表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

「小豆島」孫との旅

作者: 船岡銀杏

小豆島は我々をどう迎えてくれるのか?

ユースホステルの夜は旅の疲れをいやしてくれるのか

旅に何を求め

旅で何を伝えるのかと

祖父と孫、孫と祖父・・・やっぱり旅なんだ。

「小豆島」孫たちとの旅

                              船岡 銀杏


  序

  

 この春、孫たちと旅に出た。

動機と言えば、私の二度目の退職の機会と、孫の一人がコロナの為に修学旅行が中止になったからだ。

 私は定年退職後、10年間の再雇用を勤めこの3月末に終了となった。

孫の一人が、小学校最終学年となる修学旅行で香川県の「小豆島」へ行く予定だったが、前日にコロナ感染症か、発熱症状患者が数名出たことで急遽中止となった。

 その孫の落胆ぶりは、見るのも無残だった。

何故なら、旅行に出かける事前学習で、小豆島の「醤油」作りを調べるテーマを個人かグループで担当するようだったらしい。数か月前から沢山の友達と行ける旅の思い出作りと、見学の課外学習に大きく夢を膨らませていたのだが、突然前日の夕刻に中止の連絡が入ったのだ。

 私には「小豆島」・「修学旅行」この二つが、頭を巡りなんともはや「残酷なお達し」と、可愛そうで孫を直視できなかったのだ。


 遥か遠い昔、私の少年時代にボーイスカウトの夏の訓練として、初めて知る小豆島での2泊3日のキャンプをしたことに鮮やかな思い出が残る。「アカハラ」が泳いでいた水を、喉の渇きが抑えきれずに飲んだ場所だ。

 そんなことよりも、澄んだ青空と青い海に浮かぶ小豆島「」美ケ原の思い出は、登山の辛さよりも、子どもながらに「小豆島」というなんとも瀬戸内らしい響きを耳に留めた記憶と、その渓谷美を子ども心ながら、深く心に刻まれていた。 


 そこで我が子ども達とは30年ばかり前に、私たち家族で妻と娘と息子を連れて「小豆島」を旅した。目的はその小豆島の魅力を、子どもらにも体験を通して、新鮮で明るい離島の風景を見せたいと、事前に妻の同意を得て旅行したのだ。

 寒霞渓の景観を楽しみ、美ヶ原の調子渓では昼食時にサルに襲われるハプニングに、娘のサンドイッチを奪われたことがあった。その時、サルの目と向き合った恐怖は、子どもにすれば如何にも恐ろしい記憶として残ったことだろう。想像するのはたやすいことだ。

 それはそれとして、とっても楽しい思い出の一つであった。

 

 私に取れば、そんな思い出深い「小豆島」の旅だ。

だからこそ、是非ともこの春には孫たちもぜひ体験させてやりたかった。

 そこで晴れて今朝、小豆島への出発となったのだ。






   出発


 4月の初め、3人の孫を春休みに「小豆島」へ出かけようと誘った。

3人の春休みはそろそろ計画倒れ、普段は「おじいちゃんとは・・・?」と、敬遠がちだったが、旅となると話は別で、直ぐに賛成となった。

 私は依田五郎75才の春となった。

孫とは、この旅では最年長となる息子の長女でありこの春中学生デビューする、その妹でこの春小学4年生となると、今回修学旅行が中止となった娘の長女で、この春小学6年生となり、この「小豆島」旅行のきっかけとなった気冴の3人である。

 私と孫のは同居、孫の世里花、速羽は京都郊外に在住のため、母親の仕事の通勤時間に合わせて、京阪三条駅で全員が落ち合わせた。待ち合わせ時間にゆとりがあったので、菓子パンを買うことにした。新幹線、船旅そこで「お昼が」どうなるか?心配もあった。

しかも朝食をあまり食べていなかったとしたとしても・・・それなら、おやつにもなる。

 最寄りのSショップは馴染みのパン屋さん、味も確かだし、買っとくか!

孫の気冴は勝ち気、みんなの好みをチョイスして、「私は今、嵌っているカレーパン。世里ちゃんには、好きなメロンパン。そして速羽ちゃんには、私も好きなカツサンド!」と、どんどん選んで買ていった。やがて、待ち合わせのSショップ前で、全員が合流した。

 そこで、恒例の結団式を開催した。

私は最高齢であり経験者だからと言うことで、今回の旅行のリーダーとして君臨した。

しかもこの旅の企画立案者で、それから、なんと言ってもスポンサーなんだからネ。

 簡単に旅の趣旨を確認し、いつもの同じの役割分担を発表して重要事項を説明をした。

速く言えば、言うことを聞かなくなった孫たちへ「旅では、私に絶対服従を誓え」と言うこと暗に諭したのだ。





  新幹線乗車

  

 いよいよ、結団式のスタート!重要な儀式だ。

円陣を組み、右手を差し出して円の中心で重ねて、旅の成功を誓い「チーム依田」を発足させた。みんなの顔は輝いていた。

 さて、京都駅に着いた。早速、新幹線切符の購入だ。

 初め私は予算上から、新幹線か?JR沿線の新快速で済ませるか?と悩んだ。

いや思い出作りの孫との旅に「何をこの場で、細かいことに悩むのか?見下げ果てた人間だ!」と気づき、迷わずに気分も晴れやかに、新幹線の乗車と決めた。

 元気な足取りで自動販売機に向かったが、いざ械械の前に立つののだが、孫の手前であり格好よく操作したいのだが、「京都発、大人1人、小学生の子供3人、新幹線特急券!」気持ちは空回りして、さらに後続の人たちが無言の圧力となり、迷うばかりでちっとも指が動かない。もう迷ってる余地は無い、近くの駅員さんに縋り事情を述べた。

 駅員さんは簡単に器械を処理し、行き先の姫路まで全員の新幹線切符を、見事にカード支払いまで処理してくれた。誠に有難い、初めから駅員さんに頼べば良かった。

でも彼等には、毎日これが仕事なんだから、それこそ簡単で当たり前ですな!

 それにしても、今は4月初めと言う季節がら、リクルートスーツ姿も初々しい若い女性たちが定期券購入に殺到し、外国人観光客が大勢入り混じる風景となればテンションも上がるはずだか、はや出発前に疲労感を感じさせるくらいだ。

 さて、静かにホームへ入車して来るシャープで偉容な姿、「新幹線のぞみ」のハナデカ先頭車両を見ると改めて興奮するのを覚えた。私は停車したのぞみの1両目後部の出入り口から、孫たちを新幹線乗車にエスコートした。

 ここで驚いたのは、一番下の4年生の速羽ちゃんが、自分のマンションから新幹線が行き交うのを毎日眺めているはずなのに、「新幹線、乗るの初めてや!」と興奮しきりで「飛行機みたい!」喜んでくれた。

 私はもうこれだけで、この旅は半分成功したものと感じた。

でもね、我が息子よ、「新幹線くらいは、乗せてやれよ!

学校が先に乗せてくれたなんて、言われ無くて済むように、頼むよ!」

息子たちには、移動手段がいつも自動車なので荷物のように子どもたちを扱うばかりの生活では仕方ないことが有るにしても、なんとも嘆かわしい。

 ところが一転して、孫たちの喜びは束の間。いつの間にか孫たちには、いつものように夫々が、自分のスマホかiPadに興じ、埋没するモードに変化していった。


 私はその姿が嫌で、その毒された日常生活から脱出するように、「五感で旅を」と提唱したことに、孫たちが気付くことは程遠いようだった。





 フェリー乗船


新幹線は姫路駅に着いた。

 駅から姫路港までのバス案内が明確でない。駅員に尋ねても、市バス乗車の説明はアバウトで、「観光案内所でバス案内を聞いてくれ」と言う。駅を出て案内所を探すのだが、まるで見当もつかない。右往左往する間に10分過ぎても、行き先のバス停は見つからない。忌々しく思いながら、諦めて停車中のタクシーに乗り込んだ。「降りた南口にはバス停は無く、北口から発車するのだ」と運転手から説明を聞いた。

 今更、「もうなんでもいい。」分かりづらいし、JRの案内所や駅の売店での説明も、側にいた当地の住人らしき人に尋ねても、港までのバス乗車についてはサッパリ分からなかった。旅人にはもっと明確な表示が欲しい。

 まあ支出も仕方ない、港は近いはずだ。先ほど観光案内書で確かめておいたから。

こちらも4人連れの旅、タクシー代もバス代もそれ程の料金差は無いはずと踏んだ。

とにかく、フェリー乗り場までは早く到着した方がいいのだ。

船に乗ってからの心配事ならまだしも、旅はまだまだ序の口だ。

 姫路港到着、切符発売開始まで少し時間があったが、なんとか時を過して乗船チケットを手にした。フェリーは想像したより遥かに大型な船で、順番待ちのジャンボトラックが何台も楽々に乗るほどの船体で、頼もしく停泊していた。しかも、オレンジ色と白が眩しく勇ましかった。なかなか、テンションが上るのを感じさせた。

 でも出航時間には、まだたっぷりあった。孫らは集まると、誰からとなくスマホやiPadを取り出して、ゲームを始めたり、音楽を聞きダンスを始めようとする。

私はその手は乗らじと、買ってきた菓子パンを片手に港が望める公園を認め、その公園まで誘い出すことにした。

 これが旅の命運にかかる、大切な決断の場面を迎える時と予感した。

旅路のスタートに際し、リーダーたる実力を示すチャンスだと考えた。あの新幹線乗車当時に高揚した気分を取り戻す再現を試みた。

 パン袋を片手にかざして目的の公園を指差した。しかし、孫たちの反応には気怠そうなリアクションのモードを感じ取ったので、私は空かさず「まだ船に乗るまでの時間は1時間以上ある。少し早いけどあの公園で、お昼にしよう!」と言うが早いか公園に向かって、先に歩き出した。孫たちは慌てて荷を整え、私に縋って後を追ってきた。

 そこは港公園があった。勿論私たちには初めての所で、姫路が製鉄の街であることさえ知らなかった。歴史的な大きな製鉄工場が直ぐ側に控えていた。公園にはサクラも散り初めで、桜を愉しむ人以外、誰一人立ち寄る人はいなかった。むしろ旅人たちには好都合、広くて見晴らしが利く海辺の公園を自由に占領することが、大いに気に入った。

この選択の意外さには、私もまんざらでは無かった。

 11時を少し回った時間だったが、朝が早く、お腹はみんな空かせていたようで、夫々の好みのパンを掴んだ。食欲旺盛な真ん中の気冴は、最近る「カレーパン」を美味そうにり、の世里花は好物の「メロンパン」(これは父譲り、いやお爺さん=私譲りなのかも)を握り、封を切っていた。食欲の定まらぬ末の速羽は、キャラメルジャムの細長く、柔らかいパンを美味しそうに頬張っていた。私はブレずに「特性クリームパン」を食べた。やはり「これだ」シュークリームのカスタードを彷彿とさせる、この店特有の味だった。そうして肉食の孫娘たちは、カツサンドを頬張り、締めとしていた。

 お昼を軽く済ませた後、乗船までの時間はしばらくあった。孫らは、夫々が自由気ままに行動し出した。iPadを片手に写真を取り合ったり、インスタ映えするショットを何度も繰り返し撮っていた。港の跡地で歴史を忍ばせる数々の風景を背景に、彼女らはその由来が理解できなくても何かを感じ取ったであろう。場所を移動しながら、珍しくいつもよりスローなペースで探索を始めていた。

 孫たちの姿は、いつの間にか立派な「飾万津灯台」横の小径を辿り海岸沿いを降りて、既に桟橋付近に立っているのを見た。一瞬びっくりさせたが心配には及ばなかった。

彼女ら自身で安全に身を守れる成長した姿を、発見して安心させられた。

 私たちには小1時間だったが、何ともローカルな味わいのある心豊かな時間を「飾万津港」公園で得られたことに、「こりゃー幸先がいいわい」と 一人満喫していた。

 さて胸躍るフェリー乗船へ、

各自チケットを握りしめ、桟橋からタラップへ、客室に向かう足取りは軽くて楽しかった。

 私は、客と一緒に乗船する自動車やトラックの積み込みを見詰めながら、青春時代の北海道一人旅を思い浮かべていた。勿論フェリーの規模は異なるものの、当時とは違い近代的な装備の発達は全く異なり、くつろげる客室の広さや売店のスタンドも備わり、甲板デッキには備え付けの小綺麗な椅子やテーブルも完備され、勿論清潔なトイレも気に入った。 しかも船室前方のフロント・ビユーは全面ガラス張りのロビーのようで、座り心地の良い安楽椅子も何列に備えられていた。

その上それが全席貸し切り状態であった。

 孫たちも解放感はマックスだったようだ。船内のあちこちに移動し、一通り探検し終わって、一つのテーブルを占有したかと思うと、今度は、畳が敷かれた一角のスペースを支配し、落ち着いた。「充電器が繋げるコンセント」が近くに有るからだと理由を述べていた。

 外の甲板で、早春のやや冷たい風を浴びながら「瀬戸内の海だ!春だ。」と言いかける私の説明を遮り、早々と客室に戻り、孫らはスマホとiPadに額を寄せ合う、いつもの姿に舞い戻ってしまった。

 あ〜あ! せかっくの旅路なのに!

瀬戸内の島々の風景を背景に、春の陽差しいっぱい受けられる喜びを・・・

何とも伝わらない孫たちに、もどかしく感じた。

 フェリーは快調に航路を進んだ。海上は波風さえ無く、「ひねもす(終日) のたりのたりかな」であった。海に浮かぶ島々を目にしながら、港までのタクシーの中で運転手が言っていた「瀬戸内の豊島から大阪城の石垣に、岩石を船で運搬したのだ」と言う言葉が、思い出された。それは海上でフェリーとすれ違う島の様子だった。桜の満開かと見間違うほど、とまるで春霞が立ち込めたような煙が、島全体を包んでいた。

恐らくコンクリートの原石を砕いた煙だろうと解釈した。

 まだ日照りが弱く肌寒くなってきて、私もキャビンに退散した。

相も変わらず、孫たちのスマホ・iPad三昧の姿には辟易して客室前部のソファアに身を沈め、1時間40分の航路を軽く酩酊したように満喫した。

 やがて船は、小豆島福田港へ静かに入港していった。最近では入港合図の譬えが無いにしてもだ、「ブォッー!」という元気な汽笛ぐらいあってもいいのに?と訝った。

優先する環境問題からかな?




 小豆島へ上陸


 ウワァー! 小豆島だ。

瀬戸内の真珠! 「イザ、風光明媚な小豆島へ」

75才でも興奮する、みんな同じだ。意外と?私一人か、感情が高ぶる。

子どもたちは極めて冷静な反応のように見える。

 しかし、今に見ていろ!きっと驚かせてやるから!私には秘策があった。

「子どもにとっても、この絶景には文句無しだろう。」

と、一人ほくそ笑む私だ。 

 さて、計画は始動した。こんなこともあろうかと、事前にフェリー乗船中に売店の店員さんに品物をオーダーもせずに、美ヶ原高原に行くバス路線の手順を聞き遂げていた。

 そうだ「寒霞渓」なんだ。私の昔年の思い出「小豆島」の全てがここにある。

港から停留中の小綺麗な小豆島観光バスの方面行きに、迷わず乗り込んだ。そして島の中腹、港で下車した。次はタクシーに乗り換える番だ。国道に立ったが、時間が惜しくて近くのガソリンスタンドで、「タクシーを掴まえる方法」を尋ねた。運よく道路の向かい側にタクシー会社があることを教えてもらえた。

 「よし、タクシーだ。」

大きな声では言えないが、カードには入金のゆとりはたっぷりある。

 私は元気よく、イザ寒霞渓だ!と。

この旅の「醍醐味のピーク」を展開させて、皆様いきなりご招待と言ったところか? 

これが今回私の旅計画の魂胆、出足から展開される最大の見所なのだ。

 いよいよドラマが始まる。私は「寒霞渓の景色をロープウエイから観望する」ことを、事前には一切口を噤んでいたことだ。

孫たちを実際に来て、見て、体で実感して欲しい!

 感動を!有難うだ。

タクシーは順調に寒霞渓観光ロードを走り出した。タクシー正面に拡がる緑の山々に交じる山桜が美しい。まだサクラに間に合ったのだ。

 これだこれだ。これなんだ!私は興奮のピーク手前だ。

タクシーから転々と変化する景色の背後に、何となく少年時代の記憶が蘇る、あの寒霞渓の山肌を思い出す気がした。私にはだんだんと、気合が入ってくるのを感じていた。

 暫く綴れ織りを進んだ後のタクシーは、山の中腹で停車した。

ロープウエイ登山口到着であった。

タクシードライバーは言っていた。「昨日ならロープウエイ運賃は半額だった」そうだ。

昨日はロープウエイ開通50周年記念日だそうだ。

 もういい、そんなことより一刻も早く乗り込むことだ。

ロープウエイは快適な乗り心地で、我々チーム依田のメンバーで独占した。しかも車掌も居らず、家族限定の占有となり、テンションは更にはマックスだった。

出発のベルが鳴り、ゴンドラが軽く揺れ出すと、興奮は更に増し絶叫の繰り返しだった。

私は孫たちの興奮する様子を「も有らじ」と満足げに眺めていた。

 私は大いに満足だった。来てよかった。ロープウエイは高度を増すたびに深山の渓谷が織り成すロケーションに一変した。緑の多彩なグラデーションの妙味、樹木の種別が奏でる自然のキャンパス、空気の鮮度までが変化する醍醐味を味わった。

しかも、なんだろう?鶯の鳴き声が・・・

信じられない穏やかな音色で励ましてくれた。

 空は青い、山は春霞に包まれて・・・優しい小豆島!まるで桃源郷とはこのことだ。

やがてゴンドラ到着。山頂には自然が満ち溢れ、八方を見渡す眺望は息するのを忘れるくらいにみんなを虜にした。

 数十分の滞在時間に孫たちは「かわらけ投げ」を試み、始めは的となる輪っかの位置が探せず、やたら谷合を目掛けて宙を舞っていた。孫たちは投げ方が定まらず、バランスを欠いた「かわらけ」投げで、フラフラと舞い飛ぶのを愉しんでいた。

でも遠くからそれを励ますかのように、鶯の遥かなるりが心地よく響き、高山の風景を一層極楽かのように色添えてくれた。

 時間制限のため、「調子渓のサル」に出会う計画も止む得ず諦めた旅となってしまったが、渓谷美をこのロープウエイで愉しむことに変えさせてもらうおう。

さて、孫らは帰りも往きの名カメラマン如く、ゴンドラの前方床のグラス板に貼り付くように、スマホ・iPadの設置の完備を怠りなく完了した。

 ゴンドラの揺れにも慣れて少々体が傾こうとも、互いの撮影には余念が無かった。

なかなかの腕前で、いい写真が撮れていたようだった。

 ところで、 天気予報によると明日は後半から雨が降り出すとの情報。

本日のメイン観光「寒霞渓」見学も無事に終えたことだし、そうだ時刻もまだ午後3時過ぎだ。宿に着く前に、もう一つ観光を明日に延ばさずできる方法は無いものかと、バス待ちの間に頭を巡らした。

 そうこうする内にバスが着いた。乗客は私たちだけだ。出発前の運転手さんに聞き取ることにした。「二十四の瞳の岬に行きたいのだけど?・・・」バスの連絡は可能か、どうか知りたかったのだ。

 私は何度か島のバスに乗る度に、運転手さんの接客態度が大阪・京都とは明らかに違って、いかにも親切で細かい対応だったことに気付いていたのだ。やはり予想したように外見は怖そうに見えたが、実はとても優しくて丁寧な応対で、入らぬ気遣いは必要なかった。

 バスの対応だけでなく、情報も豊富でこの先のオリーブ公園前から「渡し舟」が土庄に向かって出ていることまで知らせてもらった。その上に週2回の「渡し舟」休日まで調べ上げてくれ、本日は運航中とまで、教えてもらった。これなら、最短時間で到着可能だ。

 そこで急遽予定変更、渡し舟に乗ることに決めた。バスを降りると、既に着岸し出発しかけていた船を呼び留めて、大人500円・子ども半額を支払った。船頭さんには「電話連絡の無い客は、本来なら乗せない!」と、叱られたが「行き当たりばったりな計画で、誠に申し訳ありません。」無責任な私たちの旅を、どうぞお許しください。

 さすが渡り船には、覆いが無いので肌寒い、10分ほどの航路で直ぐに着いた。

さあ、二十四の瞳分校の見学を!と、焦っている私だが、孫たちは気に留めず「お腹がすいた」と分校前に建つ茶店のような土産店の前で立ち止まった。

「何か食べたい」と言い出した。私は頑として、「見学後にしよう」と言い張ったが、孫チームの方が気迫が鋭く、言い負かされた。

 この店では注文を聞きいた後に、下ごしらえを済ませた食材を揚げるサービスだから、時間のロスは計り知れないが、もはや無駄な抵抗だった。

 そこで、迷わず揚げパン(カレー)を注文した気冴に続いて世里花・私も加わり、速羽は焼き鳥を注文し合った。ただ「焼き鳥」を注文した末の速羽は、食に偏りが有り過ぎるのだが、「私、これが一番好き」と美味しそうに食べていた。

 孫たちは、口の上手い店のオーナーと話し込み、「どこから?」と尋ねられ「京都から」と機嫌よく答えていた。

 しかも、「おじちゃんと来た。」と個人情報を簡単にバラす始末。

「おじいちゃんと!」 

「それは、それは良かったね。 みんな姉妹?」

「従妹同士!」 

「それは、それは」と、商売上手な店のオーナー夫婦は盛り上げていた。

その結果、三人が三様に同じ餡入り「餅菓子の箱入り」を、私には内緒で夜食として購入していたものだからたまらない。その商品は手ごろな値段であり、私自身もお土産の筆頭候補の一つに挙げたものだった。孫たちはいつもこれだから、この先も大いに心配された。

 「ここの焼き鳥、メッチャ美味しかったです!ありがとうございました。」と末の速羽の退散する前の挨拶が、聞こえた。

 私には、こんな気前のいい、あいさつなど聞いたことが無い。

いやこれも父親(息子)の影響かと?

こんなことには、特に気を遣かう父の姿が眼に写るようだ。

以前の私ならいざ知らず、もはや現在の私は異なる意見だ。

「サービスに見合った感謝を」素直に表現する純粋さをモットーに生きている。

そうでなければ身が持たないような気がする。

 こんなことより「二十四の瞳」苗羽小分校の映画ロケ地跡の映画村観光に急がないと・・・いやはや映画村の中には、全てが完備されていた。驚いたことに昔の佇まいとは大違い、今や日本中はUSJ並のアミューズメントパーク形式が蔓延している。 

 「教育の原点」としてシンボルの聖地が、(強烈な表現となるのを許してもらえば)もはや辺鄙で素朴なこの地域までもが、商魂逞しい都市企業の汚濁地と化していた。

 でも、何十年ぶりかに「高峰秀子や佐田啓二」に逢えて、いささかの感動を得られた事は有難かった。孫たちには「二十四の瞳」の聖職の現場より、海水を引き入れた流れに飼育されたコブダイが、腹をヒックリり返してその体を海藻に横たえている姿に関心が奪われたようで、買った餌をさかんにバラ蒔いていた。

 ようやく、子どもたちにも、島の浜風の調べに馴染んで来たのか、いい雰囲気で戦後間もない教室の原型に触れたり、当時の生活の一部を思い浮かべながら、備え付けのノートを繰っていた。

 さあ後わずか、午後5時まで後10分足らずでの閉館だった。

初めからここにすれば、食べ物だって施設が整って、多くのショップやレストランも2軒もあったのに、残念・・・

あの前の土産店で、時間を奪われてしまったことに誠に悔やまれた。

 午後5時に追い出された。宿の「Y・H行き」の最終バス出発は17時50分だった。

バス停には、あの分校にあった小学生用の小さな椅子が、たった一つ置いてあった。

私はそれに腰を下ろした。寒さもそろそろ身に沁みて来た。しかし、さすが瀬戸内の海岸、入陽を迎える浜辺はなんとなもセンチメンタルな気配に包まれて悠久の時間となって来た。

今は私のスマホの背景となるショットを、退屈凌ぎに、気冴が収めてくれた。

 相変わらずスマホiPadに興じる孫の世里花・気冴の姿に、苦々しく感じ出した私は、やおら手帳を取り出し、夕陽が迫る浜辺の情景をボールペンで写生するポーズを執った。末の速羽がその状況の気配を読み取ってか、素直に私を真似て自分のノートに描き出した。

 沈みかける夕陽の入り江に、ようやくバスが到着した。

バスの行き先をしっかり確かめた後、安心して乗り込んでいった。

バスの中は、浜風も無くほんのりと暖かさを保っていた。暮れなずむ空に、静かに走り出すバスは島の生活を正しく運ぶように、数名ずつの老若男女を客として迎え、バス停毎に村人を入れ替えて発車していった。

 私たちはバスの最後部の窓越しから観る風景と、ゆっくりとした島民の様子を観察していると、快い眠りに襲われる気分となった。私には、3人の子どもを預かる大人の責任として宿に着くまでは「眠れまい」と、緊張が緩められなかった。

 さてバスは、まとも「小豆島オリーブ・ユースホステル前」と言う停車場で止まった。待ってましたとばかりに、みんなは眠さを払いのけ、いきり立つように降車した。


 



 そして、宿のオリーブ・ユースホステルに


 その夜7時を回り、ようやく目的の宿「小豆島オリーブ・ユースホステル」に到着した。

玄関を訪ねて、私は変な予感がした。違う、申し訳ないが予想が大きく外れてしまった。

 それは旅に出かける前に、私が孫たちに口にした誘い文句に「楽しいぞ!前に行った京都宇多野ユースホステルを覚えてるやろ?それと同じようなもので瀬戸内海の小豆島にも、ユースホステルがあるんや。そこに止まるんだ。楽しいぞ!」と誘ったのだ。

 そして、今オリーブ・ユースホステルに到着した。ちょっと様子が違うぞ!いやいや全然違うのだ。建物の劣化はまだしも、靴箱、玄関、これは昔に私が両親と海浜の民宿に滞在したことを彷彿とさせた。

 宇多野ユースホステルのように、オリーブの輝きは無いけれど、いかにも開放的で地中海を何となく側に感じられるような解放感は無く、大きく異なり・・・せめて、周りは芝生に囲まれ、その高台の立地には優しい潮風が微かにそよぎ・・・どこからともなくオレンジやオリーブの香りが漂うような清潔で白亜の建物のイメージをいっぱい、私なりに想像を膨らませていた。それを出発前に、孫たちにも大いに刷り込んでいたのだ。

少なくとも、インスタグラムからは推察できた。

 玄関のサンダルに足を突っ込み、宿泊する期待感への裏切りは、だんだんと拡がり絶頂点に向かうのだ。匂いの沁みつくような薄暗いクロークで店長に宿の説明を聞いた後、支払いを済ませて鍵を受け取り、明日の朝食の案内も知らされた。

見渡せば、ご当地の案内ガイドも親切とは言えず、土産物グッズの販売も期待できない。

 「そんなものは後で、ユースホステルでも買える」と、お土産を選ぶ孫たちを急がせた私だっただけに、孫の顔も見られずに、とぼとぼと先導されるがままに、きしむ階段を登り、2階の部屋に案内してもらった。

 いやはや、美しさまでは望まないが、木製の階段や廊下は最近の公立学校よりも古く、トイレの扉は少し傾きがあるほどだ。私は「落胆ぶり」を子どもたちには感じさせないように振舞っていたが、部屋に足を入れた途端テンションは更に急降下したのだ。

 部屋は畳敷きだった。

孫たちの楽しみは、部屋の2段ベッドで横たわり、枕元にあるコンセントにスマホ・iPadを繋いで、たっぷり充電しながら操作できる宿泊を夢見ていたのだ。

 私は何も孫たちに嘘をつくつもりなど無く、部屋にはベッドが完備であると、全く疑わなかった。今やPCのWi-Fiは完備は勿論、充電用コンセントの枕元設置は当然と考えていたのだ。また、私の信頼度を落とす結果になった。これは正直申し訳なかった。

 船やバスの中で、宿の2段ベッドの席には「誰が上に行き、誰が下になるか」と、さんざん決めるのに揉めていたことが、その重要関心事が泡と消え去ったのだ。

本当に申し訳ない。

 そうこう落ち込んでいたが、押し入れから布団を取り出して敷き始めたら、またもやなんだかんだと賑やかにテンションが上がりだした。

私が寝る「布団の位置」をどこにするるのかと、喧々諤々だった。

 こんなことに、あまり時間はさけない。

先ず、夕飯である。私たちは階下の食堂へ向かった。

セルフサービスが基本のルールだが、本日は少数の客であり時間も押して来たこともある。

 店長は、今度はシェフである。

鳥の唐揚げが大皿に野菜と盛ってあった。香の物の小皿と小さな器にシェフはオレンジか八朔を半切りにしたものを配りに来た。私たちにはこれがデザートなのか?サラダの延長なのか判断に困ったが、末の速羽はもう口に運んでいた。

 ユースホステルでの食事ルールは、もうみんな知っているはずなのに、ご飯も盛らず、味噌汁も注がず、いつもならこんな時、上の世里花は気を利かせてテキパキと水をみんなに注ぐ用意をしてくれるはずなのに、今日は動こうともしない。

 疲れたのか?気が利かぬみんなを尻目に、私は全てみんなの分を用意しかけた。

やがて誰彼と言わず、みんなも気付き出し自分で準備し始めた。

 さて、その後だ。ビックリするくらいの大きさの船盛に、お造りの魚がいっぱい盛られて出されたのには驚いた。堪らない。

それ程魚好きじゃない我々だ。見ただけで、みんな引いてしまっている。

 そりゃ鯛ぐらいは食べますよ。鯛の他にカワハギの馬面があったから、カワハギの刺身だろう。その小皿に肝(カワハギの肝:海のフォアグラらしい)の山盛りとワサビが入っていた。でもカワハギの肝と言っても珍味なのだが?子どもには・・・

他の白身魚の名は分からない。シェフは時間も時間だけに、もごもごと口ごもりの説明して立ち去ったが、よく聞き取れなかった。

 そこでだ。そんなにたくさんの生身のサカナ、ただでさえ食の少ない速羽、頼みの気冴も、年上の世里花も肉食派ときている。本当に一片れづつほどを口に運んだだけだった。

 しかも、慣れない地採りの野菜レタス、プチトマトの皮は固くて、彼女らはすべて残す始末だ。香の物としての昆布の佃煮も手付かずで、魚、野菜、ご飯も固く、ほとんどを残すことになった。私も一人でそんなに刺身ばかり食べられたものじゃない。

肝はたっぷりと醤油に溶いてみたが、多くの刺身を残すことになった。

 その後は、食堂の後部に卓球台があったので、お決まりの温泉卓球だ。

なんだか食後の気まずさを引く中での卓球となり、しかも孫たち同士の不真面目なプレーの連続を見ても飽が来て、早々と部屋へ舞い戻った。

 さて、気分も変えて風呂にも行くかと、一人男風呂に出かけた。

廊下で、もう一組の客の親子連れに合った。父親が忘れ物か何かで部屋に戻った所を、フロント前で私と会ったのだ。子どもは小学4年生だと言う。神戸から来たらしい。

住所を何度も言ってくれたが、どうも語尾の発音が消えて行く。聞き取れなかった。

 私は、明日のコースの検討のために案内ビラに眼を通しながら、インスタントコーヒーのセルフサービスを戴いた。小さなフロントの飾りや広告を見渡して、ご当地産の駄菓子「醤油せんべい」を買い求めた。

 さて、お風呂だがもう客は誰も居らず、一人でのんびり湯に浸かれたが、何しろ高温だったので長湯はできずに部屋に向かった。

 私が鍵を預かったままだったので、私に方が早く帰るはずなのに、部屋に戻ると、孫たちは既に居た。理由を聞くと、鍵をかけずに風呂に向かったと言う。

「おい、おい、おい、それは無い」と・・・


 さてさて、ここで一日の終わりとなる前に、「明日の予定」の相談と名を借りて、次のように反省会を持った。「私はあなたたちのおじいちゃんである」ことで、今日は言わなければならないことがあるのだ。と、決めていたことを実行した。

 「今日の夕飯の事だ。出されたものを残すのは仕方ない。」

「しかし、あの多くの刺身となった魚の命!をどう考えている。」

「サカナは食べてもらおうと、自分の命を人間に差し出した。」

「サカナの命を感謝して戴かないと魚に申し訳ない。命を無駄にするな!」と言った。

これには、深くうなづくところがあったようだ。

 もう一つだ。今回の課題「スマホ・iPad」の使用についてだった。

「せっかくの旅 毎日できることから離れて、ここでしかできないことをして欲しい。」

「そのためにここへ来たのだ。」

 即ち、「小豆島を『自分の五感』で感じて欲しい。それが願いだ。」と、重ねて述べた。


 どこまで伝わっただろうか? さあ、もう寝よう。

娘らの為に、早く寝たふりをしながら布団に入り無理に寝ついてしまった。

 さあ朝を迎えた。

宿との約束の朝食時間、8時30分を越えているではないか!しまった。

急いで!そのままでもよいから。とにかく食堂を待たすのは、失礼だ・・・

着の身着のままで歯を洗い、顔を洗って食堂に向かった。

さんざん発破をかけて急がせたが、着いたのは9時を過ぎてしまった。

さんざん厨房にお詫びして、席に着いた。

 「う〜ん」唸ってしまった。皿を見て、昨夜が再現する思いがした。

食欲が何故か減退する。

昨夜の再現のようで、期待するのが間違いかも知れないが、そりゃウインナーも有り、スクランブルエッグもあるんだけど、味噌汁・ご飯のスタイルは、夜食の続きのようだった。

 食べられるだけでも感謝すべきだが、子どもらの振る舞いが心配だ。

孫らの日頃の習慣もあるが、朝食には余り箸が進まない上に、魅力が欠けるようだった。

 不安は的中した。昨夜より残飯が増したのだ。

考えられない。固いレタス・トマトは分かるが、ウインナーはまずいからと言って残すのだ。だったら「スクランブルエッグはどうか?」と言えば、「ケチャップが無いから食べられない」と言い出した。

 なるほど宿の大きなテーブルのセンターには調味料ソースとして、青しそドレッシング・ポン酢、そして丸金醤油だけだった。しかもフルーツの八朔は酸っぱくて、手も付けない。私はすべての八朔を集めて、食べた残りの薄皮は夫々元の皿に戻し、スクランブルエッグも集めては、ほぼ口にした。

 私は昨日より腰を低くして、「子どもらは、朝はあまり食べない習慣なんで・・・」と早々に退散したのだ。

 立ち去る前に、思い出にユースホステル前での記念撮影を店長にお願いした。

そして、一夜の宿のお礼にと、みんなで感謝のお礼を述べた。





 二日目 オリーブ公園でキキとなる孫たち


 さんざん思案の挙句、二日目の予定を決めた。まず頭に浮かぶのは天候、そして潮の満ち干だった。天候は優先事項第一だ。旅の出発10日前から予想してきたことだ。幸い午後2時頃までは大丈夫らしい。そして次に潮の干潮時刻だ。

 これには「エンジェルロード」が、木冴の修学旅行コースに組まれていたらしい。それはたかだか、一時代前なら日本旅行協会推奨の「恋人たちのメッカ」と称して、幸せな結婚序曲となる観光戦略だろう・・・早く言えば、「日本版モンサンミッシェル」の亜流であろう?


 ほんの小さな岬には、浜の砂からなる突堤がある。そのわずか向こう岸に見えるとっても小さな島が、海に隔たれて続いている。潮が干くことで陸が海から浮き上がり、離れ島と繋がるのだるのだ。

 別段、行くことには反論は無いのだが、これには気冴が乗り気な故に外せなかった。

ただ、潮の時間に合わせることが難題だった。これが全てのネックだった。

 「何、本日の干き潮が午後1時55分」困るなあ!こんないい加減な時刻は、一日を真っ二つに切り、しかも夕刻の早めに、京都へ帰宅する時間に大きく関係するのに。

新幹線に乗るか、それとも在来線か?フェリーの乗船時間もある。しかも家族は「夕飯を合流し、一緒にすれば」と、支出の削減まで心配してくれていたから、大変な難関ばかりを抱える作戦となっていた。

 仕方なく実行する以外に他は無いと、覚悟しての出発だった。

我々旅行客は、またとぼとぼと、朝のまだ鮮やかな晴れ間が出ない瀬戸内の海を、横目に見ながら到着まで徒歩15分の距離に向かった。国道沿いでは、所々で大きなダンプから砕かれた一抱えくらいの岩石が、大量に海岸へ投下されていた。

 少し肌寒い朝のスタートだった。

国道に掛かる看板の広告を眺めながら、しばらく歩く間に昨日の「渡り船」乗船の港に着いた。なんと、そこがオリーブ公園の登り口になると分かった。

そう言うことか、こうとなれば何となく、心も弾み登り道も全く気にならなくなった。

驚いたことに気の早い台湾か、中国の観光客は既に観光を終えたようで、向こうから丘を下って来るのだった。

 公園の入口が近づくと、あちこちにサクラがちょうど満開であった。

全体が大きなテーマパークとなるオリーブ公園だが、入り口近くにも小さなカワイイ公園が設置されているのを眼に止めた。

 孫たちはなぜか、目的地を目前にして、もうそこを離れようとしなかった。

「ちょっと幼稚過ぎないかい?その滑り台はもっと小さなお子様用だぞ。」

私はひと先ず、サクラを通り抜けてテーマパークの本館に辿り着きたいのだが・・・

まあイイか、もう目と鼻の先だから、でも孫たちのペースは読めない。

いつまでも、いつまでも滑り台やお子ちゃま用のアスレチックを繰り返しているのだ。

 「干き潮」までは、まだまだ時間はたっぷりあることだから・・・と諦めかけた私は、なんとなく、別の中国の若者たちを眼にした。サクラの木の下で、笑いながら何度も何度も位置を少しずつ変えてみたり、メンバーを変えてはスマホに写真を収めていた集団があった。よく観察すると一人の女性が、何回もポーズを変えて写真を撮ることに凝っていた。しかも竹箒を股に挟んでいるではないか?

 ん、なぜ?大の大人が?・・・

そうだ!ここは宮崎駿の「魔女の宅急便?」そうか、何度もパンフレットで見たあの瀬戸内に架かるお伽噺のような「風車」、魔女の宅急便のモデルとなったその名所なのか?

それにしても宮崎駿さんは中国人の若者までを虜にして、しかも若い男性までが箒に跨って写真に収めるなんて・・・

そりゃそうでしょう!やるでしょうね!

ここは魔女の宅急便の「聖地」なんだから・・・

私も逆だったら、たぶん箒に跨っていたかも知れない。

 そうとなれば、いつまでもこんな所で油を売っていられない。ダラケタ孫たちを引き起こして、ネジを巻いた。ここは「魔女の宅急便の聖地」であることを、そしてあの伝説の「風車」を早く眼にしなければと、かせた。すぐにみんなで記念館に立ち寄り、まだ残っていた土産品の買い物を済ませたり、孫たちはちゃっかりと自分へのお土産探しにも余念がなかった。しかも手際よくどこからか?竹箒も借りて来ていた。

 箒を手にした孫たちは、私を置いてどんどんと、遥かに見える瀬戸内海に臨んだ風車を目指して丘を下って行った。

 「風車」には老若男女、さらに外国人までもが沢山集まっていた。夫々が「ホウキ」を持って跨っている姿には、いかにも滑稽でユーモラスだった。

でもやっぱり小さな少女が竹箒にまたがる姿が、一番キキにも似て可愛らしかった。

 孫も夫々が箒に跨り、互いに自撮りと録画を交代し撮り合っていた。

「風車」の周りは赤土が敷かれていたので、砂煙が激しい。その上、とにかく高く跳ぼうとする速羽、バランスよく力強い気冴の跳び、なぜか可愛いのに、お掃除おばさんのようなイメージがだぶる世里花のポーズで入れ替わり立ち替わり跳びまくる。

 笑い合い、ふざけ合いとんでもない「魔女の宅急便」だった。跳び過ぎた結果、周りは埃だらけ、置いて合った私のリックサックの縁は、砂で汚れてもう白くなっていたほどだ。

 箒を返した道すがら、すれ違った若い女性たちのグループが箒を股にしたままに散歩する姿を、笑いながら見送った後に、振り返って眼にしたその後ろ姿が、なんともエロティックで魅力的なことに見惚れてしまった。

 そうこうする内に時刻は経過した。私たちは荷物を纏めて海辺に降りて行った。オリーブの原生林という、水はけの良さそうなブドウ園に似た農園を通り抜けた。

また、途中には著名な彫刻家ノグチイサム氏の作品に依る小さな公園があった。

 先客の家族連れがいた。私のような年輩の老夫人が一人と、その娘が母親であるらしく、小学校低学年の姉と弟という子どもらがいた。見る処、老婦人はもうそろそろ時間を持て余し気味のようだったが、孫らはまだ飽き足らない様子で現代的な太いローソクか、笠の無い大きなキノコのような胴体の内側に備えられ、目隠しされてる滑り台に何度も滑り降りていたところだった。

 ところが世里花、気冴、速羽の我が孫たちの勢いで、それに向かうと無言のままに「先着の客人」を、滑り台から追い出した。先客の幼い姉弟は、ローソク横に配置されたヘチマ型の鉄棒オブジェに移動させられような形になってしまったが、2人で上に登りまた楽しんでる様子が窺えたので、その老婦人に対しての心配も解消できた。

 さて、家の3人の孫は、またもや滑り台の虜となった。上から下へ、3人が三様同じことをして何度も挑むのだ。私は帰ってからでも遊べるような遊びに、大いに弱り果てた。

でもスマホからは離れているからね、良しとせねばなるまいのか・・・

 とは言うものの、時間が気になる、「エンジェルロード」に向かうバスの時刻も確認したい。なんと言っても未知の地、時刻も気になるが、先ずはバス停の姿を確認したい。すぐ眼下に、レストランとお土産ショップが隣接しているのが眼に入った。しかもその下には大きなパーキングが広がっている。その横には国道が走り、バスもそこへ着くはずだ。

 「もう、スットプ!」だと、いつまでも夢中になって遊び呆ける孫たちに、しびれを切らして「おじいちゃんは、下のトイレへ先に行く!」と言い残してそこを去った。

 孫たちは、間違えずに直ぐに追いつくだろうと、不安ながらも先発したのだった。

孫たちに不満は無いのだが、どうしても行動の切り替えに時間がかかりすぎる。

いつも「ちょっと待って!」だ。その「ちょっと」に時間がかかりすぎるのだ。

 私は、道なりの坂を下りかけると、向こうから年輩者とは言え私よりはるかに若いんだろう?驚くには着物姿で、あご髭をたっぷり蓄えたた下駄ばきの初老の紳士が、一人で話しかけながら、登って来た。また「この種の御仁か」と道を広く開けて、暫し観察すれば片手にスマホをハンディタイプのスタンドにセットさせたままに、個人スタジオを開局していた。巧みなアナウンスで、「これから、では参ります。」と状況報告を発信していた。いろんな人がいるね。日本の今日には!

 私は土産売り場を通り越して、先ずはトイレに向かった。

一息ついて、ショップの全館を見渡した。窓からはゆっくりと瀬戸内海が見渡せる見事なロケーションだ。こちらは、先に私らが登って来た正面とは逆になる大駐車場側となり、観光バスも十分に収まる広さがあった。土産物の販売コーナーの後ろにはレストランも備わり、窓の外のバルコニーでも食事が楽しめるようになっていた。その建物の後ろ隣には、麺類を始め丼物を用意した純和風のレストランが、花に囲まれてあった。

 ン?、さて?どうしてだ。

もう孫たちも着いてはおかしくない頃だ。何をしているのか?

やっぱり置いて行動をすることが、無茶だったのか?

特に旅先では?・・・少し不安が拡がった。

小さな不安が少しづつ拡がり、やがて大きな不安となって行った。大丈夫か??

 私はタブーを破って、移動し始めた。動くことは危険だと知りながら移動したのだ。

「夫々が勝手に行動し出すと出会うのがより難しくなる」事は十分に理解していたが、動かずにはいられなかった。じっと耐えることに、不安感で爆発しそうだった。

 まさか?出発前に彼女らから目を離すことなど絶対にしないようにと、何度も妻から厳しく言われ続けていたことだ。旅先だから特にね!

しかも娘からも、「子どもらから眼を離したら、絶対にあかん!」と。

マズイ、どうしよう?娘や息子たちに申し開きが立た無い。

 困った、弱った私は当然降りてくるはずの広い道を辿りながら、とうとう元のノグチさんの公園にまで着いてしまった。そこは既にもぬけの殻となり、若い女性たちが年甲斐も無くはしゃいでいた。どうしよう。孫たちの携帯には、チップが嵌められず、連絡が取り合えないのだ。

 私は、焦燥しきっていた。下げていた頭を起し、思い直してふと海辺へ向けて見た。

すると、なんと3つの人影が見えた。良かった!しかも3人だ。孫たちだろうか?

あの行動の仕草はきっと?私は走り出し、大きな声で呼びかけた。

人間違いではなく、ちゃんと我が孫たちでした。良かった。

叱りあげることよりも、居てくれたことへの感謝の気持ちが込み上げてきた。嬉しかった。

 私の憔悴した様子に比べ、まったく何事もなったような孫娘たちの姿を確かめ、力なく笑うしかなかったのだ。そこで私が言えることは、「心配かけたらあかん!」ではなく、「心配したぞ!」と考えて言い換えた。

 とにかく良かった。もし会えなければ・・・考えただけでゾオッとする。

さあバスの時刻も調べ上げた。雨も降らずにオリーブ公園をしかっりと愉しめた。

すると急に腹が減り始めた。何か残ったおやつでも無いか?と、時刻も正午を過ぎていた。

 「そうだお前たち!昨夜の夜食のオリーブ餅3x4の12個あったろう?みんな食べてしまったのか?」そこで、食の劣る末の速羽さんなら、まだいくつか残っているはずと考えて尋ねた。

 早速リュックの中をを調べるようにと伝えると、中からお菓子の箱を引っ張り出そうとする速羽の手つきを見ていて心配した。破れた包装紙に包まれた菓子箱には、餅同士がくっつかないように、振り掛けられた顆粒状の粉砂糖が、箱からあふれ出ているのが見えた。「もういい、おじちゃんが取り出すから」とリュックを預かった。

 彼女のリュックの中が、すっかり、粉砂糖まみれになってしまうことが分かっていたからだ。上の気冴、世里花にしてもほぼ同様で、「どうしてみんな持ち物のナイロン袋に入れない」砂糖がれても大丈夫なようにパキングしないのか?

そんなことが考えられないって、まだまだ子どもだ。

 私は、速羽に4色の味がする餅のうち「どれが、要らないの?」と尋ねた。

すると、「クルミ!」と言った。それらはどれも一口サイズの大きさ、餅の中に少しの餡が入っていた。

お腹が減っていたので2・3個もらって食べたが、まだ柔らかくて意外と美味しかった。

あなたたちのお土産の選択は、間違ってはいませんでした。否定して済みません。





  遥かなる「エンジェルロード」へ



 やがてバスに乗り込み、目指すは一路「エンジェルロード」へまっしぐらに向かった。停留場に降り立った。

 小島が陸続きになる前に、少しお腹に入れないと「うどんか?」「ラーメンなんかは?」というと、いつもあまり乗ってこない年長の世里花も「ラーメンね!」と、笑顔で応えてくれた。

 「決まりだ。」バスの停車前から、停留場の直ぐ近くに「小豆島ラーメン」の赤い大きな看板が目に入っていた。一体どんなラーメンなのか?と気をもんでいたが、残念なことに、本日は休業。

 がっかりしたが、潮の干潮を迎えるまでには、なんとか昼食を済まさねばならないと焦りだした。しかも小雨も降り出して来たのだ。

 仕方なく浜に足を向けしばらく歩くと、目的の「エンジェルロード」は、もう直ぐ目の前に有ることが確認できた。でも、ちょっとイメージが違うな?

 海岸の端から少し離れたところに、ロマンチックそうでは無さそうな小さな島があった。そこにはぼそぼそと、こんもりと茂った森となっているのが見えた。そうだろうやっぱり、何が「モンサンミッシェル?を真似た」島など(私一人の想像だったが・・・)とは、推薦した気冴には申し訳ないが、譬え城は無いにしても「エンジェルロード」と称するには、かなりスケールが小さいのでは?

 「13時55分」の引き潮までには、まだ時間は間に合いそうだ。

カレー屋の看板を探し当て寄ってみたが、その店は既に絶たんでいた。そこで、やっぱり「うどんにしよう」と気を取り戻した。幸いこの地域にしては風格ある東屋風の老舗の佇まいを見つけた。その店の名物は「素?」だったが構わない、店の開店時間は午後二時まで営業との表示なのに、既に遅しと閉じられていた。

 これはお昼を諦らめろということか?しぶしぶ「エンジェルロード」に向かう途中に、土産物屋に出くわしたので「お菓子じゃなくて、パン類などは無いですか?」と尋ねた。

「うちの店には、お菓子以外はちょっと・・・」と、気の毒そうに応対をしてくれた店員さんに「実はうどん屋を探したんだけど、この辺りには無くて!」と答えた。すると、反対方向の国道沿いに「手打ちうどん」があると知り、私たちは近道をして走り出した。

 良かった。願っても無かったが、ここは小豆島。立派な香川県の内で有る。「手打ちうどん」が有ってなんの不思議もないのだ!

急いで店の前に辿り着いた。駐車場も完備された結構大きな店じゃないか?

 私たちは先ずテーブルを確保し、並んで席の順番を取り注文を言った。お腹もすいたところだ。速羽に世里花は「わかめうどん」と、「きつねうどん」の「中」を、私と気冴はお決まりの釜揚げうどんの「中」、いつものトッピング磯部揚げが二つ、気冴はその上コロッケと更におイモの天ぷらまで食べられると言い張るのだ。それはいくら食べらるとしても、お年頃の娘故、止めさせた。

速羽と世里花の姉妹は「もう無理!と」半分ほどのうどんを残していたが、気冴は見事に食べ終えた。

 さあ昼食も終えて、「エンジェルロード」に向かうのだった。

小雨混じり、傘をさしての出発だ。その途中には小綺麗なリゾート風の雰囲気溢れる小豆島観光ホテルがあった。高い玄関ロビーを抜け、そこでちゃっかりトイレも済ませた。

 すかさず気冴は、「昨日、ここに泊れば良かったやん!」と言いのけた。

「こちらも予算の都合が有るのだ!」と、言い返してやりたいのもやまやまだが、止めておいた。でもこのホテルに寄ったことで、その裏からは直接海岸続きとなって、砂浜に沿って行くことで「エンジェルロード」まで繋がっていた。

 雨は小降りだった。潮はほとんど干いて、砂地が浮かび上り島まで陸続きとなった。

これには、子ども達にも気に入ってくれたようだった。

 どんどん歩み、まだ完全に潮が引ききらない道の真ん中は、海水が寄せては返してるんだ所がまだまだ残っていた。子どもらの叫び声が「キャーッ、海水が靴に沁みて来た!」と、やたら言い合っていた。

 気冴は世里花に「世里ちゃん、結婚する時、またここに来よか?」「うん、私も来る!」となんと愛らしい会話だこと。

島を渡りながら私は「連れて来て良かった」と大いに思った。

 島に渡り着くと、既にもう一組のカップルの2人が、ホタテ貝のような(小型だが、ホタテ貝だ。恐らくどこからか仕入れて来た物だろう)形をした貝殻に、結婚の「誓いの言葉」を書き記し、島に生えてる松に似た木の枝に、吊るしていのだった。二人は、沢山ぶら下げられた貝と貝の間を見つけて、糸で括り付けていた。

 なんとも、こういう光景は何度見ても飽きないものだ。

さて子どもらは、如何に受け留めたのか・・・この光景は多分気付いていただろう。

 さあ、島に渡ってしまえばここには用が無く、「早く引き返さねば」と、帰りのフェリー乗船の時間が気になりだした。

 と言うのには、この「エンジェルロード」観光には、根本的に頭の痛い話があったのだ。

「エンジェルロード」の地理的な位置は土庄に近く、土庄は小豆島の東の端、京都へ帰る私たちには、逆となる西端の福田港まで戻らねばならない。しかもバスの回数は午後になれば極端に少なく、目標のバスは早くて夕方の5時を回らねば来ないらしい。夕刻に京都での夕食予定には所詮無理な話で、早くから諦めのメールを配信しておいたばかりだ。

 さて、帰りのバス乗車の件には、実に弱ってしまった。

「よし、タクシーだ。」全コースまでとはいかないが、バス路線が交差する大きな途中での中継地まで、ひと先ず行って見ることにした。

それが利口だ。ところが肝心のタクシーが全く走っていない。

 国道にいつまで突っ立ていても、タクシーは一向にまらない。私はひらめいた。

ホテルのフロントを利用してタクシーを呼んでもらうのが最適だと考えた。

 でも、「私らはここでの客ではない」けど?でもそんな場合か?

簡単に事情を説明すると、フロントは心得たもので「小豆島の観光者はすべてお客様」の精神、直ぐにタクシー会社に連絡を取ってくれた。しばらく時間はかかるそうだが、そんなことは一向に構わない。「迎えにさえ来て戴ければ。」

 くして、一台のタクシーが来た。私たちは勇んでホテルの玄関に向かうと、「えっつ!」タクシードライバーは若い女性だった。私は改めて助手席に座り込み、自然に座席手前のガラスに張り付けられた運転手の証明写真を見詰めた。「なかなかの美人じゃないか?」

 セクシャルハラスメントにならないように、行先を告げる前に「美人ですね。」と、思わず口走った。

高年齢な私だが、なかなかやるではないか?野暮に年を取ってるだけではない。

 突然の予期せぬ言葉に、ドライバーの明るい返事で「有難うございます。」を皮切りに、タクシーの乗車気分は一転し、まるで快適なドライブに変化していった。雨混じりの帰り道の行程だったが、旅も終焉のセンチな気分も去り、憂さも晴れたようで心地よかった。もはや私には、後部座席の孫たちの存在さえ忘れ去っていた。

 だが、愉しんでばかりは居られない。

「そうこうしては、おれぬ」夜更け前には是非とも京都に着く、算段をせねばならないのだ。「少しでも早いめに乗船がしたい」と、希望を伝えた。さすがご当地のプロ、フェリーとの連絡時刻も意識下に、その余念は無い。初めに決めたバス路線の拠点となる停留場に着くが速いか、私は素早くバス停の時刻表を覗き込んで確認した。

 思った通り不安は的中してしまった。やっぱり、ここでも連絡がつかない。

「万事休す」だと。そうなれば、私はこれしかない。

「最終地点福田港まで・・・」既にタクシーの中で最悪の場合には?と想定していた。

 ならば一刻の猶予も惜しい。タクシー代が1万円を超えるらしいが仕方ない。

予定外の支出が増えるが、もうここまで来たならば「少しでも前へ」進みたい。

「美人だ」とスタートに伝えた女性ドライバーも、その時からたいへん機嫌よく親切に運転して貰っているのだから、この和やかな気分のまま港まで連れて行って欲しかった。

 それを一番望んでいたのは、この私だったかも知れない。

その上、フェリーの出発時刻も調べて頂き、後30分少々の道のりを残すのみだ。

上手く行けば出航時刻までに、ギリギリ到着できる。もし運悪く叶わなければ、またもや港で1時間ばかりの間を、待たねばならない羽目になるのだ。

それはだけは勘弁してほしい。


 雨も止み、タクシーは快適に山道を抜けた。まだ所々に山桜も満開で綺麗に咲いていた。海沿いの山肌には目を楽しませてくれる、ピンク色というよりパープルに近い赤紫色のヤマツツジが、本州と同じような色合いで雑木林の中から挨拶をしてくれた。

 暫く行くと山道で、突然急にいくつもの大型トラックがすれ違った。不思議がる私たちを尻目に、落ち着いたドライバーさんのフォローががあった。あのトラックらは「今、フェリーが着港した」という証拠で、「到着したばかりのフェリーから降りて来たトラックなんだ」と、説明してもらった。

と言いうことは、先ほどから海が見え隠れしていたと言ことは、もう既に、福田港近くに来ているということか?

 そうなんだ。ほんの少しの山合いのドライブが終わると、間もなく福田港だったのだ。

危うく間に合った!

しかも、乗船場の受付嬢は、事務所からタクシーが乗り込んで来るのをを確認してくれていたようで、外で待ち受けてくれた。

 慣れた調子で「切符はお持ちですか?」と愛想よく言う。

私は乗船券の確認までは、していなかったので、慌てたが「往きに、往復乗船券を購入していた」ことを、いつも忘れがち頭が、意外と直ぐに反応してくれた。

 慌てて船に乗り込んでしまった後、親切にしてもらった運転手さんに、十分なお礼を告げていなかったことに深く反省した。つい速く支払いを済ませ、急いで荷物を取り出すことや、孫の乗船の確認にばかり気を取らてしまったのだ。

 

  乗船して、やっとの思いで客席のソファーに腰を沈めた。

 その時、真っ先に思い浮かぶのは、ただ一つ口惜しいことに、

 「いい旅ができました。」と格好よく言えば良かったのに、

 非常に残念だった。 


 フェリーは小豆島を離れて行った。

さあ暫くは、安心な船旅。焦ることなく身を委ねることにした。


 いや、いい旅だったな・・・私は、心から思えた。

孫たちは、いつものように畳の客室で、スマホ・iPadの操作に没頭する様子だったが、

少し飽いて来た様子も見られた。

 フェリーの帰りの航路には、

少し波が有り「酔ったような気分になった」と、孫は訴えていた。


 キャビン前方に拡がる雨上がりの瀬戸内の海原。

灰色に曇ってはいたが、今日も、やはり「のたり、のたりの」静かな海だった。

春の日に、小豆島で孫たちと大いにげた。なんと屈託のない日々だったことか?


 一方、孫たちはどんな思いを一人ひとりが、抱いてくれたのか?

気にはなることだが、もはや質問攻めは野暮な事、私の孫たちだ。

きっと何かを感じてくれた事だろう。

 本当に良かった。

こんな機会が持てたことをみんなに感謝する。有難う。

送り出してくれた家族にも感謝だ。

貴方たちが居て旅に出られることに、そしてまた帰れることに。有難う。


 まだまだ、京都到着までの旅路には一波乱あったが、ここでひとまず完結としたい。


                           2023・4・17 



 

幼女から少女に

成長した貴方たちへ、少し距離を感じたこの頃

何を考え何をつたえるのか、

迷うことが多くなった。

でも、やっぱり旅は裏切らない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ