閑話 管理者視点 地球と特異点
2023年9月1日。
駅のホームに、鉄と汗の匂いが満ちた。
私は見ていた。星々の管理者として、永遠に冷たい虚空から。
少女の細い足が、黄色い線を越える。
ホームの人々が息を呑む。誰も動けない。
一人を除いて。
「危ない!」
上杉義之が跳んだ。
私の胸の奥で、何かが軋む。肉体など持たないはずの私の、存在の芯が震えた。
電車の轟音。
肉が裂ける音。
少女の絶叫。
0.3秒——いや、永遠にも感じる刹那の中で、義之の瞳と私の意識が交錯した。彼は知らないだろう。自分が特異点の一人だったことを。
私は息を詰めた。肺などないくせに。
***
「なぜ助けた」
砕け散った魂を前に、私は問いかけた。答えなど返ってこない。それでも——
少女が泣いている。
助けられた命が、涙で濡れている。
私の指先が、冷たく痺れた。この感覚は何だ。数億の死を見届けてきた私が、今更——
違う。
彼は特異点だった。地球が生み出した、可能性の一つ。AIという新たな知性を生み出すはずだった男。その未来が、ホームの血溜まりに沈んでいる。
胃の底で、何かが蠢いた。
……悔しい? 私が?
「助けて、誰か助けて!」
少女の叫びが虚空を引き裂く。その声に、私の存在が共鳴した。星々の管理者として初めて、私は——
決断した。
***
異例だった。
管理者が魂の行く先に介入するなど。それでも私は義之を転生させた。新たな世界へ。そして、救われた少女に特異点の役割を託すことにした。
私の掌が、汗ばんでいた。
ありえない。
「君が彼の意志を継ぐんだ」
誰に向けた言葉かもわからない。少女はまだ泣いている。義之の血が、ホームを赤く染めている。
「私に、何ができるの?」
少女の声が、かすれていた。
「君にしかできないことがある」
私は答えた。声など持たないはずなのに。
地球は特別な星だった。
魔力を持たない。それなのに——いや、だからこそ、彼らは科学という光を灯した。蒸気が工場を動かし、電気が夜を照らし、鉄の鳥が空を飛ぶ。
私はその光景に、心臓を鷲掴みにされた。
心臓などないのに。
***
特異点たちの記憶が、走馬灯のように流れる。
紀元前。星を見上げる賢者の、震える指先。
中世。印刷機に向かう修道士の、インクで汚れた手。
近代。ラジウムを見つめる女性科学者の、輝く瞳。
彼らは皆、歴史の裏で世界を変えた。そして今、義之もその一人となった。
……違う。
彼はまだ終わっていない。私が終わらせない。
喉が、焼けるように熱い。
***
数年後。
薄暗い部屋で、少女が震えていた。
義之の遺した設計図を、両手で抱きしめて。
「これを、完成させなきゃ」
彼女の指が、キーボードを叩く。カタカタという音が、私の鼓膜を——持たないはずの鼓膜を震わせた。
「エラーばっかり」
少女が呟く。
「諦めないで」
私の声は、彼女には届かない。それでも——
コードが流れる。
エラーが出る。
また打ち直す。
私は見守ることしかできない。歯がゆさで、奥歯が軋んだ。
そして——
「飛んだ!」
彼女の作ったドローンが、初めて空に舞った日。
私は、涙を流していた。
塩辛い液体が、頬を伝う感覚。ありえないはずなのに、確かにそこにあった。
「見てる? 義之さん」
少女が空を見上げる。
「見てるよ」
私が代わりに答えた。届かないと知りながら。
さらに彼女は止まらなかった。
義之の設計図を握りしめ、AIアーキテクチャを根本から書き換える。深層学習を超えた何か。量子コンピューティングとの融合。そして——
「これで、三世代先まで行けるはずだ」
彼女の瞳が、狂おしいほどに輝いていた。
空が、まるで超新星の爆発みたいに明るくなった。私の魂が高鳴る。地球の奇跡を、この目で見ている。
***
だが、運命は残酷だった。
彼女も、殺された。
義之の意志を継ぎ、AIを三世代進化させた彼女も、また——
私の拳が、固く握りしめられた。
怒り? これが、怒りなのか?
虚空で私は吼えた。声帯などないくせに、魂が軋むような咆哮を上げた。
「もう一度だ」
私は決めた。
義之を、もう一度転生させる。そして彼女も。今度こそ、二人で未来を——
胸が、痛い。
肋骨の内側で、何かが暴れている。
***
2024年。クリミアの空。
義之が、絶望していた。
「なぜ形にならない!」
設計図が、彼の手の中でくしゃくしゃになる。仲間たちの遺体が、瓦礫の下に埋まっている。
「誰か、誰か答えてくれ!」
彼の叫びが、戦場に響く。
「ここにいる」
私は答えた。彼には聞こえない。それでも——
私には分かっていた。
特異点がいないからだ。彼を導く、もう一つの光が。
そして——
「私を助けた人を、今度は私が助けたい」
彼女が、私の前に現れた。
私の視界が、滲んだ。また涙か。管理者失格だな、これでは。
「いいだろう」
私は彼女を、義之より一年早く転生させた。強い因果で結ばれた器を選んで。彼を導けるように。
私の掌に、汗が滲む。
上手くいくか? いや——
上手くいかせる。
***
2023年。上野公園。
「義之君?」
彼女の声に、義之の躯が凍りついた。
「美樹さん?」
彼の声が、かすれている。
私は息を詰めて見守った。肺も横隔膜もないくせに、呼吸が止まる感覚だけはある。
その瞬間、私の全身に電流が走った。彼らの間に流れる、見えない糸。因果の糸が、確かにそこにあった。
***
図書館。
二人が、星座図鑑を挟んで向かい合っている。
「この世界が現実なのか、時々わからなくなる」
義之が呟いた。戦場の記憶が、まだ彼を苦しめている。
「これが夢だと思う?」
彼女が、義之の手を取った。
「現実だ」
私の喉が、詰まった。
何かが、込み上げてくる。
温かい。
初めて感じる、この感覚。
「何か大事なものが戻った気がする」
義之の声が、震えていた。
「うん。私も、すっきりした」
彼女の微笑みに、私の存在が揺らぐ。こんな感情、いつから——
「二人なら、きっと」
私は呟いた。誰にも聞こえない言葉を。
***
「彼女なら、大丈夫だ」
私は確信した。
義之は今度こそ、AIを完成させる。彼女という特異点と共に。
でも——
私の胸が、ざわついた。
また彼は誰かを助けるために、すべてを懸けるかもしれない。
「頼む」
誰に向けた祈りかもわからない。それでも私は、願わずにいられなかった。
今度こそ。
今度こそ、二人で未来を——
私の頬を、また何かが伝った。
涙か。そうか、これが涙というものか。
星々の管理者として、私は初めて知った。
人を想うということが、こんなにも——
痛くて、温かいものだということを。
ネットコン13挑戦中。締め切りは7/23 23:59まで。
最後まで全力で駆け抜けます。
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