閑話 玲奈視点:玲奈と洋子の追跡~波間に潜む影
士官学校の寮は、深夜の静寂に包まれていた。窓の外では、海風が微かにカーテンを揺らし、遠くの波音が部屋に届く。ベッドに腰掛け、膝に置いたノートを見つめていた。そこには、今日聞いた噂や実験機の異常音、不審船の目撃情報を殴り書きしたメモが散らばっている。
インクが、手に染みていた。焦りすぎて、ペンを握り潰したのだ。
「お兄様が美樹さんに会ったって……何か大事な話だったんだよね、きっと」
呟きが、薄暗い部屋に溶け込む。手は無意識に拳を握り、ノートを握り潰しそうになる。紙が、悲鳴を上げた。
義之が何か大きな危機に巻き込まれている気がしてならない。美樹が公務で訪ねてきたという話は、ただの挨拶ではないはずだ。
胸が、締め付けられる。呼吸が、浅い。
「ピリッ……」
窓の外から、またあの不協和音が聞こえてきた。実験機のデータリンクが作動する時のような、耳に刺さる微かなノイズ。鼓膜が、震える。
立ち上がり、窓枠に手をついて夜の海を見つめる。ガラスが、冷たい。遠くの水平線に、不規則に瞬く光が一つ。昼間に洋子と見た不審船の灯りと同じだ。
洋子はポテチを口に放り込み、目を細めて窓の外を覗く。
パリッという音が、静寂を破る。
「確かに、あのピリピリした音、気持ち悪いよね。昼間に見た黒い船も、軍港の近くにいるのに海保が動いてないのが変だよ」
「でしょ? 私、確かめに行きたい」
言葉に、洋子は大げさにため息をつく。肩が、大きく動いた。
「はぁ、ブラコンにもほどがあるって。まぁ、いいよ。私も気になるし、付き合ってあげる」
でも、その声に不安が滲んでいた。
二人は静かに寮を抜け出し、海岸へと向かった。夜の空気は冷たく、潮の香りが鼻をつく。肺が、塩気で満たされる。波が静かに寄せては返す中、双眼鏡を取り出し、沖合の光を追う。
「あそこ……やっぱり動いてる」
双眼鏡越しに見えるのは、黒いシルエット。船影は波間に揺れながら、ゆっくりと横須賀基地の方角へ近づいている。背筋に冷たいものが走る。
いや、這い上がる。蛇のように。
『お兄様を絶対守る!』
拳を握って、洋子に『行くよ!』って鋭く目配せした。
爪が、手のひらに食い込む。痛い。でも、この痛みが勇気をくれる。
洋子が隣で目を凝らし、小声で呟く。
「軍港にこんな近くでウロウロしてるのに、誰も動かないなんておかしいよね。実験機の音と関係あるのかな?」
声が、震えていた。怖いのは、私だけじゃない。
「うん。私もそう思う。お兄様の技術が絡んでる気がするんだ」
声に、微かな震えが混じる。喉が、渇く。義之がAI開発に没頭していることは知っている。その技術が誰かに狙われているとしたら――。
その時、海岸の岩陰から微かな物音が聞こえた。カサッ、という小さな擦れ音。
心臓が、止まりそうになった。
玲奈と洋子は同時に振り返り、息を潜める。肺が、空気を求めて叫んでいる。
「何!?」
洋子が腕を掴み、二人で岩の影に身を隠す。彼女の手が、冷たくて震えていた。
暗闇の中、黒い服を着た男が二人、懐中電灯の光を抑えながら近づいてくる。その手には、無線機らしきものが握られている。
「目標の位置を確認。実験機の信号は安定してるが、ノイズの影響が――」
男の低い声が途切れ、耳に「実験機」という言葉が刺さる。心臓がドクンと跳ね、洋子の腕を強く握った。
血管が、破裂しそうだ。
「やっぱり、お兄様の技術を狙ってるんだ……!」
囁きに、洋子が小さく頷く。彼女の顔が、月光で青白い。
「まずいよ、これ。軍が動いてないってことは、内通者でもいるのかな?」
***
男たちはさらに近づき、隠れる岩のすぐ近くを通り過ぎる。息を、殺した。岩が、背中に冷たく張り付く。
無線機から漏れる声が、再び聞こえた。
「南中国空母への着艦準備を急げ。奴の技術を確保できれば――」
その瞬間、頭の中で何かが繋がった。稲妻が、脳を貫いたような衝撃。
義之の技術を奪うために、誰かが動いている。不審船はただの監視じゃない。実験機そのものを狙った具体的な計画だ。
吐き気が、込み上げる。
「玲奈、どうする?」
洋子の声に緊迫感が滲む。彼女の息が、耳元でかかる。
一瞬目を閉じ、深呼吸して決意を固める。冷たい空気が、肺を刺す。
「お兄様に知らせなきゃ。でも、直接会いに行くのは危険だ。私たちで証拠を見つけて、ちゃんとしたルートで報告する」
「証拠って、どうやって?」
「この男たちの会話を録音する。それから、海岸の監視カメラに不審船が映ってるか確かめるよ」
ポケットからスマホを取り出し、録音アプリを起動。手が、震える。画面が、ぼやける。
男たちの声が微かに拾われ、ノイズ混じりの会話が記録される。洋子が双眼鏡で男たちを追いつつ、小声で呟く。
「玲奈、ほんと大胆だね。こんなの、北園家の兄貴にも負けないよ」
「洋子だって付き合ってくれてるじゃない。ありがとう」
声に感謝が滲む。喉が、熱い。洋子は照れくさそうに笑い、
「まぁ、お兄様のためなら仕方ないよね」
と返す。でも、その笑顔が引きつっていた。
男たちが倉庫の陰に消えるのを確認すると、二人はそっと岩陰から離れ、寮への道を急ぐ。胸は高鳴り続けていた。肋骨が、軋む。
録音した会話は、義之を救うための鍵になるかもしれない。
いや、ならなければならない。
「早く寮に戻って、真田先輩に相談しよう。彼女なら、どうすればいいか教えてくれるはず」
提案に、洋子が頷く。足が、もつれそうだ。
「うん。あと、下山先輩にも聞いてみよう。情報分析が得意だって言ってたし」
二人は足音を忍ばせ、夜の闇を抜けて寮へと戻った。波間に揺れる不審船の光が、遠くで不気味に瞬いている。耳には、まだあの「ピリッ」という不協和音が残響していた。
鼓膜が、痛い。
ふと立ち止まる。
月光が海面を照らし、不審船の影が水面に揺れていた。その光景が、まるで巨大な黒い手が義之に伸びているように見えた。
胃が、縮む。
「お兄様、私が守るから……絶対に」
拳を握りしめ、静かに呟いた。でも――本当に守れるのだろうか。いや、守らなきゃ。
守れなかったら、私は――
洋子が肩に手を置く。温かい。震えが、少し収まった。
「大丈夫だよ、玲奈。二人なら何とかなる」
「……うん」
頷いたが、不安は消えない。録音した会話の中身が、想像以上に重大なものだったから。
南中国空母。その言葉が、脳に焼き付いている。
寮の門が見えてきた。静かに中に入り、階段を上る。一段一段が、やけに重く感じた。
膝が、震える。
「玲奈」
洋子が振り返る。月光が、彼女の顔を照らす。
「怖い?」
「……少し」
正直に答えた。唇が、震えた。洋子が微笑む。
「私も。でも、だからこそやらなきゃ」
その言葉に、勇気をもらった。
でも、手の震えは止まらない。
部屋に戻ると、二人は録音を再生した。ノイズの向こうから聞こえる男たちの声。そこには、想像を超える計画の断片が含まれていた。
血の気が、引いていく。
小さな冒険は、まだ終わりではなかった。義之の危機を救うため、玲奈と洋子の行動が今、動き始めていた。
窓の外で、不協和音が再び響く。
それは警告か、それとも――
死の宣告か。
月が雲に隠れ、部屋が暗闇に包まれた。
闇の中で、何かが動いている気がした。




