第21話 上杉特別情報局(USTI)の設立準備
深夜の書斎。
父が差し出した一枚の紙に、俺は息を呑んだ。喉の奥がカラカラに乾く。
「上杉特別情報局――これを作れ」
簡潔な命令。でも、その重さで肩が内側に丸まった。背骨に冷たい汗が伝う。
高校生が諜報機関を? 正気か?
「期限は?」
声が掠れた。唾を飲み込む。
「士官学校入学まで」
半年。たった半年で、国家と渡り合える組織を作れと?
父の目に迷いはない。瞳孔が縮む。これは試験だ。跡取りとしての――いや、それ以上の何かを試されている。
震える手で名簿を受け取る。紙の端が、微かに湿った。
最初の名前が目に飛び込んできた。
夏見康孝。元警察庁キャリア、内閣情報調査室。
胃がきゅっと締まる。公安か。
経歴の行間が、多くを語っていた。
***
三日後、品川のホテルのバー。
約束の時間より三十分早く着いた。でも、彼はすでにいた。
カウンターの端、死角の少ない席。グラスの位置、新聞の置き方――全てが計算されている。
足が一瞬止まった。呼吸を整える。
「上杉義之です」
「存じています」
振り向いた瞬間、全身を舐められたような感覚。肌が粟立つ。
年齢、体格、歩き方、服装――瞬時に情報を読み取る目。元公安の目だ。
「ウイスキーは?」
「まだ高校生です」
舌が上顎に張り付いた。
「失礼」
かすかな笑み。額に汗が滲む。試していたのか。
俺はオレンジジュースを注文し、単刀直入に切り出した。グラスを握る手に力が入る。
「上杉特別情報局。その中核を担ってもらいたい」
夏見の指が、グラスの縁をなぞる。
一回、二回、三回。俺の脈拍が、そのリズムに同調した。
「御曹司が諜報機関を?」
「必要だからです」
顎に力を込める。
「誰にとって?」
試されている。腹筋が固くなった。
俺は身を乗り出した。椅子が軋む。
「これから日本は変わる。技術で、経済で、そして――情報で。上杉家がその中心にいるためには、目と耳が必要です」
沈黙。
耳鳴りがする。バーのBGMだけが流れる。ビル・エヴァンスのピアノ。もの悲しい旋律が、緊張を増幅させた。
「内調を辞めた理由を聞かないのですか?」
夏見が口を開いた。
喉仏が上下する。
「過去より、未来に興味があります」
彼の目が、初めて温度を帯びた。肩の力が、少しだけ抜けた。
***
「条件を聞きましょう」
夏見がグラスを置いた。氷が小さく鳴る。その音で、背筋がピンと伸びた。
俺は準備していた資料を広げた。……いや、違う。指が止まる。ここでは出さない。言葉で勝負だ。
「上杉グループのAI技術。世界中の駐在員ネットワーク。これを国家機関と共有します」
口の中が乾く。
「見返りは?」
「活動の自由」
夏見の眉が動いた。鼓動が早まる。
「もっと具体的に」
「超法規的措置の黙認。限定的な実力行使の許可」
言い切った瞬間、首筋が熱くなった。
「それは――」
「無理ですか?」
挑発的に聞こえたかもしれない。掌に汗が滲む。でも、これは駆け引きだ。
夏見は指でテーブルを軽く叩いた。リズムを刻むように。その音が、俺の心臓に響く。
「内調の連中は、民間組織を信用しない」
胸が締め付けられる。
「でも、欲しがるでしょう? 上杉の技術を」
声が震えないよう、息を整えた。
「確かに」
彼はグラスを空けた。
「一つ、個人的な質問を」
背中が冷たくなる。
「どうぞ」
「なぜ私なのです?」
正直に答える。舌を湿らせた。
「プロが必要だからです。綺麗事だけでは組織は作れない」
夏見が立ち上がった。
膝が震えた。終わりか? いや――
「明日、もう一度会いましょう。今度は私から提案があります」
握手。
彼の手は、思ったより温かかった。指先の震えが、相手に伝わらないことを祈る。
***
翌日、場所は変わって上杉グループのセキュアルーム。
電波も届かない、完全に遮断された空間。扉が閉まった瞬間、耳が詰まったような感覚。
「昨日の話、本気ですね」
夏見が室内を見回しながら言った。
「ここまでするとは」
鼻から深く息を吸う。
「本気でなければ、あなたを呼びません」
俺は向かいに座った。太ももに力が入る。今日は、こちらのホームだ。
「率直に言います」
夏見が身を乗り出した。その動きで、俺の肩甲骨が強張った。
「USTIは作れます。ただし、あなたが思っているような組織にはならない」
眉間に皺が寄る。
「どういう意味です?」
「国家は飼い犬は欲しがっても、番犬は嫌がる」
なるほど。喉の奥で苦いものが込み上げる。
でも――
「だから、表向きは飼い犬を演じる」
俺は答えた。口角が勝手に上がる。
「実際は?」
「鎖を噛み切る番犬」
夏見が初めて、声を出して笑った。その笑い声で、胸の奥が熱くなった。
「若いのに、よく分かっている」
そして、真顔に戻る。空気が変わった。皮膚がピリピリする。
「私の条件です。第一に、完全な自律性。私は国家の犬ではなく、上杉家の犬になる」
唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。
「他には?」
「天下り先の確保。内調のOBを数名、表向きは海外安全対策室で雇用する」
計算していた。頬が熱い。この男、最初から乗り気だったのか。
「最後に」
夏見が立ち上がった。影が俺を覆う。息が詰まった。
「失敗したら、あなたも無傷では済まない。それでも?」
覚悟を問われている。腹の底がぐらぐらと揺れた。
俺も立ち上がる。膝が一瞬、がくつく。
「上杉の名に懸けて」
声は震えなかった。……たぶん。
***
一ヶ月後。
夏見の根回しが始まっていた。
「内調が興味を示しています」
深夜の電話。暗号化された回線でも、手に汗が滲む。
「条件は?」
「AI技術の共有。ただし、コアな部分は除外」
ほっと息が漏れた。
「公安は?」
「様子見です。でも、反対はしていない」
慎重に、でも着実に。
蜘蛛が巣を張るように、夏見は人脈を活用していく。
***
ある夜、緊急の呼び出しがあった。着信音で、心臓が跳ね上がる。
「問題が起きました」
夏見の声が硬い。背筋が凍った。
「海軍情報部が横槍を入れてきた。独自の諜報網を恐れているようです」
やはり来たか。奥歯を噛みしめる。
すんなりいくはずがない。
「どうします?」
指が震えた。
「会いましょう。今すぐ」
午前二時、お台場の倉庫街。
なぜこんな場所を? 不安が胸を締め付ける。でも、すぐに理解した。
監視の目が届かない場所。冷たい潮風が、頬を刺す。
「脅しですか?」
俺は単刀直入に聞いた。喉が詰まる。
「違います」
夏見が首を振る。
「これが現実です。甘くない」
そして、一枚の写真を見せた。
指先が冷たくなった。海軍の高官と、見知らぬ外国人。
「これは?」
声が掠れる。
「切り札です。ただし、使えば敵を作る」
諜報の世界。
綺麗事では済まない世界。胃液が込み上げる。
「使いますか?」
夏見が問う。その目が、俺の内臓を掴むようだ。
息を吸う。肺が震える。
吐く。唇が乾く。
そして――
「いいえ」
腹の底から声を出した。
「なぜ?」
「敵は作らない。味方に変える」
夏見の表情が変わった。瞬きが増えた。
驚き? いや、違う。評価だ。脈拍が落ち着く。
「具体的には?」
「海軍にもメリットを提供します。彼らが欲しがる情報を、優先的に」
言いながら、掌の汗を拭った。
「なるほど」
夏見が写真をしまった。
「あなたは思ったより――したたかだ」
その言葉に、背筋がゾクリとした。
***
さらに二ヶ月。
交渉は難航したが、少しずつ形になっていく。
ある日の会議室。
内調、公安、海軍情報部の代表が集まった。非公式の、しかし重要な会合。
室内の空気が重い。シャツが背中に張り付く。
「上杉グループの提案を検討しました」
内調の代表が口を開く。鼓動が耳に響く。
「条件付きで、協力関係を結ぶ用意があります」
安堵で膝から力が抜けそうになった。でも、まだだ。
条件は予想通り厳しかった。一つ一つ聞くたびに、顎に力が入る。
でも、交渉の余地はある。舌で唇を湿らせた。
会議後、夏見と二人きりになった。
「第一歩ですね」
声が震えている。隠せない。
「ええ。でも、ここからが本番です」
夏見は窓の外を見ている。
視線の先には、東京の夜景。その光が、網膜に焼き付く。
「後悔はありませんか?」
俺は聞いた。喉が締まる。
「国家の犬から、民間の犬に」
「犬は犬でも」
夏見が振り返る。目が光った。
「飼い主を選べる犬になりました」
その笑みは、獰猛だった。俺の背中を、冷たいものが走り抜けた。
***
父への報告。
書斎で待っていた父は、いつもの無表情。でも、空気が違う。肌がピリつく。
「USTIの基礎は固まりました」
声を絞り出す。
「ほう」
短い返事に、汗が噴き出た。
「夏見を局長に。組織の骨格も」
資料を渡す。手が、微かに震えている。
父はじっくりと目を通し――沈黙が、俺の心臓を締め上げる。
「思ったより早い」
それだけ。腹の底が、ぐらりと揺れた。
褒め言葉なのか、分からない。
「これで終わりではありません」
かろうじて言葉を継ぐ。
「分かっている」
父が立ち上がる。その動きで、俺の全身が強張った。
「義之。覚えておけ」
息が止まる。
「はい」
「組織は生き物だ。作って終わりじゃない。育てなければ」
その通りだ。喉仏が大きく動いた。
これは始まりに過ぎない。
書斎を出る時、父が付け加えた。
「夏見は、良い選択だ」
初めての、明確な評価だった。
廊下に出た瞬間、膝が震えた。壁に手をつく。冷たい。
***
深夜、自室で一人。
窓の外には、変わらない東京の夜景。
でも、水面下では変化が起きている。指先が、まだ小刻みに震えている。
上杉特別情報局。
俺の手足となる組織。
夏見からメールが来た。着信音で、また心臓が跳ねる。
『明日から、本格始動です』
短い文面。
でも、重みで息が詰まる。
返信する。キーを打つ指が、汗で滑る。
『頼りにしています、局長』
画面を閉じ、目を閉じる。瞼の裏が、じんじんと熱い。
長い半年だった。
でも、これで基礎はできた。深く息を吐く。肋骨が軋む。
あとは――
育てるだけだ。
父の言葉を噛みしめながら、俺は眠りについた。
……いや、眠れるだろうか。
明日からは、本当の戦いが始まる。
掌を見る。まだ、震えが止まらない。
ネットコン13挑戦中。締め切りは7/23 23:59まで。
最後まで全力で駆け抜けます。
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