第76話 第6世代機の実験機開発と量子コンピューターの技術革新
モックアップ試験が完了し、第6世代機の実験機製造が本格的に開始された。
前世の技術基準では考えられないほどのスピードで開発が進んでいる。ソフトウェア開発試験の期間は50%短縮され、モックアップから実験機投入までの時間も2~3年短縮された。
速い。速すぎる。
胃の奥で、何かが蠢く。不安か、それとも興奮か。
この加速の背景には、量子コンピューター技術の飛躍的な進展がある。設計・シミュレーションの最適化が従来の手法と比べて格段に効率化され、試験段階での検証がより迅速かつ正確に行われるようになった。
しかし、量子コンピューターにはまだ解決すべき技術的課題が残されている。
完璧など、ない。
喉が、渇く。唾を飲み込んだ。
現在の研究では超伝導量子ビットの改良によるコヒーレンス時間*1の延長が進められており、一定の成果が出ている。
量子状態は極めて繊細であり、短時間で崩壊するリスクを抱えている。これが計算の安定性を損なう可能性がある。
まるでガラス細工のような、儚い技術。
触れただけで、壊れそうだ。
また、外部環境の影響や誤り訂正機構の不足により、計算精度の低下が発生する恐れもある。
だが、誤り訂正のための新しいアルゴリズムが開発されつつあり、実用化が近づいている。
希望と絶望が、紙一重で隣り合う。それが量子の世界だ。
まるで、俺の人生のようだ。
「これらの課題を克服しなければ、さらなる開発期間の短縮は難しい」
分かっている。だが――
奥歯を、噛む。顎が痛い。
それでも、技術の進歩は止まらない。この勢いを止めることなく、課題を一つずつ解決していくしかない。
***
実験機のテストが始まり、戦術ナビゲーションAIの最適化は新たな局面を迎えた。
研究室の空気が、皮膚に張り付く。重い。湿度が高いわけじゃない。
これまでの調整はシミュレーション上で行われていたが、ついに実機データへと移行した。シミュレーション通りに機能するかどうかは未知数であり、実機環境では予想外の数値が出ることが多く、大幅な修正が必要になる可能性がある。
今、予測できるだけで「空力特性の予測誤差」「制御AIのレスポンス遅延」「センサーの誤差補正」が考えられる。
頭が痛い。いや、こめかみが脈打っている。
柴田さんは警告する。
「ここからが地獄の始まりよ」
その声に、覚悟が滲む。唇が、わずかに震えていた。
実機試験では、これまでシミュレーションでは見えてこなかった問題が次々と表面化する。システムの動作に微細な誤差が積み重なることで、意図しない挙動が発生することもある。
蝶の羽ばたきが、嵐を呼ぶように。
背筋を、冷たいものが這う。
しかし、戦術ナビゲーションAIには希望もある。
柴田さんは、画面を見つめながら呟く。
「でも、救いもあるわ。この子、頭がいいわね」
母親のような、その眼差し。目尻に、優しさが宿る。
いや、違う。戦友を見る目だ。共に戦場を駆ける、相棒への信頼。
「柴田さんは、AIを生き物として見ているんですね」
俺の言葉に、彼女は小さく笑った。頬が、緩んだ。
「あら、バレた? でも、これだけ付き合えば情も湧くわよ」
彼女の指が、画面を撫でる。まるで、子供の頭を撫でるように。
監視AIによる継続的な最適化が、戦術ナビゲーションAIの改善を支えている。
監視AIの役割は極めて重要だ。AI自身が自己改良するのは技術的に困難であるため、監視AIが戦術ナビゲーションAIの動作をリアルタイムで監視し、適切な修正を行う。この仕組みにより、AIはより適応力を持つようになり、戦場の予測困難な状況にも対応できる可能性が高まる。
親が子を見守るように、AIがAIを育てる。
でも、親はいつか子に追い越される。その時――
実験機の試験はまだ始まったばかりだが、すでに戦術ナビゲーションAIは順調に機能し始めている。これからのテストでさらなる精度向上を目指し、実戦配備への道を切り開いていくしかない。
道は、まだ長い。
足が、重い。でも、止まれない。
***
上杉グループの研究所では、量子コンピューターの技術的課題に取り組んでいる。
白衣の研究者たちが、黙々とデータを追う。
彼らの背中が、曲がっている。疲労が、滲んでいる。
現在の主な研究テーマは、コヒーレンス時間の大幅な延長と量子エラー訂正技術*2の進展だ。
コヒーレンス時間の延長により、量子状態をより安定させることで、長時間の高精度計算が可能になる。加えて、量子エラー訂正技術の進展により、ノイズ耐性が向上し、計算の精度を維持できるようになる。
理論は美しい。現実は、厳しい。
紙の上の数式と、実験室の現実。その距離が、遠い。
こうした進展を背景に、国防総省からは強い要請が寄せられている。
「目途が付き次第、即座に導入したい」
軍事技術の革新が、国家戦略に直結するレベルにまで達していることを示す言葉だった。
重い。その期待が、俺の肩を押し潰す。骨が、軋む。
もしこれらの課題が克服されれば、先行試作機は1年以内に登場する可能性がある。さらに、実験機の試験期間も半分以下に短縮できる見込みだ。
時間が、圧縮されていく。
心臓も、圧縮されているような気がする。
量子コンピューターと監視AIの組み合わせは、計算速度を劇的に向上させた。この技術は軍事分野にとどまらず、医療、金融、インフラ管理など、あらゆる分野に革命をもたらす可能性を秘めている。
「監視AIが医療分野に導入されることで、手術の成功率が向上し、病気の早期発見率が飛躍的に向上」
「金融市場では、超高速トレーディングやリスク管理が劇的に進化」
等、目の前にある課題を乗り越えれば、未来は大きく変わる。
変わりすぎるのか、それとも。
変えすぎたのか、俺が。
「技術の発展は目まぐるしい」
窓の外、夕陽が研究所を赤く染める。
血のように、赤い。
***
量子コンピューターと監視AIの融合により、技術革新のスピードは加速し続けている。これまでの常識では考えられなかった短期間での開発が可能になり、軍事技術のみならず、あらゆる分野に大きな影響を与え始めている。
「この進化の流れに、俺はどこまで関与すべきなのか?」
手が、震える。コーヒーカップを置く。
カップが、受け皿にカタカタと音を立てた。
転生者として技術を推し進めてきたが、ここまで来ると、技術そのものが自走し始めている。俺の役割は、ここで終わるのか、それとも次なるステップへと進むべきなのか。
創造主が、創造物に追い越される日。
フランケンシュタインの気持ちが、分かる気がする。
「次世代の軍事技術が、想像以上の速度で形になろうとしている」
俺が転生者であることを隠しながら進めてきた研究が、もはや世界の戦略を左右する領域に達しつつある。このまま開発を続けていくことで、未来はどう変わるのか。
パンドラの箱を、俺は開けてしまったのか。
いや、もう開いている。閉じることは、できない。
「答えを出すのはまだ早い。だが、今はただ、目の前の課題を一つずつ乗り越えていくしかない」
研究室の明かりが、一つまた一つと消えていく。
俺だけが残る。モニターの光が、顔を青白く照らす。
鏡のように、画面に俺の顔が映る。疲れている。老けた気がする。
技術は進化する。人は、どうだ。
俺は、どうだ。
深呼吸する。冷たい空気が、肺を刺す。明日もまた、戦いが始まる。
……止まることは、許されない。
止まったら、何かが終わる気がする。
いや、もう始まっているのかもしれない。
終わりの、始まりが。
***
*1:コヒーレンス時間 - 量子ビットが量子状態(重ね合わせ状態)を維持できる時間のこと。この時間が長いほど、より複雑な量子計算が可能となる。現在の技術では数マイクロ秒から数ミリ秒程度。
*2:量子エラー訂正技術 - 量子計算中に発生するエラーを検出し、修正する技術。量子状態は環境からのノイズに非常に敏感であるため、実用的な量子コンピューターの実現には不可欠な技術。




