第84話 迫る危機と決意の灯火
「軍内部では、君の技術を巡って三つの派閥が動いているの」
美樹さんの言葉に、背筋を伸ばす。肩甲骨が、痛いほど張る。
研究室の空気が一瞬で冷え込み、彼女の声が静寂を切り裂く。ディスプレイの光が彼女の顔に影を落とし、その真剣な瞳が俺を射抜く。
視線が、皮膚を焼く。
「積極派は義之君のAI技術を積極的に利用しようとする側だから味方だと思っていいけど」
わずかに頷く。首の筋肉が、強張っている。
技術を理解し、前向きに活用しようとする勢力があるのは心強い。彼らの存在が、俺の研究を支える土台だ。だが、美樹さんの表情は緩まない。
唇が、青ざめている。
「でも、懐疑派は違う。『急激な進歩は制御不能』として、技術の制限を主張している。特に、AIの自己改変を抑制する方向へ動いているわ」
確かに、AIの自己改変については慎重に扱ってきた。そのリスクを理解しているからこそ、制御コードに細心の注意を払ってきた。だが、それを無理に抑え込もうとすれば、技術革新そのものを停滞させることになる。眉を寄せ、彼女の言葉を噛み締める。
奥歯が、軋む。
「そして、一番厄介なのが危険視派よ」
美樹さんの声が一段低くなる。その響きに、胸が締め付けられる。肋骨が、内側から圧迫される。
彼女が机に置いた手が微かに震え、その緊張が空気を重くする。
「彼らは、『義之君一人に任せるのは危険』として、君の影響力を管理しようとしている。それだけならまだいいけど……最悪の場合、君を暗殺で潰そうとしてる!」
背筋に氷の針が刺さる。
いや、脊髄を冷水が流れ落ちる。
暗殺――その言葉が頭の中で反響し、一瞬、思考が停止する。心臓が、止まったかと思った。美樹さんの瞳に宿る恐怖と覚悟が、現実を突きつける。
「暗殺や拉致の可能性もあるってことか」
声が、掠れた。喉が、砂漠のように乾いている。
美樹さんは静かに頷く。彼女の視線が俺を離さず、その重みが胸にのしかかる。
「彼らは単なる保守派じゃないの。過去に、あるAI計画が暴走しかけたことを知ってる」
沈黙。
耳鳴りが、始まった。
「国内だけじゃない。国外の勢力も、君を危険視し始めている可能性があるわ。アメリカの強硬派の背後にいるのは軍産複合体の企業だわ」
拳を握った。爪が、手のひらに食い込む。痛い。でも、この痛みが現実を教えてくれる。
今までも俺の技術が一部の勢力にとって脅威であることは理解していたが、ここまで明確に狙われているとは。基地の外で聞こえた不協和音が、頭の中で再び響く。あのノイズが、敵の仕掛けた罠の前触れだったのか。
胃の奥で、何かが蠢いた。
「積極利用派が味方ならいいけど、懐疑派と危険視派が問題か……」
考え込む。頭が、熱い。血管が脈打っている。
技術の進歩を支えるためには、積極利用派の協力を得るのが最善だろう。しかし、懐疑派と危険視派をどう対処するかが問題だ。頭の中で策が巡り始めるが、簡単な答えは見つからない。
美樹さんの目が真剣に俺を見据える。彼女の声が、静かな部屋に響き渡る。
「義之君、あなたの技術はこの世界の未来を左右する。だからこそ、あなた自身の安全にも気を配らなきゃいけないのよ」
その言葉の重みが胸に響いた。心臓が、肋骨を叩く。
彼女がここまで来てくれた理由が、痛いほど伝わる。息を整え、彼女をまっすぐ見つめる。
肺から、空気を押し出した。
「ありがとう、美樹さん。俺は、俺のやるべきことをするよ」
美樹さんの表情が少しだけ和らぐ。しかし、彼女の緊張は完全には解けていない。
肩が、まだ震えている。
彼女が抱えている危機感は、それほど深刻なのだろう。彼女の震える手が俺の心を締め付ける。
***
美樹さんの表情がわずかに曇る。これまで抑えていた感情が、言葉と共に滲み出るようだった。
目尻に、何かが光った。涙か。
「私が一番恐れてるのは、意図的な暴走が仕組まれること」
その言葉に、背筋が寒くなる。皮膚が、粟立つ。
AIの暴走――そんなもの、単なるシステムの欠陥ではなく、意図的に仕掛けられる可能性があるとしたら。美樹さんの目は真剣で、そこに揺らぎはなかった。彼女の声が、静寂の中で鋭く響く。
鼓膜が、震えた。
「義之の技術を狙って、拉致や暗殺の危険が高まってる。国内だけじゃなく、国外勢力も君を危険視している可能性があるの。事実、海保から不審船の目撃情報があがっているわ」
拉致、暗殺――穏やかでいられる話ではない。
吐き気が、込み上げる。
俺の知識や技術を求めて動く勢力が、国内だけに留まらないという事実を突きつけられ、思わず拳を握る。窓の外の基地灯が、不気味に瞬く。
光が、網膜を刺す。
「義之君がAIの自己改良に歯止めをかけてきたのは分かっているの。でも、それでも危険は迫ってる」
美樹さんはまっすぐ俺を見つめながら続ける。彼女の言葉が、胸を締め付ける。
呼吸が、浅くなる。
「敵対勢力が『義之君抜きでAIを発展させる方法』を模索してるの」
俺抜きで――つまり、俺の技術だけを盗み、利用する方法を探しているということだ。それが何を意味するのか、美樹さんの口ぶりからも十分に察せられる。技術をコントロールできない者の手に渡れば、それは最悪の未来を招く。
冷や汗が、背中を伝う。
「……俺が消えたら、技術が暴走する可能性もある、ってことか」
声が、震えた。隠せない。
美樹さんは静かに頷いた。彼女の瞳が、俺を離さない。
「そう。義之君がいるから、制御できてる。でも、それを無視する者たちが、君ごとAIを排除しようとしている可能性もある」
息を呑む。喉が、詰まる。
ここまでの危機を、楽観視しすぎていたのかもしれない。AI技術は便利なものだと考えていたが、それをどう使うかは人間次第だ。そして、その技術を狙う者たちは、俺の意思とは関係なく動き出している。
「だから、お願い。死なないでね!」
美樹さんの声が震えた。
涙が、頬を伝った。彼女の。
彼女の潤んだ瞳を見て、胸が張り裂けそうになった。心臓が、痛い。その一瞬が永遠みたいだ――時間が止まり、彼女の想いだけが空間を満たす。
「美樹さんの声が俺をここまで連れてきてくれた」
真剣に答えた。喉が、熱い。
それは嘘じゃない。初等科で出会ったあの日から、彼女の存在が俺を支えてきた。
美樹さんの震える手が、俺に触れそうで触れない距離で止まる。
指先が、宙で震えている。
黙って頷くしかなかった。言葉が喉に詰まり、彼女の想いに応えきれなかった。
舌が、動かない。
美樹さんは静かに息を整えると、まっすぐ見つめた。微笑んでいるはずなのに、その瞳の奥には張り詰めた緊張が宿っている。
唇が、震えていた。
「本当はもっとゆっくり話したかった」
「俺もだよ」
やっと、それだけ言えた。
「身の安全に気を配って。陰謀に巻き込まれないで」
その言葉が、胸の奥に鋭く突き刺さる。肋骨を、貫通する。
ここに来るまでの彼女の覚悟を思うと、軽々しく返事をするのもためらわれた。それでも――
「待って!」
気づけば声が出ていた。腹から、声が出た。
何か言わなければならない、何か伝えなければ――そんな焦燥が、言葉を衝き動かす。
だが、美樹さんは振り返らなかった。
背中が、遠ざかる。
何か言いかけたように見えたが、そのまま扉へと向かう。
足音が、廊下に響く。遠ざかっていく。
彼女はただまっすぐに歩き、窓の外の「実験機」の影へと向かう。基地灯の光に霞む。その姿は次第に霞んでいき、ついには機体のシルエットと重なって消えた。
残された部屋に静寂が満ちる。
耳が、痛いほどの静寂。
机の上に置かれた暗号通信のログが、まるで答えを待っているかのように俺を見つめていた。
窓の外で、実験機が静かに佇んでいる。
その機影が、まるで運命の歯車のように見えた。美樹さんが去った後の空気に、彼女の香りだけが微かに残っている。
鼻腔が、記憶を呼び覚ます。
決意が、静かに燃え上がる。
胸の奥で、何かが熱くなる。血か、それとも――
守るべきものがある。それが、俺の灯火だ。
でも、その灯火は、誰かの命を燃やしているのかもしれない。
手が、震えた。止まらない。




