『アタマヤマ』 in my head
どしゃ降りの底から見上げる、満天の星達へ――。
*
結局、この宇宙は『閉じた宇宙』だったらしい。いや、専門外の僕にそれがいったい何を意味するのかを尋ねられても困るのだが、とにかくそういう事らしいのだ。
昔――と言うよりはつい先日まで、この宇宙は『開いた宇宙』、あるいは『平らな宇宙』だと思われていた。膨張する際の速度がどうしたとか、その曲率がどうしたとか、僕にはさっぱり想像もつかないが、とにかく宇宙というものは永続的に膨張し続けるものだと思われていたのだ。
しかし、たった一つの観測結果により、全ては根底から覆された。
その観測結果とは、今まで天文学界最大の謎とされていた、『ダークマター』の正体を解明するものだった。
それは『タキオン』と呼ばれる、光速以上の速度で動く事のできる素粒子だったらしい。そんな幽霊みたいなもので、この宇宙は満たされているのだそうだ。
その発見以降、科学者達は躍起になってタキオンの性質解明を急いだ。そして、その結果がこれだ。
この宇宙は『閉じた宇宙』でした、以上解明終わり。
光速以上で運動する物質が存在する場合、その質量は虚でなくてはならない。そうでなくては、あらゆる物理法則を無視する事になってしまう。しかし、タキオンという素粒子は平然とそれをやってのけたのだ。光の素粒子であるフォトンの数十分の一という極微量ではあるが、確かに質量が存在したのだという。そして、その事から、一つの計算結果が導き出された。宇宙に存在するであろう全タキオンの合計質量は、広がりきった宇宙を再び引っ張って縮めるに足る質量である事を。
と、まあ、その事に科学者達が気が付いた時にはもう手遅れ。後の祭りってやつだ。宇宙はすでに縮み始めていて、あと数ヶ月もすれば、この地球をも押し潰して極限まで小さくなってしまうらしい。
なぜ科学者でもない僕がそんな事に詳しいのかというと、その科学者達が、延々三時間にもわたってそういった話を僕に聞かせ続けたから、という理由に他ならない。
そして最後には、まだ事態をよく呑み込めていない僕に向かって、「この世界を救って欲しい」なんて言い出す始末。
「それって、新手の宗教勧誘ですか?」
僕としては、それが一番まともな返答だと思ったのだけれど、彼らは数瞬顔を見合わせた後、また同じ話を最初からし始めた。
今の僕にわかる事はと言えば、少なくともあと三時間は、この場所にこうして座っていなくてはならないのだろうなぁ、という事だけだ。
まったく、気が滅入るよ。本当に……。
*
気が付いた時には、すでに人付き合いってやつが億劫になっていた。別に、人と関わる事が怖いとか、そういう病的な理由ではなかったはずだ。ただ単純に、一人でいるのが好きだっただけ。誰にも邪魔されずに、好きな事をやっていたかっただけ。
学校は何とか卒業したけれど、それも出席日数ギリギリでだ。せっかく親が働いて稼いだお金で行かせてもらっているのだから、せめてまともに卒業ぐらいはしておかないとな、と、その程度のものだった。
その後は、もう典型的な引き篭もり。心配した母親が、精神科のカウンセラーのところへ僕を連れて行ったが、大した成果はなかった。
「息子さんは、自分の中だけで世界を構築してしまっているのです。いわゆる、自己完結型の引き篭もりと言えるでしょう。通常、人間というものは他者との関わり合いの中で、自分を含む『社会』という世界を構築し、それを上手く循環させていこうとするものなのですが、彼の場合は違うのです。彼の認識する世界とは、彼一人のみしか存在する事のない世界なのです」
それだけだ。そんな、安っぽい精神哲学論を聞かされただけで、僕と母親は家に帰されてしまったのだ。
でも、まあ、たった一人で世界を構築できるやつなんて、そういるもんじゃない。これはむしろ、褒められるべき事なんじゃないかな。
――世界を想像する事で、世界を創造する。
声も出さずに泣く母親の背中を見ながら、そんな事を考えていた。
*
それは『Man-machine Quantum Interference Devices』と呼ばれているものらしい。
『まんましんくおんたむいんたーふぇれんすでばいしず』、略して『マン・マシン・デバイス』。日本語に訳すと『生体・機械間における量子化干渉素子』だそうだ。
目の前にあるデスクの上に広げられた、オートバイか自動車から取り出してきたかと思うような幾つかの小さな金属の塊を指さして、科学者の一人はそう説明した。
「で、これを君の脳に埋め込みます」
神経質そうに、ずり落ちた眼鏡をくいっと直しながら、その科学者はさらりと言ってのけた。
「ピンポン玉ぐらいの大きさはありますけど……」
「ええ、現在の技術ではここまでの小型化が精一杯ですから」
「一、二――五個もありますけど、これ全部ですか……」
「ええ、これ全部です」
「いったい、何のために……」
「ええ、それは先程から何度も説明していますように、世界を救うためですね」
「はあ……」
正気の沙汰ではないなぁ。まるで他人事のように、そんな言葉が頭に浮かんだ。まあ、まともな神経では科学者などやっていられないのだろうけど。
それにしても、と僕は思う。彼らのやりたい事は大体わかった。わからないのは、そこでなぜ僕が選ばれたのかという事だ。その事を、率直に彼に尋ねてみた。
「それはですね、君には素質があるからですよ。自己完結型の引き篭もりで、現在はゲームプログラマー。これほどまでの適材は君以外にいないでしょうね」
そんな僕の細かな経歴まで調べておきながら、それでも――いや、だからこそ、僕をこの役に抜擢したと言うのだ。
まったくもって、正気の沙汰ではない。
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ゲームプログラマーというこの仕事を始めたのは、あの精神カウンセラーの言葉が原因だったのではないだろうか。今頃になって、そんな事に気が付く。
「息子さんは、自分の中だけで世界を構築してしまっているのです」というあの言葉。
だったら、それを仕事という形にまで昇華してしまえば良いのだ。そうすれば、誰にも迷惑はかからないし、誰にも文句は言われないだろう。それに、『社会の一員』という肩書きだって付く。自分でも気が付かないうちに、そう考えていたようだ。
それに、仕事とは言っても、やる事は今までと大差ない。会社に行って、朝から晩までコンピュータのディスプレイとにらめっこしているだけだ。ただ引き篭もる場所が変わっただけ。
昔からゲームは大好きだったし、プログラミングに関する知識だって人並み以上にはあるつもりだ。それに、物語を創ったり、『これまでのあらすじ』なんてモノを考えたりするのも得意中の得意。それをやるために引き篭もっていたぐらいだからね。
きっと、僕はそうする事――ゲームという虚構の世界を創る、という事で、自分自身の中にある世界をも確立させようとしていたのだろう。
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この地球をまるごと虚構化してしまうのだそうだよ。地球という惑星と、その上に存在する、我々人類を含む一切のものを。そうする事によって、極限まで縮んだ宇宙に押し潰されるのを回避するのだという。
「そのための装置が、この『マン・マシン・デバイス』というわけですね」
というわけですね、などと言われても、どういうわけだかさっぱりわからない。第一、たった一人の人間の脳に埋め込まれた数個の機械だけで、どうやってこの地球全てを虚構化しようというのだ。というより、そもそも『虚構化』というのは、いったい何をどうする事を言うのか。そんなような事を尋ねてみる。
「簡単に言うと、『データ化』ですかね。この地球そのものを、分子や原子なんかよりもさらに小さな素粒子の状態にまで分解するんです。プログラムや、まあ人間の意識とかそういったものもですが、全ては一種の電気信号に過ぎません。つまり、そういった電気信号の状態にまで地球を分解するという事が、すなわち地球をデータ化する、という事に他ならないんですね、はい」
ずいぶんと、楽しそうにしゃべるなぁ。
「だけど、それって、縮んだ宇宙に押し潰されるのと変わらないんじゃ――」
「いやいや、ここまではまだ下ごしらえですから。君と『マン・マシン・デバイス』の仕事はさらにその先です。そこまでは、現在、世界各地で建設中の装置――ま、電波塔のバケモノみたいなやつですが、そいつが宇宙収縮の際に生じる膨大な圧力を利用して、上手い事やってくれるはずです。で、ここからが本題なのですが」
顔の発する熱で半分曇った眼鏡が、ずいっと近付いて来る。
「その分解した地球のデータを君の脳の中、つまり『マン・マシン・デバイス』の中に、全て保存してしまうのです。その際には、当然君自身もデータ化され、そのデータ化された君の脳の中に保存されるわけですが。そしてそれを圧縮し、素粒子一個分程度の大きさまで縮めたら、量子状態特有の『トンネル効果』を利用して、極限まで収縮した宇宙の外へいったん避難するわけです。ああ、『トンネル効果』というのはですね――」
彼は立ち上がり、そばに置いてあったホワイトボードに歩み寄ると、そこにマジックでマルやら波線やらを描き始める。そしてその間を埋め尽くすように、アルファベットやギリシャ文字や数字の羅列だ。
「量子状態とはつまり――きゅいっ――としての確率的かつ非常に揺らいだ――きゅっきゅいぃ――となるわけですが、この場合――きゅいいぃぃきゅっ――ま、シュレディンガーが定義――きゅっ――になります。こうなりますと我々の――きゅいいいぃぃぃ……」
ずぅっとこの調子。そんなに一気に説明したって、僕なんかが理解できるわけがないという事を彼は理解しているのだろうか。
それにしても、と僕は彼の説明を上の空で聞きながら思う。
データ化した僕自身を、そのデータ化した僕の脳の中に保存するとはね。いったいどこがどうなればそんな複雑な事になるのか、皆目見当も付きゃしない。これじゃまるで――。
僕の口から大きなため息が洩れる。
そう、まるで『頭山』じゃないか。
*
『頭山』という落語の演目がある。僕は好んで落語を聞くようなタイプの人間ではないが、なぜかこの演目だけは大好きだった。それはSFであり、ファンタジーであり、そしてホラーでもあるのだ。落語の演目として、というよりは、一つの物語として、僕は『頭山』が大好きだった。
話を要約するとこうだ。
――ある日、一人の男がさくらんぼを食べている時に、誤って、その種も一緒に飲み込んでしまった。するとどういうわけだか、数日もすると、男の頭からにょきにょきと木が生えてくる。それはやがて立派な桜の木となり、春になると絵に描いたような満開花吹雪。噂を聞き付けた人達がたくさん集まり、桜の木の下で、飲めや歌えやの夜通しお花見大宴会。そのあまりの騒々しさに耐えかねた男は、自らその立派な桜の木を根っこごと引き抜いてしまう。
数日して、雨が降った。男が引っこ抜いた桜の木の跡には大きな穴が開いており、そこにどんどんと雨水がたまっていった。そしてそれは立派な池になる。そのうち、その池では何種類もの魚が泳ぎ始め、釣りを楽しむ人達や、美しい鯉を見に集まった人達が、しまいにはそこに屋形船を浮かべ、飲めや歌えやの夜通しお祭り大宴会。再び安息の生活を奪われてしまった男は、ついに心を病み、その池の中に身を投げて死んでしまいましたとさ――。
ほらね。これは紛れもなく、SFでありファンタジーでありホラーでもある物語。
普通に考えてみれば、こんな事は絶対にあり得ない。男は自らの頭に出来た池の中に、身を投げて死んでしまうのだ。
だが、これは虚構の物語。登場する人物名、団体名は実在するいかなるモノとも――というやつだ。完全なる虚構の世界。
僕はこの、『頭山』を創り出した人を天才だと思う。そして、僕に「世界を救って欲しい」なんて言った科学者達も天才的だ。
何しろ、彼らはこの『頭山』の物語を、虚構の世界から現実の世界に引っ張り上げようとしているのだから。
だって、彼らは言ったじゃないか。
自分の頭の中に出来たデータの池に飛び込め――と。
*
科学者達が一番恐れているもの、それは『メモリー不足』らしい。この場合の『メモリー』というのは、記憶とか思い出、という意味のメモリーではなく、コンピュータ用語なんかでよく使われる『記憶容量』の事だ。
ま、どっちにしたってたいした違いはないのだけれどもね。結局は、僕の頭の中の容量なのだから。
「つまりですね、我々科学者の間でも、この地球をデータ化した際に、いったいどれ程の容量になるのかが問題となっているわけなんですよ。それと、君の脳にどれだけ空き容量があるのか、という事も。いえ、おおよその見当は付いていますよ。それが仕事ですからね。ですが、あくまでも概算は概算でしかないわけで……。ほら今は、予想外の出来事、とか、衝撃の新事実、なんてもので溢れ返っている時代ですから」
で、結局彼が何を言いたかったのかというと、そのために――予想外の出来事や衝撃の新事実なんてものにも対処できるように――僕の脳の空き容量を増やすのだそうだ。僕の中にある『メモリー』を、必要なもの以外全て削除する事によって。
「だって、困るでしょう? データを再生してはみたものの、地球が半分になっていたりしたら。……はっきり言ってしまいますと、実際にやってみるまでわからないんですよ。データが君の脳に入りきらない、なんて事態になったとしても、その時には我々も全てデータ化されたあとですからね。もちろん君も。つまり、どういう事態が起こっても対処のしようがないんです。ですから、事前にあらゆる事態に備えておく、というのがベストなわけですね」
そんなもの、『マン・マシン・デバイス』の中に必要な記憶容量を確保すれば良いじゃないですか、などという僕の意見はその場で却下された。
そんな事をすればデータの処理速度が遅くなる、だとか、そもそも『マン・マシン・デバイス』の中にはすでに必要なソフトウェアをインストール済みで、これ以上容量を増やすとなるとハードウェアそのものを大型化するしかない、だとか、そうすると今度は君の脳がその負荷に耐えられない、だとか、その理由を説明する彼の口調には一切淀みがなく、まるで事前に何度も練習した演説のようだった。
なるほどね。彼はあらゆる事態に備えておくのがベストだ、と、さっきも言ったばかりじゃないか。僕の言いそうな意見や質問なんてものには全て、事前に回答マニュアルが用意されていて当然だ。
「ま、悪い話ではないと思うんですけどね。誰でも忘れたい記憶の一つや二つはあるものですから。いじめられっ子だった幼少時代とか、つらい失恋とか。そういう記憶、ないです? 今なら特別キャンペーン期間につき、そういった記憶を優先的に消去しますよ、お客さん」
彼はそう言って、ずり落ちた眼鏡を直しながら――笑ったのだ。
*
それは、予想外に簡単に済んでしまった。僕の脳に『マン・マシン・デバイス』を埋め込む手術、及び、僕の脳の中に必要なだけの空き容量を確保する作業が、だ。
予想外、というのはもちろん僕にとってもそうだったのだが、驚いた事に、科学者達にもそうだったらしい。
なにしろ、手術直後でまだ意識がぼんやりとしている僕の目の前で、科学者の一人が携帯電話を握り、「ああ、今日の夕食ね、やっぱり用意しておいてもらえないかな。……いや、そのつもりだったんだけどもさ。これが思いのほか仕事が早く片付いちゃってねぇ。うん、そう、もう終わったの」なんて大声で話していたぐらいだから。
ひとの脳みそいじくりまわしておいて、ずいぶんと適当なんだなぁ。
そんな事を考えていると、ふいに目の前が真っ白になった。真っ白になって、その真ん中にボールペンが見えるのだ。
「はい、これ」
よくよく見ると、視界は完全な真っ白ではなく、数字やら文字やら四角いマスやらが見える。それはアンケート用紙なのだった。
「必要な記憶まで消去されていないかどうか確認するためのものです。箇条書きされているものを順に読んでいって、それをしっかり覚えているのであれば、その下のチェックボックスにマークしてください」
なるほどねぇ、こんなものまで用意されていたのか。
ぼんやりとした意識のままボールペンを握り、僕はそのアンケート用紙に目を通した。
1・本日の手術の目的を覚えていますか? □
2・自分の名前を覚えていますか? □
3・自分の容姿を覚えていますか? □
4・家族の名前と顔を覚えていますか? □
5・近しい親類の名前と顔を覚えていますか? □
6・親しい友人の名前と顔を覚えていますか? □
7・恋人の名前と顔を覚えていますか? □
8・預金のある銀行名を覚えていますか? □
9・銀行口座の暗証番号を覚えていますか? □
こんな調子だ。中には、明らかに嫌がらせとしか思えないような部分もあったが、僕はなにくわぬ顔でそれを読み、そして全てのボックスにマークを入れて、科学者に差し出したのだった。
「ま、上出来ですね」
アンケート用紙は、彼の視界を右から左へと通過しただけで、机の上に伏せられてしまった。どうせ、どこかの項目にチェックが入っていなかったからといって、特に対処はしてくれないのだろう。消えてしまったものは仕方ない、とその一言だけなのだ。
「本当の事を言うとですね――」
彼は、さも残念そうな表情を浮かべて、僕の真正面に立った。
「君のメモリーは完全に初期化する予定だったんですよ。まっさらのなぁんにも無い、って状態にね。頭の中、真っ白に。いや、もちろんそんな事、人道的観点からすれば認められざる行為ですがね。だから、全ての記憶のバックアップを取った上で、メモリーの初期化をする予定だったんです。その方が、空き容量は増えるし、全てが終わった後にはちゃんと記憶も戻せて一石二鳥」
彼は、そこまで一息に語ると、大げさなため息を一つ漏らした。
「そのシステムを構築するには、時間も予算も足りなくて。……あ、特に予算の方が」
その後、彼は自分のデスクの上を整理しながら、ちらりちらりとこちらの方を見ては、「本当、上はお役所仕事でねぇ」とか、「宇宙の危機だってのにねぇ」とか、とにかくそんな独り言を漏らすのだった。
つまり、文句があるなら上層部に言え、という事らしい。自分達みたいなヒラの科学者には、なぁんにも責任はございません、ってやつだ。
「あ、意識がはっきりしてきたなら、もう帰っても結構ですよ。それじゃ、また明日」
言うが早いが、彼は分厚い書類の束を抱えて、僕よりも先に出て行ってしまったのだった。
まったく、それこそお役所仕事じゃないか。
*
研究ラボから外へ出て顔を上げると、まだうっすらと青さの残る空のど真ん中で、馬鹿みたいに膨れ上がった満月が僕を見下ろしていた。
ウサギが餅をついているような、あのなんとも哀愁のある陰影は、もう見えない。その代わりに、不気味な冷たさを放つクレーター達が、その中でひしめき合っている。
宇宙が縮むというのは、端の方から順に押し潰されていく、という事ではなく、宇宙の中に存在する全てのものが相対的にその距離を縮めていく、という事を意味している。当然、地球と月との距離も近くなるわけだ。
それで、あの馬鹿みたいに膨れ上がった満月。このまま近付けば、アポロ計画でアメリカが立てた、あの国旗も肉眼で見えるようになるかもしれない。まあ、そんな時には、すでに月の持つ遠心力と地球の引力のバランスが崩れていて、月が落っこちて来るのだけれど。
いや、そこまで月と地球が近付いた次の瞬間――正確に言うと『十のマイナス三十四乗』秒後――には、この宇宙そのものが量子サイズまで圧縮されてしまっているだろう。
だから、結局アメリカの国旗は見えないのだ。そう思うと、少し寂しいような気もして、忌々しげに、もう一度そいつを見上げる。
そこで、ようやく僕はこの妙な事態に気が付いた。どうして僕は、こんな小難しい事を知っているのだろうか――。
なんでかなぁ、と思いながら後頭部に手を当てると、冷たい金属に指が触れた。それは僕の脳にデータを転送するためのプラグで、後頭部から脳の中心に埋め込まれた『マン・マシン・デバイス』までつながっている。
ああ、なるほど、そういう事か。あの科学者達は、またずいぶんと勝手な事をしてくれたもんだよ、本当に。
つまり彼らは、僕のメモリーを削除する際に、現状をより正確に理解できるための学術的知識を僕の脳に詰め込んだらしいのだ。
どうりで、上の空で聞き流していたはずの『トンネル効果』の理論を細部にわたって思い出せるわけだよ。いや、思い出せるというよりは、知っている、といった方が正しいのかもしれない。だってそれは、すでに僕の中にある、僕自身の知識なのだから。
まったく、そんな重たいデータなんか入れたら、メモリーを削除した意味が無いじゃないか。
……あ、もしかしたら、あの科学者達もこの方法で『科学者』になったのかもしれないな。うん、きっとそうだろう。なにしろ、この方法を使えば、ほんの数時間で一人前の科学者が出来上がるのだ。長い時間と莫大な教育費をかけて育てるよりは、よほど効率が良い。
おそらく彼らはつい先日まで、どこかの銀行で事務員をやっていたに違いない。それが、この『宇宙の危機』に対処するための緊急要員として雇われ、そして『科学者』に仕立て上げられたのだ。
だから、彼らはあんなにも危機感が足りなく、その上、お役所仕事なのだろうなぁ。
そんな事を思いながら、僕は歩き始めた。しかし、その足は二、三歩前に進んだだけで、その動きを止めてしまう。
――こいつは、困った事になったなぁ。
僕は、どうしたら良いかわからず、その場で立ち尽くし、後頭部のプラグをひと撫でした。本当に、余計な事ばかりしてくれるよ、こいつは。
なにしろ、家のある場所が思い出せないのだ。
どんな家だったか、という事は思い出せる。屋根の色や壁の色、そしてどんな間取りで、そこにどんなものが置いてあったか、という事は事細かに思い出す事ができる。ただ、今僕が立っているこの場所から、どこをどう行けばその家まで辿り着けるのか、という事がいくら考えてもわからないのだ。
後ろを振り返ると、そこにはすりガラス張りの研究ラボ入り口。
戻って、中にいる人に聞けば、僕は自分の家のある場所を思い出せるだろうか。
いや、どんな事態が起こったとしても、彼らの答えは決まっているだろう。「消えてしまったものは、仕方がない」だ。
幸い、預金口座のある銀行も、その暗証番号も覚えている。そして、僕の財布の中にはそのキャッシュカードも入っているだろう。
どうせ明日の朝には、またこの研究ラボに来なくてはならないのだ。ならば、近場で安宿でも探した方が手っ取り早い。
それに、もし仮になんとか家に辿り着けたとしても、今度はこの研究ラボへの行き方を忘れていたりなんかしたら――。
それこそ、『宇宙の危機』じゃないか。
*
異様なまでに大げさな椅子に腰掛け、僕を真正面から見つめる科学者の顔をにらみ返す。
「今から、『マン・マシン・デバイス』起動までの間、君はその場から一切動けませんので。――あ、トイレはもう済ませました?」
そう言いながら、彼は僕の前にある小さなデスクの上に、ドラマの病院シーンなんかでよく見かける、妙な形をしたガラス瓶を置くのだった。
「『マン・マシン・デバイス』が起動してから、次に顔を合わせるのは、約十万年後って事になりますか」
わかっている。宇宙が一度極限まで縮めば、その内部は超高温・超高圧の状態だ。いくらビッグバンで急激に膨張するとはいえ、物質が正常に存在できるようになるまでには、最低でも十万年はかかる。それまでは、光すらも光として存在できないような空間なのだから。
今さらそんな事を言われなくても、わかっているのだ。そのための知識は、僕の脳の中にインストール済みなのだから。
そんな事を思った後、僕はこの計画の手順を、ゆっくりと頭の中で巡らせ始めた。
まず、宇宙収縮の際に生じる膨大な圧力、及び熱エネルギーを利用して、この地球を全てデータ化した後、僕の頭の中にある『マン・マシン・デバイス』の中にそのデータを転送します。
次に、そのデータを含んだ『マン・マシン・デバイス』――というより、僕の脳みそそのものを量子サイズまで縮小し、量子状態特有のトンネル効果を使って、超高温・超高圧状態の宇宙から、一旦避難します。そのために必要な『ファイル圧縮ソフト』は既にインストール済みです。
そして、宇宙空間内が、物質の存在が可能になるぐらい――ビッグバン開始から、およそ十万年――まで落ち着いたら、再びトンネル効果を利用して、宇宙空間内に戻ります。その際に使用する『位置検索ソフト』――よく携帯電話などに使われているもの――も、当然インストール済みです。
あとは、『マン・マシン・デバイス』を元のサイズまで戻して、中にあるデータを解凍・復元するのです。
……うん、上出来だ。あの科学者達の説明なんかよりも、よほど簡潔でわかりやすい。
そうだな、この仕事が終わったら、僕自身が科学者になるのも悪くはない。そのための知識も当然インストール済みです、ってなわけだ。
*
トイレに行きたいのを我慢しながらうとうととしていたら、僕の周りに置いてある大小様々な機械達が、急に騒がしくうなり始めた。続いて、頭の後ろから中心部にかけて次第に熱くなり、なんだか意識がぼんやりとしてくる。
それが、『マン・マシン・デバイス』のせいなのか、それとも単に眠たいからなのかは、まだわからない。とにかく、科学者達が忙しなく動き回っている間を、夢のようなものが横切っていくのだ。
そんなものの間を縫って、科学者の一人が、シャンパンの瓶を片手に近付いてきた。
「どうするんですか、そんなもの」
僕がそいつを指さしながら尋ねると、彼は満面の笑みを浮かべて「準備ですよ、準備」などと言いながら、どこから取り出したのか、真っ白なテーブルクロスを目の前のデスクの上に広げるのだった。
「データの復元に成功したら、その場で祝賀会をおこなうんですよ。これは、そのためのシャンパンです。ま、これは飲む用ではなくて、かける用の安物ですけどね」
そうやって、忙しなく祝賀会とやらの準備をする彼のすぐ横では、夢が現れては彼を追いかけ、すれ違い、ぶつかり、消えてゆくのだった。科学者達が何の反応もみせないところを見ると、おそらく、それらは僕にしか見えていないのだろう。
いや、もしかしたら彼らにも見えてはいるが、色々と忙しくて、そんなものにかまっている暇はないのかもしれない。
「そろそろですね。準備、間に合うかな……」
そう言った科学者の顔が奇妙なまでにぐにゃりと歪んだ。そして、しばらくノイズが辺りを支配した後、何事もなかったかのように、全てが元通りになる。
「ここもデータ化が始まってるみたいですね。空間がずいぶんと不安定になってきてる。あ、空間の歪みは通常、重力場によるものなんですけど、今回の場合はデータ化に伴う現実と虚構の間で起こる摩擦みたいなものですかね――って、今こんな話をしても仕方ないですね。それに、それぐらいの事、今の君なら自分で理解できていますよね」
僕はゆっくりと首を縦に振る。そして、それを元の位置に戻した時、目の前に科学者はいなかった。それどころか、部屋の中にはもう誰もいないのだ。
データ化、完了。そんな文字が、頭の片隅で点滅している。
「準備、間に合わなかったですね」
そうつぶやいた時には、周りに置いてあったデスクやシャンパンや機械達も消え去り、真っ暗闇の中に、僕だけが――僕の意識だけが、浮かんでいるのだった。
全てのデータ化、完了。
*****
全ての存在が僕の中にある。
地球にあった全てのモノ。
そこにいた全ての人達。
生まれたての赤ん坊。
腰の曲がった老人。
仲の良い恋人達。
喧嘩中の親子。
全ての存在。
何もかも。
僕の中。
僕も。
『頭山』の池の中――。
******
微かに聞こえてくる雨音で、僕は目を覚ました。まだぼんやりとする頭を一度振ってから、辺りを見回す。
中途半端に並べられたグラスやシャンパン。見慣れた機械達。冷たい光を放つ蛍光灯。無秩序に置かれたデスク――。
それだけだ。それしかないのだ。
聞こえてくるのは雨音と、僕の中で響く鼓動だけで、気が滅入りそうな機械のうなりも、もちろん人の声だって、そこには一切ない。
何も、ない。
僕は後頭部に刺さっているプラグを無造作に引き抜くと、よろめきながら立ち上がった。そして、もう一度辺りを見渡す。しかし、何度見たって、そこにあるものは変わらない。僕以外、誰もいないのだ。
「予想外の出来事ってやつかな、これは……」
そうつぶやいた僕の声は、コンクリートの壁に吸い込まれて、消えた。
いったい、何が起こったというのか。科学者達の恐れていた、『メモリー不足』だろうか。いや、そんなはずはない。計算上、メモリーは充分に足りていたはずだし、僕自身、全てのデータを正常に保存した記憶もある。
では、いったい何が。
僕だけがデータの再生に失敗して、この世界に取り残されてしまったのか、それとも、僕だけがデータの再生に成功したのか――。
そこまで考えて、僕はある事を思い出した。ある人が、僕について述べた言葉を。それを思い出した途端、腹の底から込み上げてくる笑いを抑えきれずに、僕はその場で吹き出してしまう。
腹を抱えてひとしきり笑い転げたあと、僕は研究ラボを出た。
*
それは、全てを洗い流すようなどしゃ降りだった。
向こうに見える街の明かりも、振り返れば目の前にある研究ラボのドアだって、何もかもが歪んで見えるほどの、激しい雨。
それなのに、空は星でいっぱいなのだった。まるで、それらが降り注いできているみたいに――。
ここが虚構の世界だから、こんな事が起こっているのか、それとも、データを再生した際に生じた微妙なタイムラグのせいで、こんな事が起こっているのか。
どんなに考えても、それはわからなかった。それを理解するための知識は、どこを探しても見つからないのだ。
まあ、どちらにしたって変わりはない。
虚構だろうと現実だろうと、どちらも大差はない。
結局、僕は独りなのだから。
ずぶ濡れになるのもお構いなしに、僕は歩き出した。どこか目的があったわけではないが、あの人の――あのカウンセラーの言葉を頭の中で巡らせながら、僕は歩き続けた。
「彼の認識する世界とは、彼一人のみしか存在する事のない世界なのです」
口に出してみると、また笑いが込み上げてきたが、今度はそれをしっかりと抑えつけ、歩き続ける。
きっとあの科学者達は、どこかでカウンセラーの言葉を聞いたのだろう。そして知ったのだ。僕が、たった一人で世界を構築できる人間である事を。だから彼らは、僕をこの計画に抜擢したのだ。
しかし、肝心なところを聞き逃したのか、それとも、それを承知の上で博打に出たのか。今となっては確認のしようもないが、結果がこの世界だ。
僕一人のみしか存在する事のない世界。
僕がたった一人だけで構築した世界。
引き籠もりが創ってしまった世界。
僕が引き篭もってしまった世界。
以前とは全てが変わった世界。
以前と何も変わらない世界。
依然として僕は一人だけ。
ずっと前からそうだよ。
何も変わっていない。
虚構でも現実でも。
どちらでも良い。
区別などない。
僕は独りだ。
ここには。
雨粒と。
星空。
歩きながら、くだらない事を考えてみる。
この世界なら、手が届くだろうか。
どしゃ降りの底から見上げる、満天の星達へ――。




