プロローグ1~クリミアの空と未来への翼ver1.3
<β世界線:2024年 クリミア上空>
爆音が空を裂いた。
警告音が耳を貫く。操縦桿が、俺の手の中で暴れた。
俺——上杉義之。コールサインは軍神01。
ここはクリミアの空。※1 UCAVのいない、生身の人間が戦う最後の戦場だ。
高度8000メートル。外気温マイナス40度。
なのに、額から汗が噴き出す。塩辛い雫が目に入った。
フライトスーツの難燃繊維が、汗で肌に張り付く。
『助けて!』
少女の声が、頭を貫いた。
操縦桿を握る手が、凍った。
なんだ今の——
十代前半。泣いている。金属的な響き。脳髄に直接——
心臓が止まりかけた。
耐Gスーツが胸を締め上げる。肋骨が軋む。呼吸が、できない。
……幻覚だ。
——本当に?
胸の奥で、何かが泡立つ。正体不明の不安が、神経をざらつかせる。
機体が急降下を始めた。
俺が無意識に操縦桿を押し込んでいた。
「軍神01、どうした!」
北園の叫び。
我に返る。機体を立て直す。遅い。
ロックオン警告。
ミサイルが来る。
歯を食いしばる。奥歯が軋む。ヘルメットの中で、その音が響いた。
全身の血が逆流する。皮膚の下を、冷たい何かが這いずり回る。
あの声の主は——
俺が助けなければ死ぬ。
なぜか、それが分かった。
「軍神01、死ぬ気かよ!」
現実に引き戻される。
六つの黒影。敵機だ。
アフターバーナー全開。機体が震える。炎が視界を焼く。
「酒が不味くなるぞ!」
ミサイルが空を切り裂く。
急旋回。※2 HMDが真っ赤に染まる。警報音が脳を揺さぶる。
衝撃波。
高度6000メートル。重力が俺を潰しにかかる。
息が、詰まる。
赤い尾翼——敵のエース機が、俺を狙っている。
また、あの声が——
違う。聞こえない。
でも、その感触だけが腹の奥に沈み、腸をぎゅっと締め付けていた。
喉の奥に鉄の味が広がり、胃が反射的にねじれた。
なぜだ。なぜ俺は——
***
「軍神01、生きてるか?」
北園俊介。士官学校で互いを救い合った相棒。
あいつの軽口がなければ、とっくに狂ってた。
「死んでねえよ」
声が掠れる。唾を飲み込む。
「敵は何機だ?」
「6機だ。リーダーが狡猾で、他が追随してる」
北園の機体が、敵リーダーの背後を取る。
これで敵の動きは限定される。
「お前なら涙目で片付けるだろ、エース様」
「ならお前がやれよ、雪山01」
「俺は援護専門だ。お前が主役でいいだろ!」
無線が途切れる。
コックピットに、自分の呼吸だけが残る。
酸素マスクの中で、吐息が白く曇る。
マスクのゴムの匂いが、鼻腔に張り付く。
空調が効いてるのに、汗がヘルメットを伝う。
汗のにおいが鼻を突く。マスクの中に、どこか金属臭がこもっていた。
手が、まだ震えてる。
震える指を叱るように、操縦桿を握り直した。
グローブ越しに、手のひらの湿り気。革が汗を吸って重い。気持ち悪い。
***
「敵編隊の動きが違う!」
僚機からの通信。
「電子戦機がいないのにジャミングを受けてる!」
6機の敵が、一つの生き物みたいに動く。
新型機だ。
ミサイルが効かない。強力な電波妨害。
「回避された! こんな動きが——」
「佐世保04、被弾!」
味方機が火を吹く。スピンに入る。
その瞬間——
「各機、敵のレーダー攪乱を開始」
一条院美樹さんの声。
電子戦士官。俺の婚約者。
冷静な声。でも、微かに震えてる。
彼女もモニター越しに、俺たちの戦いを——
HMDに青いホログラムが浮かぶ。
AIナビゲーションが敵の動きを予測する。
光跡が、未来を描き出す。
今だ。
誘導弾、発射。
オレンジの爆炎。敵リーダー機が包まれる。
HMDの端に、小さなメッセージ。
『死なないでね』
美樹さんからのプライベートメッセージ。
軍規違反だ。華族の令嬢が、こんなリスクを——
胸の奥が、熱くなる。
胸が焼けるように締め付けられ、酸素が喉を通らない。
***
「雪山01、発射!」
北園が突破口を開く。
俺は機体を旋回させる。
9G。
全身の血液が下半身に押し込まれる。
視界の端が暗くなる。意識が——
量子レーダーが何かを捉える。
「魔眼」——ステルスを無効化する新技術。
未来が見える。
いや、違う。これは予測じゃない。確信だ。
操縦桿を押し倒す。
雲を切り裂く。敵機を追い詰める。
誘導弾、命中。
オレンジの火球が、空に咲く。
「その調子だ、軍神01」
「雪山01、お前だけが活躍してると思うなよ」
「次はお前が酒代分、撃墜しろ!」
軽口。
でも、それが生きてる証だった。
***
空母への帰路。
編隊は整然と飛ぶ。
戦闘の興奮が冷める。静寂がコックピットを満たす。
「軍神01、今日で何機撃墜した?」
「4機だ」
「つまり、お前は21世紀初のダブルエースだな」
複雑な感情が湧く。
俺は優秀なパイロットだと思う。
でも——
北園の天才的な勘。0.1秒の判断。
俺は計算する。その差が、いつか命取りに——
羨ましい。素直に。
「軍神01、どこまで行くつもりだ?」
「俺が目指してるのは、この戦争じゃない」
少し考える。
「その先の空だ」
この戦いの記録が、次世代の技術を変える。
AIが戦場を支配する日。それは平和への一歩。
前世で果たせなかった夢の、続き。
でも、あの声は——
『助けて!』
まだ耳の奥で響いてる。
少女の声。知らないはずなのに、懐かしい。
前世の——
いや、そんなはずは。
胸の奥で、何かがざわめく。
忘れてはいけない何かを、忘れてる気がする。
***
帰投後。
整備士と機体チェック。手が、まだ微かに震えてる。
デブリーフィング。戦闘データの分析。新型機の性能。敵の新戦術。
全部が次の戦いへの糧。
会議室を出る。
伝令が待ってた。一条院家の紋章入り封筒を持って。
「お嬢様からです」
美樹さんか。
メールではなく、手紙。あの人は、いつだって“本気”の時は紙を選ぶ。
封蝋の家紋——三つ巴に桜。金色に輝く。
自室に戻る。
ベッドに倒れ込む。全身が鉛みたいに重い。
まどろみの中で、また聞こえる。
『助けて!』
今度ははっきりと。
少女が泣いてる。駅のホーム。線路に向かって——
女子中学生が落ちていく。制服が風に翻る。
絶望と恐怖が、彼女の瞳に宿ってる。
なぜか、俺には見える。
少女の叫びが、耳の奥で——
なぜだ。なぜ俺は、この声を知ってる?
俺は彼女を救ったはずだ。
それを後悔してる?
深い眠りが俺を包む。
夢の中で、誰かが囁く。
「まだ終わらないよ」
その声の主は——
知ってる。でも、思い出せない。
ただ、一つだけ確かなこと。
俺は、この世界の人間じゃない。
華族制度が残る世界。立憲君主制が続く世界。
歴史が違う道を歩んだ世界。
量子コンピュータは実用化された。
でもAIは、まだ人の手を離れてない。
なぜ俺はここにいる?
なぜあの少女の声が聞こえた?
そして——なぜ俺は、彼女を知ってる?
答えはまだ、霧の向こう。
運命の歯車が、静かに回り始めてた。
***
※1 UCAV(Unmanned Combat Aerial Vehicle)
兵装を搭載し、遠隔または自律で攻撃任務を遂行する"無人戦闘機"。
※2 HMD
パイロットのヘルメットに装着される表示装置。