閑話 千鶴視点 ピアノの音色と静かな絆
学習院中等部の放課後、私はいつものように音楽室にいた。
静かな校舎の中で、ピアノの鍵盤に触れる時間が好きだった。
指が自然と動いて、ショパンの「ノクターン第2番」を奏でる。
音が響き合い、心が落ち着く瞬間だ。
華族の令嬢として求められる礼儀や立ち振る舞いから解放される、貴重なひとときだった。
その日、曲の終わり近くで背すじに細い震えが走り、指先のタッチが一拍だけ浅くなる。
顔を上げると、ドアの隙間から義之君が覗いているのが見えた。
彼は少し驚いたように目を丸くして、私を見つめていた。
私は演奏を止め、微笑みながら手招きした。唇が小さく震える。
「義之君、入って。聞いててくれるなら嬉しいわ」
彼は少し戸惑った様子で、
「邪魔じゃないか?」
と呟きながら入ってきた。私は首を振って、
「むしろ、誰かに聞いてもらえる方が楽しいよ」
と答えた。喉の奥が熱くなる。本当は……いや、これくらいがちょうどいい。
彼は近くの椅子に腰掛け、静かに耳を傾けてくれた。
再び鍵盤に手を置いて、今度はドビュッシーの「月の光」を弾き始めた。
掌に汗が滲む。彼の視線を感じて、肩甲骨の間がじりじりと熱い。
柔らかな音色が部屋に広がり、義之君の表情が少し和らいだのが分かった。
曲が終わり、私は彼に尋ねた。息が浅くなっている。
「どうだった?」
「穏やかで、頭がすっきりしたよ。千鶴さんのピアノ、すごいね」
その素直な感想に、私は小さく笑った。頬が熱を持つ。
「ありがとう。義之君は音楽、聴くの好き?」
「うん、でも自分じゃ弾けないから、こうやって聴けるのは贅沢だな」
そんな些細な会話から、私たちは音楽や文学の話で盛り上がった。
***
義之君が好きなSF小説の話題になると、彼の目が急に輝きだす。
「アシモフの『ファウンデーション』、読んだことある?」
と聞かれ、私は
「まだだけど、面白そうね」
彼の知識の広さに驚きつつ、私も負けじと
「それなら、シェイクスピアの『ハムレット』はどう?」
と切り返した。声が少し上ずる。彼は
「読んだよ。あの葛藤、深いよな」
とうなずき、私たちは互いの好きな作品を語り合った。
ある日、義之君がノートとペンを持って音楽室にやってきた。
「千鶴さんが弾いてる間に、論文の下書きでもしようかな」
と言うので、私は笑って
「いいよ、私のピアノが集中の助けになるなら」
と答えた。胸の奥で何かがきゅっと締まる。
そうして、彼が机に向かいペンを走らせる横で、私は静かにピアノを弾いた。
バッハの「平均律クラヴィーア曲集」が部屋に響き、筆が止まることなく彼の手が動く。
私には、その音と彼の集中する姿が妙に心地よく感じられた。
時折、彼のペンが止まる。眉間に皺が寄る。私は指先に少し力を込めて、音を柔らかくする。すると彼の肩が緩んで、また書き始める。言葉にしなくても、音で繋がっている気がした。
「義之君って、いつも忙しそうだね」
と私が言うと、彼は少し手を止めて、
「まあ、家のこととか、技術のこととか、やるべきことが多いから」
と苦笑した。私は鍵盤から目を離さず、
「でも、そうやって頑張ってる姿、素敵だと思うよ」
と呟いた。……本当は、もっと休んでほしいけれど。
彼は一瞬驚いた顔をして、「ありがとう」と小さく返したけど、その声には照れが混じっていた。
それ以来、彼が音楽室に来るたび、私たちは音楽と文学を介して静かな時間を共有した。
義之君の真剣な横顔を見ながら、私は思う。鼻の奥がつんとする。
彼は華族の跡取りとして大きな責任を背負ってるけど、ここでは少しだけ肩の力を抜いてるみたいだと。
私にとって、この音楽室はただの逃げ場じゃなく、彼と絆を深める場所になった。
いつか、彼が士官学校で忙しくなる日が来ても、この時間が支えになればいい。
私はそう願いながら、次の曲を弾き始めた。指先が小刻みに震えた。
***
冬の夕暮れ、音楽室の窓に雪が舞う日があった。
義之君が窓辺に立ち、「雪って静かだね」と呟いた。私はピアノを弾きながら、
「この音もそうでしょ?」
と返す。舌が上顎に張り付く。本当は、もっと違うことを言いたいのに。
彼が振り返り、穏やかに笑う。
「確かに。千鶴さんのピアノは、雪みたいに静かで、でも心に残るよ」
その言葉が、私の指にそっと響いた。まぶたが熱くなる。
***
別の日、彼が珍しく疲れた顔で現れた。机に突っ伏し、
「少し休憩させてくれ」
と小さく言う。私は何も聞かず、リストの「愛の夢」を弾き始めた。
最初の音を出した瞬間、喉が詰まる。大丈夫、と心の中で呟きながら、体が小さく震えた。
柔らかな音が包み、彼の肩が少しずつ緩むのが見えた。曲が終わり、彼が顔を上げて、
「ありがとう。これ、好きだよ」
と呟く。私は微笑んだ。唇が震える。
「またいつでも弾くよ」
……本当は、あなたのためならいつでも、と言いたかった。
言葉は少なくても、その音が彼の重荷を軽くしたなら、それでいい。顎に力が入る。
ある時、窓の外で風が木々を揺らす音が聞こえた。私は鍵盤に手を置き、
「義之君の未来って、どんな音がすると思う?」
と尋ねた。腹筋が緊張する。こんな質問、重すぎるかもしれない。
彼は少し考え、
「分からないけど……千鶴さんのピアノみたいに、静かで力強い音ならいいな」
と答えた。私は何も言わず、次の曲を弾き始めた。
瞼の裏が熱い。嬉しいのに、なぜか胸が苦しい。
音が部屋に広がり、未来をそっと想像する。
そこには、私の知らない戦いや夢があるのだろう。
でも、このピアノが彼に寄り添えるなら、それで十分だ。
それだけじゃ、たぶん届かない。でも――
鍵盤から指を離し、深く息をついた。肋骨が軋む。
ピアノの音色が義之君との絆を繋ぐ。
この静かな時間が、私を強くしてくれる。いつか彼と一緒に、未来を守るために。
ネットコン13挑戦中。締め切りは7/23 23:59まで。
最後まで全力で駆け抜けます。
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