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第82話 暗号通信が告げる再会

 研究室の静寂を破るのは、端末が発する僅かな電子音と、俺がキーボードを叩く音だけだった。

「この演算処理をもう少し最適化できれば……」

 モニターに映る数値とにらめっこしながら、演算処理の最適化を試みていた。目が、乾く。瞬きを忘れていた。

 目の前の課題は、実験機に搭載するAIの処理能力向上。自律的な判断速度を向上させ、より洗練された戦術決定を可能にするための調整だった。

 実験機はすでにテスト段階に入っており、各種演算の精度が求められている。今の問題は、AIの判断が人間の予測を超えた結果を出し始めていることだった。実戦データを基にした学習プロセスが進んでいるのは良いが、軍の技術部門が求める水準と合致しているとは言い難い。そのズレを修正するためのアルゴリズム調整を続けていた。

 指が、キーボードの上で踊る。機械的に。無意識に。

 そんな時だった。

 端末のディスプレイに、普段とは異なる通知が表示された。

「……軍の通信?」

 一瞬、気にも留めずに処理を続けようとしたが、通知の詳細を見て、手が止まる。

 指が、宙に浮いた。

「暗号通信受信:海軍・一条院美樹少尉」

 眉をひそめ、喉が詰まった。

「美樹さんが、軍の暗号通信を? ……何が起こってる?」

 士官学校の訓練生に対して、正式な暗号通信が送られることは異例だ。しかも、送信者はつい最近まで同じ士官学校で学んでいた一条院美樹。彼女は卒業してすぐに海軍の電子戦士官として配属されたばかりのはずだ。

 個人的なメッセージなら、士官学校の連絡網を使えば済む話だ。それをわざわざ軍の正式な暗号通信として送ってきたということは、これは軍務としての連絡だということを意味している。

「俺に軍務の暗号通信を……?」

 画面には暗号通信の受信を示すコードが並び、復号処理の指示を待っている。端末のセキュリティプロトコルを確認し、慎重に復号プロセスを開始する。

 復号完了までのカウントダウンが始まり、画面の光が僅かに明滅する。

 光が、眼球を刺す。頭痛が、始まりそうだ。

 手を止め、肺から息を押し出した。

 美樹さんは海軍に――電子戦部隊だったか。確か、そんな話を聞いた。だが、この通信の内容次第では、それが単なる思い込みに過ぎなかったと気づくことになるかもしれない。

 スクリーンに映し出される復号完了の文字。

 心臓が、一拍跳ねた。

 短く息を吐き、指先に力を込めた。

 この通信が何を意味するのか、今から確かめるしかない。

 画面上に、軍の正式フォーマットに則った通信文が表示される。


送信者:海軍電子戦士官・一条院美樹(少尉)

宛先:士官学校訓練生・上杉義之

通信種別:暗号通信(正式許可済み)


「軍務上の優先案件に関する面会の必要がある。本件は海軍軍令部の監督の下に進行中。指示に従い、指定日時に面会せよ」


記録番号:EB-N582913


 通信文を何度か読み返した。

 文字が、網膜に焼き付く。

「これは……正式な軍通信。しかも、面会の手続きまで海軍側で進める?」

 胃の奥で、何かが蠢いた。前例のない連絡だ。

 何か問題を起こしたわけでもない。軍務に直接関与する立場にもいないはずなのに、これはどういうことだ?

 しかも送信者は、一条院美樹少尉。

 美樹さんがまだ実務経験も浅いはずだ。そんな彼女が、わざわざ士官学校の訓練生である俺に異例の通信を送る意味とは?

「上の指示か? いや、それとも……」

 美樹さんの個人的な判断ではない可能性が高い。彼女の背後には、もっと大きな存在がいる。

 背筋が、冷える。

「俺はただの士官候補生だ。こんな正式な通信を受ける立場にはないはずだ」

 胸の奥で何かが引っかかる。肋骨に、爪を立てるように。

 これまで進めてきた実験機のAI開発が関係しているのか?

 それとも、軍内部で何か大きな動きがあり、それが俺にまで影響を及ぼしているのか?

「美樹さんが、ここまで軍の正式ルートを通して連絡を取る理由は?」

 何かが動き始めている――いや、もう動いているのか。

 端末の画面に映る短い通信文が、ただの文字列とは思えなかった。

 暗号の向こうで、運命が音もなく歯車を回し始めていた。

 歯車の音が、頭蓋骨の中で響いているような気がした。


***


「軍が正式なルートを使う理由は?」

 画面に映る通信文を見つめながら、呟いた。唇が、乾いている。

 美樹さんが卒業したばかりの少尉であることを考えれば、彼女が独断でこれを送ったとは考えにくい。つまり、彼女自身の意志だけでなく、軍の意思が背後にある可能性が高い。

「もし軍内部で何か重要な動きがあったのなら、それが俺に関係しているのかもしれない……」

 息を吐き、天井を仰いだ。首の骨が、鳴った。

 最近の技術開発の進捗を考えると、可能性はいくつか浮かぶ。だが、どれも断定には至らない。ただ確かなのは、この通信が単なる情報共有ではなく、俺に何かを伝えるためのものであるということだ。

「何かが変わった……いや、違う。すでに変わってしまったのか?」

 喉の奥で、何かが引っかかる。

 もしかすると、俺がまだ知らない何かが動いているのかもしれない。それが何なのかを確かめるには、美樹さんと直接会うしかない。この通信を無視するわけにはいかない。

 無視したら、どうなる? いや、無視できない。

 端末を操作し、正式な返信を入力した。


送信者:士官学校訓練生・上杉義之

宛先:海軍電子戦士官・一条院美樹(少尉)

通信種別:暗号通信(返信)


「貴信を了解。指定の日時を提示してください。

面会の許可申請はそちらでお願いします」


記録番号:XC-P415791


 送信ボタンを押した。

 指が、震えていた。気づかないふりをした。

 端末を閉じる。だが、頭の中の疑念は晴れない。

 霧が、濃くなるばかりだ。

「美樹さんは、何を俺に伝えようとしているんだ?」

 軍の正式な手続きを通すほどの話――

 ただの情報共有ではないはずだ。

 何かが変わり始めている。確かめるしかない――たとえ、それが罠だとしても。

 罠。その言葉が、舌に苦い。


***


 士官学校の事務局に連絡を入れると、すぐに教官が応答した。

「上杉、お前に海軍から正式な面会申請が届いている」

 淡々とした口調だったが、その言葉にはわずかな違和感が滲んでいた。声のトーンが、微妙に低い。

 俺も同じ気持ちだった。胸が、ざわついた。

「海軍の少尉から、士官学校の学生へ正式な面会申請? それは珍しいな……正式な面会申請か。本当に何も聞いていないんだな?」

 教官が端末のデータを確認しながら呟く。軽く頷いた。

 首の筋肉が、強張っている。

「はい。ですが、正式な軍の手続きを通してきた以上、何らかの意図があるはずです」

「そうだな……一条院少尉か。確か、今年、士官学校を卒業しているな」

「はい。士官学校の先輩にあたります」

「なるほど……だが、通常ならこういった正式なルートを使うほどの案件は、もっと上の階級同士でやり取りされるものだ。わざわざ暗号通信を使ってまで士官学校の学生にここまで厳格な手続きを踏むのは前例がない……何かあるな」

 教官の声に、警戒の色が滲んだ。

 無言で頷いた。喉が、渇く。

 教官が抱いた違和感は、俺自身が感じているものとまったく同じだった。これは、単なる士官学校時代の知り合いとしての再会ではない。

「許可は問題なく下りる。指定された日時に面会場所へ向かえ」

 教官はそう言い残し、通信が切れた。

 画面が暗くなる。俺の顔が、そこに映った。

 端末を閉じ、肺から空気を押し出す。

「俺がここで何を知ることになるのか……」

 正式に呼び出すほどの案件だ。ただの情報共有なら、わざわざこんな手続きを踏む必要はない。軍内部で何かが起こっている。それが俺に関わるものなのか、それとも美樹さん自身の問題なのか――。

 いや、俺の問題だ。直感が、そう告げている。

「この再会が、何を意味するのか……」

 ただの懐かしい顔合わせでは終わらない。そんな予感が胸の奥にわだかまる。

 いや、予感じゃない。確信だ。

 立ち上がり、深く息を吸い込んだ。冷たい空気が、肺を刺す。

 待っているだけでは何も分からない。直接会って、確かめるしかない。

 正式な手続きという名の罠が、俺を待ち受けているのかもしれない。

 軍の流れを左右する何かに、俺はすでに巻き込まれ始めているのかもしれない。

 いや、違う。

 俺が、巻き込んでいるのかもしれない。

 その可能性が、背骨を冷やした。

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