第71話 サイバー脅威と玲奈の成長
各務原から速報が届いた。
速報の内容を確認する。
目を細める。数値が、予想より少ない。
首を傾げた。肩の力が、ふっと抜ける。
思ったほどのデータ量はない。柴田さんも同じ印象を持ったのか、椅子の背もたれに体を預けながら言った。
「この子、かなり頭いいわね」
と感想を漏らした。
「柴田さん、AIをこの子って呼んでるのですか?」
疑問を口にすると、柴田さんは少し不服そうな表情を浮かべた。
「あら、いけない?」
柴田さんが、小首を傾げる。唇の端が、にやりと上がった。
「いえ、女性らしい表現だなと思って」
言った瞬間、しまったと思った。舌を噛む。
「上杉君、そういうのセクハラって言うのよ」
冗談交じりにそう指摘され、すかさず返す。
「じゃ、柴田さんのはパワハラですね」
柴田さんは驚いたように笑い、肩が小刻みに震える。
「随分、言うようになったじゃない。あんなに素直だった上杉君は何処に行ったの?」
と楽しげに言う。眼鏡の奥で、目が細くなっている。
「周りの雰囲気に感化されたんじゃないですか」
二人は笑い合う。結果が悪くなかったため、自然と口も軽くなる。
開発室には相変わらず機械音とキーボードの打鍵音が響いていたが、そこにはいつもより和やかな空気が漂っていた。
最近、頭が妙に冴えていると感じる。
こめかみの辺りが、じんじんと脈打つような感覚。
思考が走る時、頭皮がぴりぴりと痺れる。
しかし、それはいつと比べているのか?
中等部時代か?高等部時代か?それとも前世か?
ふとした瞬間に違和感が湧き上がる。思考が研ぎ澄まされている感覚——物事のつながりが以前よりも速く明確に見える。
目の焦点が、一瞬ぼやける。
柴田さんとのやり取りを振り返る。
この環境に感化された結果なのかもしれない。
日々、最先端の開発現場で鍛えられ、無意識のうちに前世の開発者としての感覚が呼び戻されつつあるのではないか。
それならば、今の俺は一体どの時代の自分なのか。
過去と現在、そして前世の記憶が交錯する感覚。まるで、異なる時間軸の自分が一つに統合されていくような錯覚を覚える。
頭の奥で、何かがぐるぐると回っている。
だが、それを確かめる術はない。
目の前の現実こそが今の世界だ。
深く息を吸い、心の中のざわつきを押し込めた。肺いっぱいに、エアコンの乾いた空気が入ってくる。
今はただ、目の前の課題に集中するしかない。
何を考えているのか、自分でもよくわからなかった。
再び視線を端末のスクリーンに戻し、指をキーボードへと滑らせた。キートップの感触が、指先に馴染む。
***
胸ポケットのスマホが震えた。
かすかな振動が、肋骨に伝わってくる。
開発室内はスマホの使用が禁止されているため、喉の渇きを癒すついでに室外へ出ることにした。
立ち上がると、腰がみしみしと鳴る。どれだけ同じ姿勢でいたのか。
飲みかけのペットボトルを飲み干す。
ぬるい水が、喉を通っていく。全然潤わない。
もう一本、冷えたペットボトルを自販機で購入し、頬に当てる。
ひんやりとした感触が、気持ちいい。
スマホを取り出し、画面を確認する。
玲奈の名前を見て、眉が上がった。
メッセージを読み進めるうちに、口元が自然とほころぶ。
「お兄様、ネットニュースで書いてあったのだけどJesterNetというハッカー集団が日本へのサイバーテロを予告したらしいのだけどうちは大丈夫だよね?」
JesterNetか。名前からして愉快犯系のハッカー集団の可能性が高い。
指が、無意識にスマホの画面をなぞる。
しかし、過去に無名權波とやりあった経験があり、サイバー戦のノウハウは蓄積されている。
強固なセキュリティを持つのは、アメリカ・イギリス・日本の政府機関・軍ぐらいだろう。
加えて、日本の大手基幹産業の多くは、グループのセキュリティ会社と契約済みであり、大きな影響が出るとは考えにくい。
それでも、玲奈が
「うちは大丈夫?」
と心配すること自体が驚きだった。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
これまで無邪気に過ごしていた妹が、家のことを気にかけるようになっている。経営者一族としての自覚が芽生え始めている証拠だろう。
思い返せば、玲奈は昔から好奇心旺盛だった。仕事に首を突っ込みたがり、たまに場違いな質問を投げかけては俺や両親を驚かせていた。
だが、このメッセージは単なる好奇心ではない。
玲奈は、本気で「家」を守る側の人間になろうとしている。
それを嬉しく思いながら、玲奈へ返信を送る。スマホを持つ手が、少し震えている。
「うちはその手の連中から何度も狙われたから手口は分かっている。心配するな」
「それより、お前は学内で大手企業を経営している一族の者にその情報と、何かあったらうちが力になるからと伝えておけ」
玲奈の影響力を利用する計算もあった。
彼女が学内でこの情報を伝えれば、周囲の者が自分たちの企業が標的になった際に相談しやすくなる。また、玲奈の評判や影響力が増すことで、彼女自身の立場も強化されるはずだ。
……こんなことを考える俺は、やっぱり兄馬鹿なんだろうか?
頬が、じわりと熱くなる。
耳たぶまで、ぽかぽかしてきた。
微かに自嘲しながら、スマホの画面を閉じた。
思えば、この日は慌ただしくも充実していた。
各務原からの速報、柴田とのやり取り、頭の冴えへの違和感、そして玲奈の成長。
士官学校に戻り、研究に集中していたはずなのに、自分の環境の変化や過去との比較、そして家族の成長を改めて実感することとなった。
玲奈もまた、新たな役割を担う準備を始めている。
でも、本当にそれでいいのだろうか? 一瞬、そんな疑問が頭をよぎった。
胃の奥が、きゅっと締まる。
いや、今はそれを考える時じゃない。
目の前の課題に向き合いながら、次の段階へと進んでいかなければならない。
スマホをポケットにしまい、ゆっくりと息を整えた。
冷たいペットボトルを、もう一度頬に当てる。
開発室へと戻るドアを開けると、再びキーボードの打鍵音が響き渡る。
エアコンの冷気が肌を撫でた。
複数のモニターから発せられる青白い光が、目に刺さる。
部屋の空気は変わらない。機械の動作音と低く交わされる会話が響いている。
だが、心の中では何かが少しずつ変わり始めていた。
椅子に腰を下ろす。座面が体温でじんわりと温まっていた。
視線を端末へ向ける。
「さて……やるべきことをやらないとな」
独り言のように呟きながら、指をキーボードへと滑らせた。
カタカタという音が、静かに響き始める。
何かが動き始めている——そんな予感だけが、胸の奥に残っていた。




