめく。
「緊張してる?」
振り返ると、同室の由美子が心配そうに見ていた。
「大丈夫よ」
声が少し上ずった。由美子は何も言わずに、私の肩をポンと叩く。
「がんばって」
その温かさに、喉の奥が熱くなる。
***
会場への道のり。革靴のヒールが石畳に響く。
士官学校を出て、こんなに華やかな場所に来るのは久しぶりだ。周りの参加者たちのドレスが眩しい。
私の白いワンピースが、急に地味に思えてくる。
「松平さん?」
声をかけられて顔を上げる。審査員の一人だった。
「士官学校の制服じゃないと、印象が違いますね」
愛想笑いを浮かべる。頬の筋肉が強張ってるのが分かる。
控室に入ると、空気が変わった。
ピアノの音が壁越しに聞こえてくる。誰かの演奏。完璧な技巧。私の手が、無意識に震え始める。
楽譜を取り出す。書き込みだらけのページ。インクの匂いが鼻をつく。
深呼吸。でも、息が浅い。
ポケットの携帯が震える。メッセージ。
『頑張れ』
義之君からだ。たった二文字。なのに、目頭が熱くなる。
……いや、泣いてる場合じゃない。
***
「次の方、松平千鶴さん」
名前を呼ばれた瞬間、全身の血が引いていく感覚。
立ち上がる。膝がかすかに震えてる。大丈夫、歩ける。
舞台袖から見える観客席。黒い塊にしか見えない。目眩がする。
ピアノの前に座る。革張りの椅子が冷たい。
鍵盤が目の前に広がる。88個の白と黒。いつもと同じはずなのに、今日は違って見える。
指を置く。
最初の音。
ショパンの「幻想即興曲」。選んだ理由は――今は考えない。
指が勝手に動き始める。訓練で鍛えた集中力が、音楽に向かう。
中盤。難しいパッセージ。指がもつれそうになる。
心臓が早鐘を打つ。でも、止まらない。止まれない。
クライマックス。額に汗が滲む。でも拭えない。
最後の音。
静寂。
そして、拍手。
立ち上がってお辞儀。足がガクガクする。でも、笑顔を作る。頬が引きつってるかもしれない。
***
舞台裏。
椅子に崩れ込む。全身から力が抜ける。
手を見る。まだ震えてる。でも、悪い震えじゃない。
「やり切った」
声に出してみる。胸の奥が、じんわりと温かい。
他の参加者の演奏を聴きながら、徐々に呼吸が落ち着いてくる。
みんな上手い。私なんて――
……いや、比べても仕方ない。
***
「第2位、松平千鶴さん」
え?
自分の名前だと理解するのに、一瞬かかった。
立ち上がる時、隣の人が「おめでとう」と囁いてくれる。
その優しさに、また喉が詰まる。
トロフィーを受け取る。思ったより重い。
「士官学校での訓練と両立されての受賞、素晴らしいです」
司会者の言葉に、観客がざわめく。
そうか、みんな知ってるんだ。私が士官候補生だってこと。
急に恥ずかしくなる。でも、同時に誇らしさも湧いてくる。
***
寮への帰り道。
トロフィーを抱えて歩く。通行人の視線が痛い。
「目立ちすぎたかな」
独り言が漏れる。
寮の入り口。見慣れた建物なのに、今日は違って見える。
「おかえり」
声がして顔を上げる。義之君が壁にもたれて立っていた。
「どうだった?」
「2位だった」
言いながら、トロフィーを少し持ち上げて見せる。
「すごいな」
彼の素直な驚きに、頬が熱くなる。
「訓練もあるのに、よく練習する時間作れたな」
「朝早く起きて……」
言いかけて、止める。苦労話なんて聞きたくないだろう。
「本当にすごいと思う」
義之君の真っ直ぐな視線に、心臓がドキリとする。
「ありがとう」
それだけ言うのが精一杯だった。
***
自室に戻る。
トロフィーを机に置く。金属の冷たさが、まだ手のひらに残ってる。
ベッドに倒れ込む。天井を見上げる。
今日一日のことが、走馬灯のように頭を巡る。
緊張、不安、達成感、そして――
義之君の「すごいな」が、耳の奥でリフレインする。
顔を枕に埋める。熱い。
***
翌日の昼休み。
「松平、聞いたぞ」
田所先輩が近づいてくる。にやにや笑いが、なんだか嫌な予感。
「ピアノコンクール準優勝だって?」
「はい」
「開校祭で演奏してくれよ」
心臓が跳ねる。開校祭って、全校生徒の前で?
「あの、私は――」
「遠慮するなって。みんな聴きたがってる」
みんなって誰。
胃の奥がキリキリする。注目されるのは――
「少し、考えさせてください」
「おう、待ってるよ」
田所先輩が去った後、深いため息が漏れる。
どうしよう。
***
夜、練習室。
誰もいない部屋で、一人ピアノに向かう。
コンクールの時とは違う。ここは私の場所。
指が鍵盤を滑る。音が部屋を満たす。
ふと、開校祭のことを考える。
大勢の前で弾く自分。想像しただけで、手が震えそうになる。
でも――
「逃げちゃダメよね」
呟いて、また弾き始める。
次はもっと上手くなる。絶対に。
窓の外は真っ暗。でも、私の中には小さな灯りが点いている。
それを大切に、一音一音を紡いでいく。
明日も、明後日も。
ずっと。
ネットコン13挑戦中。締め切りは7/23 23:59まで。
最後まで全力で駆け抜けます。
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