閑話 PMCの士官学校向け訓練
焦げた草と乾いた土が混ざった匂いが鼻先を焼く。真夏の陽が雲ひとつない天蓋から降りそそぎ、地面の空気までも揺らしていた。推薦組二十名──襟に桔梗を縫い付けた俺もその列に立つ。肩を並べるのは侯爵家の嫡男、一般家系から抜擢された秀才。名簿を彩った差異は、ここでは意味を成さない。手にする黒染めナイフがただひとつの身分証だ。
迷彩ベストを揺らした教官が、喉の奥で岩礫を転がすような声を投げる。
「二十四時間。炊事、格闘、生活維持、行軍、夜営──全部クリアし"まだ息をしている"奴だけが正式に門を叩ける」
沈黙が列を走る。返事は不要と全員が悟っている。汗が背中を這い、刃の重みが手袋越しの皮膚を焦がした。その感覚は、転生前に夜の砂漠を歩いたときの鉄錆の味を連れてくる。
即席の調理ブースはパイプと鉄板で組まれ、熱せられた金属が遠慮なく日差しを跳ね返す。クーラーボックスの蓋が外れ、氷と血が一気に気化して空気に鋭い匂いを植えつけた。半解凍のイサキが放物線を描き、泥へ転がる。
「三分で解体、十分で十人前の汁を沸かせ。切り身不足なら班員全員昼抜き」
時計の秒針がカウントを始め、空気が針のように尖る。右隣の祐真──伯爵家の令息は白い手袋を濡らすことも出来ず凍り付く。
俺は膝を泥に落とし、鱗を逆撫でた。太陽光が飛び散り、小さな虹が生まれて消える。軍用ナイフは包丁より分厚く、骨へ食い込む。背骨の節を指先で探り、呼吸をひとつ噛み潰したあと、刃を寝かせる。ザクッ──骨膜が剥がれ、身が二枚に割れて鍋へ滑る。内臓も粗も迷わず分け、頭は出汁に。
「二分五十七秒。合格」
教官の声は温度を持たず、唯一の評価だけを置いて去る。祐真は震える手で鱗を払いながら視線を泳がせる。俺は味噌と野草を鍋へ投げ込み、彼の手袋に付いた鱗を払うように小さく叩いた。
「腹が減れば判断が鈍る。それだけだ」
祐真は頷くが声は出なかった。湯が沸騰し、血と泥と味噌の匂いが胃袋へ金槌を落とす。温度は栄養より兵の脈拍を戻す。
胃袋が温もりを取り戻す前に、焼けた砂利の演習場へ出る。ラバーコーティング・ナイフが配られ、試験官が影を落とす。呼吸を浅くすれば肺が焦げ、深く吸えば鉄の匂いが喉を削った。
合図の笛。砂が跳ね、試験官の腕が肩口へ潜る。刃が頬を掠め、汗とも血ともつかない熱が皮下を走る。視界の隅で光が弾け、肘を突き上げて刃筋を外へ流す。踵で膝裏を払うと相手が半歩沈み、砂塵が湧く。
反撃の肘を肩で受け、痺れが鎖骨まで走る。切創は浅い、まだ動ける。低く潜り、相手の重心を奪いに行く。膝を軸に回し、肩を刎ねる勢いで投げる──いや、殺さない。崩れた体勢に膝を落とし、刃を喉元へ寸止め。
停止の笛。
鼓膜に血流がドラムを叩き、地面が揺れる。教官の影が覆いかぶさり、低い声が落ちた。
「腱と関節を断てば喉を斬らずとも勝てる。忘れるな」
額を伝う汗が切創へ滲み、熱が脇腹を焼く。祐真の番。彼は震えを殺すように刃を構え、相手の懐へ転がり込む。左足を支点に肩を巻き込み、肘を極めた。刃が空を舞い、砂へ突き刺さる。笛──短いが確かな勝利の音。
祐真が息を吐いた。震えは残るが、眼の奥に火が宿る。血を溶かした汗が頬を塩で白く染めても、その火は途切れなかった。
仮設集会所は金属骨組みに天幕を被せただけ。洗濯機の回転音が銃声より強く鼓膜を揺らし、漂白剤の匂いが血生臭さを押しのける。
すすぎ不足のシャツは塩を吹き、糊を知らない襟は首を削る。祐真は説明書を齧り、糸くずに手を突っ込み、泡にまみれる。俺は二槽式へぬるま湯を張り、酢を一握り溶かした。血のタンパク質が微かに泡を立て、真水が汚れを剥ぐ。
脱水槽が唸り、布が遠心力で壁へ貼りつく。アイロンの蒸気が白く吹き上がると、殺気だった空気に一瞬だけ衣擦れの柔らかい匂いが混ざった。襟が立ち、布が呼吸する。戦場でも、糸一本が兵を生かす──昔の教官が吐き捨てるように言った台詞を思い出した。
午後三時。地表温度は三十六度。背嚢二十キロが背骨を軋ませ、脇腹の切創がシャツに貼りつく。斜度十五パーセントの坂が最初に待ち受け、倒木と泥沼、ロープ壁が続く。
笛。土が根ごと跳ね、心拍が一拍飛ぶ。三十メートルで汗が視界をぼかし、肺が熱鉄に換わる。倒木を超えるとき背嚢が体勢を崩し、左足首が砂利に取られた。
泥沼。踏み込むと膝上まで沈み、靴を飲み込む吸着音が腹を震わせる。祐真が背嚢の重さに沈み、顎まで泥をかぶる。
「息を吐いて浮力を作れ!」
声が裏返る。泥を掻き分けて戻り、背嚢ストラップを引き上げる。泥が濁流のように流れ、靴底が泥から離れる瞬間、重さが両肩へ移った。祐真は泥で目を閉じながら、それでも頷く。
ロープ壁。肘が切創を思い出し、汗が塩を撒く。ロープへ体重を預けず、木板を蹴り上がる。頂点で手を伸ばす。祐真が半拍迷い、しかし俺の手を掴む。彼の体重が肩へ食い込み、指先の皮が千切れそうに熱い。二人同時に着地し、砂煙が陽光を切り裂く。
最後の坂。視界が白くフラッシュし、脈拍が耳へ集まり周囲の音を消す。膝が痙攣した瞬間、"あと十歩"と数字が浮かび、脚はそれだけ動いた。号砲が腹へ響き、膝が折れ、喉へ血の味が広がる。
祐真の嘔吐音が隣で砂と混ざる。それでも心臓の拍子は同期し、まだ止まらない。空が白み始め、鳥影が一つ弧を描く。
身体が冷める前に講堂へ。ホログラム地形が浮かび、赤と青の駒が瞬く。味方十名、人質二名、敵車列一。撤退ラインに爆薬。四十五秒。味方駒に汗が滴り、床に小さな点を作る。
側面包囲を選ぶ。敵偵察ドローンを見落とし、味方が半数消える。スクリーンが深い赤を吐き、胃が縮む。祐真は時間切れ。ドクロマークは付かないが白旗でもない。教官は一枚のカードで全員の命を計算し、結論だけを突きつけた。
「遅延は死。速い間違いは訂正できるが、遅い正解は届かない」
胸骨の裏で鼓動が叫ぶ。砂を噛むより苦い敗北が粘膜を焦がした。
支給されたのはナイフと水筒一本。月を隠す雲が森を闇へ沈め、湿った葉を踏む音が遠い獣の声と谺する。
谷筋を読むため苔の濡れ具合を嗅ぎ、僅かな水音を拾う。浄化タブレットが水面を泡立たせ、鉄臭い味が舌に重い。火打石から火花がこぼれる度、闇が刹那色を変える。杉の皮を薄く削り、繊維を纏め、呼気で湿りを飛ばす。火種が赤い心臓のように呼吸を始めた瞬間、冷たい夜が一歩後退した。
罠が兎を捕え、鋭い悲鳴が闇を裂く。祐真の手が震え、刃が首へ当たる角度が揺れる。俺が手を添え、骨の位置を示す。刃が骨を割り、温い血が手袋へ広がった。
焔が肉を炙り、脂が弾ける。綿密に振った塩がじゅっと音を立て、煙が鼻腔を刺す。祐真が小さく嚥下し、言葉が漏れる。
「……怖いな」
「怖い。けど止まれば死ぬだけだ」
星が雲の切れ間へ滲み、ナイフの桔梗が淡く反射する。汗と血が混ざり、煙が目に沁み、遠い砂漠の夜とは違う湿気が肺を満たした。
夜明け三十分前。白布のテントに置かれたスクリーンに人質映像が映る。味方三名を犠牲にすれば人質十名を救える。時間二十秒。汗が冷え、指先が氷のように固まる。
祐真の瞳が揺れ、マウスが震える。タイマーが赤へ変わる。俺は五秒でボタンを押す。味方リスクを負い、人質救出。胸へ冷たい石が落ちた。
「正義を棄てる訓練でもない。だが正義だけでは生き残れん」
教官の声が夜明け前の闇を断ち切り、呼吸が一瞬止まる。どこかで鳥が鳴く、夜が終わる合図。
空が薄藍へ変わる頃、推薦組は再び整列した。装備は泥と汗で重く、黒染めの刃は湿った酸素で斑に錆を浮かせる。教官の声が地表の熱を切り裂いた。
「家柄は防弾プレートにならん。ここを越えた者だけが次を叩け」
祐真が泥まみれの手袋を外し、震える掌を差し出す。血混じりの泥が赤茶色に染め、家紋はもう見えない。
握手。指先に温度が伝わる。伝統は見えなくとも、汗と泥が同じ色になると誰もが知った。
胸の奥で、何かが軋む。伝統と汗。遺志と共創──円環はまだ閉じていない。
蝉が鳴き、発電機の唸りが遠ざかる。刃の冷たさが背骨へ縮こまり、呼吸は鉄と草の匂いを深く吸い込んだ。スタートラインは泥で刻まれ、次の門は濡れた靴のまえにある。
……たぶん、俺たちは変わり始めている。
ネットコン13挑戦中。締め切りは7/23 23:59まで。
最後まで全力で駆け抜けます。
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