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第72話 ハッカー集団と硫黄島の揺るがぬ現実

 愉快系ハッカー集団JesterNetからのサイバーテロ予告。

 1月15日、新年が明けて通常業務に戻ったばかりの日本中の大規模企業が次々と標的にされた。

 もちろん、うちも狙われた。

 研究室のモニターが一斉に赤く染まる。

 網膜に、警告色が焼き付く。

 心臓が、肋骨を内側から叩いている。

 指先が、キーボードの上で震えた。

 侵入警告。

「これは……秋葉原の時の!」

 田中主任の声が響く。喉が、からからに乾いた。驚くべきことに、それは無名權波との最後の戦いで使われた「囮の脆弱性」だった。あの日の記憶が、コードの断片と共に蘇る。彼らの侵入プログラムを独自進化させたものが、今度は別の顔をして襲いかかってきた。

 だが、すぐに違和感を覚えた。

 眉をひそめる。何かが違う。

「なんだ、これ……雑すぎる」

 JesterNetには致命的な欠陥があった。無名權波のような芸術的センスがない。発想の飛躍も、あの狂気じみた美学も持ち合わせていなかった。まるで天才の作品を、凡人が必死に真似たような──

 肩の力が、少し抜けた。

 前回の侵入を徹底分析した俺たちの防御システムが、静かに牙を剥く。

「防御AI、接触まで3秒」

 俺は深呼吸した。鼻から入った空気が、肺の底まで届く。これは俺たちが育てた守護者だ。量子演算の力を借りずとも、最適化されたAIが瞬時に反応する。上杉グループ全社に展開した見えない壁が、侵入者を無慈悲に迎え撃った。

「撃退完了。被害、ゼロ」

 肩から、どっと力が抜ける。

 シャツの背中が、汗でびっしょりと張り付いていた。

 深く息を吐く。肺の奥まで、ようやく空気が入ってきた。

 研究室に安堵の空気が流れる。俺は椅子に深く腰を下ろし、額の汗を拭った。手のひらも、じっとりと湿っている。

「やった……完全防衛だ」

 契約企業からも続々と報告が入る。全社無傷。俺たちの盾は、完璧に機能した。

 JesterNetは日本全土を混乱に陥れるつもりだったらしい。だが彼らの野望は、砂の城のように崩れ去った。

 しかし──契約外の企業は地獄を見た。

 ニュースが次々と飛び込んでくる。画面を見るたびに、胃が締め付けられる。システム停止、データ人質、身代金要求。ある大手商社は丸3日間、全機能が麻痺した。別の企業では1週間もデータにアクセスできず、株価が暴落した。企業の血液とも言える情報が、見知らぬ誰かに握られる恐怖。

 JesterNetは高らかに宣言した。「日本を制圧した」と。

 虚しい勝利宣言だ。

「義之様、駆除チーム編成します」

 田中主任の提案に、俺は即座に頷いた。顎に力が入る。採算? そんなもの度外視だ。俺たちは次々とシステム権限を奪還していく。JesterNetの影響力は、まるで朝露のように消えていった。

 今頃、儲けそこなった連中は歯噛みしているだろう。より直接的な敵意を、俺たちに向けながら。

 皮肉なことに、この攻防戦は最高の宣伝になった。

「問い合わせが殺到してます!」

 営業部からの報告に、俺は苦笑した。口元が、皮肉っぽく歪む。うちのセキュリティAIの信頼性が、実戦で証明されたのだ。JesterNetにCM料金の報酬を支払いたいくらいだ。

 しかし、ふと思考が凍りつく。

 もしこれが無名權波だったら?

 背筋に、氷水を流し込まれたような感覚。

 手のひらが、じっとりと湿る。

 喉が、からからに乾いた。

 手が震えた。前回の侵入ログをもとに、彼らがあの天才的発想で攻撃手法を根本から改良していたら。新たな、想像もつかない突破口を開いていたら──

 俺たちのシステムも、完全には防ぎきれなかったかもしれない。

 胃の奥が、きりきりと痛む。

 それを阻止したのは、日本政府の情報機関だった。

 彼らは無名權波の拠点を速やかに特定し、反撃の時間を与えなかった。表に出ることのない、闇の中の功績。誰も知らない英雄たち。この隠れた大手柄がなければ、今頃日本のIT産業は壊滅的な打撃を受けていただろう。

 彼らに勲章はない。賞賛も、名誉も、何もない。

 だが、せめて俺だけは──

 胸の奥が、じんわりと熱くなる。

 その功績を心の奥底に刻み、決して忘れない。


***


 1月、硫黄島。

 C-2輸送機から降り立った瞬間、熱気が全身を包んだ。

 皮膚が、じりじりと焼ける。

 目を開けているのも辛い。まぶたの裏が、熱で痛む。

 3年生の冬季訓練。本来なら12月だったが、基地の浄化水設備の改修で延期になっていた。

「暑い……冬なのに」

 隣で北園が汗を拭いている。額から流れる汗が、止まらない。

 硫黄島は生きていた。

 地熱で歪む景色。蜃気楼のように揺らめく空気。水道管は地中に埋められず、まるで血管のように地表を這っている。塩分濃度の高さが海水の利用を拒み、命綱は天からの恵み──雨水だけ。

「AIシステムの調整も一段落したし、士官学校の訓練、しっかり行ってらっしゃい」

 柴田さんの言葉を思い出す。あの涼しい研究室が、今は別世界のように感じる。技術部門の上司として、いつも俺たちを見守ってくれている。

 訓練初日、俺たちは島を巡った。

 海岸の砂風呂では、地熱が生み出す天然サウナを体験した。

 砂に埋まると、大地の鼓動が直に伝わってくる。

 背中から、じわじわと熱が染み込んでくる。

 毛穴という毛穴が、一斉に開いた。

 汗が、噴き出すように流れ始める。

 野生化した猫たちが、警戒しながらも興味深そうに俺たちを観察していた。その眼が、妙に涼しげに見える。

 そして──活火山。

 規制ギリギリまで近づく。

 硫黄の匂いが鼻を突く。

 鼻腔の奥が、ひりひりと痛む。

 思わず口呼吸になる。舌の上に、苦い味が広がった。

 地面から立ち上る蒸気が幻想的だった。足元の地面は、触れないほど熱い。靴底越しにも、熱が伝わってくる。

「これが、生きている島か」

 俺は呟いた。喉が、熱気で焼ける。美しくも、恐ろしい。

 教官が説明する。この過酷な環境ゆえ、島民は全員本土への避難を余儀なくされた。一時帰省しか許されない故郷。時折、政治家が「軍事基地化」を糾弾し、島民の帰還を訴える。だが専門家は皆、首を横に振る。

 俺は島民じゃない。だから軽々しくは言えない。

 でも──いつ噴火するか分からない火山、灼熱の地熱、限られた水。正直、ここに住みたいとは思えなかった。

 胸の奥が、ちくりと痛む。

 2日目、ついに空を飛んだ。

 練習機で上昇すると、息を呑んだ。

 視界が、一気に開ける。

 見渡す限りの青。本土では考えられない、無限に広がる訓練空域。

「最高だ!」

 思わず叫んでいた。

 胸の奥が、すうっと広がっていく。

 操縦桿を握る手に、自然と力が入る。

 風が機体を揺らす。その振動が、全身に伝わってくる。

 自家用機の免許を取った時、本土の狭い空域に息が詰まりそうだった。でもここは違う。自由に、思い切り飛べる。

 現役パイロットが「ここなら安心」と言う理由が、身体で理解できた。

 航空機は進化を続ける。その性能を引き出すには、もっと広い空が必要だ。硫黄島の存在意義は、今後さらに増すだろう。

 島民の帰還は──現実的に考えれば、叶わない夢なのかもしれない。

 また、胸がちくりと痛んだ。

 最終日の夕暮れ。

 俺は一人、滑走路に立っていた。オレンジ色に染まる空。風が髪を撫でる。潮の匂いが、かすかに混じっている。

 複雑な思いが胸をよぎった。

 肩が、重い。

 誰かの故郷を、訓練場として使う矛盾。申し訳なさと、それでも必要だという現実。俺たちは、この島の恩恵を受けながら前に進んでいく。

 ふと、先週のサイバー攻撃を思い出した。

 見えない戦場と、この物理的な島。どちらも、誰かの犠牲の上に成り立っている。情報機関の無名の英雄たち。故郷を離れた島民たち。

 俺は深く息を吸った。硫黄の匂いが、かすかに混じっている。

 肺の奥まで、島の空気を取り込む。

 空と地、それぞれの立場で。

 それぞれの正義を抱えながら。

 俺たちは、進んでいくしかない。

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