チート無双は便所のうんこノヴェル
小説に読むのに主体がある。
じっくり腰を据えて読むなら主体は作品であろうが、そうでないなら主体は他に移る。
前も書いたがラーメン屋で注文したラーメンが来るのを待つあいだに漫画を読む。その時の主体は漫画でも読者でもなくラーメンである。
この場合主体はラーメンにあるので、漫画が面白くてはダメでラーメンが来た途端忘れてしまうつまらない漫画が正しい。
それも利き酒の時に水を含んで舌をリセットするように、気持ちをリセットさせてくれるような水にも似たつまらなさが望ましい。
ではカップラーメンにお湯を注いで待つ間に読む漫画なり小説の主体もまたラーメンだろうか?
この場合の主体はラーメンというより三分間である。
なので、この場合読むものは内容がどうこうより三分で読み終わるかどうかが重要になる。
いや二分だ、三分半が至高、いやいや五分だ、と人によって色々だろうが基本は三分である。
いずれの場合も読者は主体になりえない。
どんなに熱心に読んでも内容は一字一句変わらないのだから、当然だ。
読書は主体的な行為だけど、それを行う読者は決して主体にはならないのだ。
読者が主体になろうと思ったらセンサーで視線を追い、AIがどの語句に反応したか判断し、それによってストーリーを変化させていくような小説が必要になる。
この場合の主体はAIの思考エンジンか読者かという問題はあるが、通常の小説よりは主体的に関われることは間違いない。
センサーもAIも小説も既にある技術だが、まだ誰も組み合わせてはいないようだ。
ただそれらが組合わさり読み手によって変化する小説が登場した場合、今以上に似たような小説が溢れかえるだろう。それどころかゲームのように攻略サイトを見ながら、望むエンディングを読むための読み方になるだろう。
横道にそれるがBLの違和感忌避感は男同士の恋愛によるものではなく、男の形を使って「私」が主体とならない作品世界に「私」を挿入する行為によると思える。
また読者が感想でこんな展開を望むもしくはこの展開には失望したと書き込むのは、決して読者が主体となりえない作品世界になんとかして「私」を介在させようとする行為に見える。
このように余り意識されていないが、小説を読むときの主体がどこにあるかは非常に重要である。
じっくり腰を据えて読んで主体が作品にあるときはいいが、そうでない時は主体に合った内容を小説は要求される。
トイレに本棚をこしらえ、いや本棚まではいかなくてもトイレで小説を読む時の主体はもちろんうんこである。
また小説を読めるくらいだから読者が便秘なのもまた明白である。
この場合読むものが哲学であってはいけない。した後も実存的うんこが残っているような気になるから。
また思考実験系でもいけない。うんこが半々の確率で流れず、流してた後に事象を観測して確定させるまでうんこが流れた状態と流れない状態が量子的に混在して存在するシュレディンガーのうんこなど非常に嫌なものである。
この文脈に立つとチート無双系はまさしくトイレで小説を読む便秘読者のためのものだとわかる。
便秘との戦いに多くの思考リソースを割かれ、余ったリソースで読んでいるのだからあまり難しいテーマを展開してはいけない。
読者が現在進行で便秘と苦闘しているので、主人公は無双しなければならない。決して苦戦するとかあってはならない。
詰まる、留まる、停滞するは禁句なので、主人公はどこまでも限界なくなめらかに成長していかねばならない。絶対に詰まってはいけない。
主人公は悩んではいけない。読者の方が深刻で切羽詰まった苦悩に直面しているので、主人公のぺらぺらな悩みなどいらない。
ストーリーはワンパターンでなくてはならない。便秘との戦いは毎日のことなので、ストーリーも定型でなくてはならない。もし変化に富んだストーリーを書いたとして、読者がそれに触発されて今日はズボンもパンツも脱がずに踏ん張ってみよう、そしてその日に限って出てしまったら作者はその痛ましい惨事にどう責任をとるのか? 失われた読者の尊厳をどう回復させるのか?
安全のためにストーリーはワンパターンでなくてはならない。
必然性があってはならない。
主人公の強さやヒロインと恋仲になるのに必然性があると、便秘の解消にも必然性が必要とされる。それはリアルチート(浣腸や下剤)の使用を予感させるので、主人公は理由なく強く、理由なくモテなくてはならない。ストーリーや設定でどうしても必然性が要求されたとしても、取って付けたような薄弱なものが望まれる。
主人公は無双しなければならないが、雑に無双してはいけない。それは切れ痔やイボ痔を連想させる。
あくまでもどこまでも滑らかに。
こうして書くとチート無双が便秘に苦しむ読者のために的確にデザインされていることがわかる。
誰が書き始めたか知らないし、作者は「自分も便秘なんで自分がトイレで読みたい小説を書いただけですよ」とでも言うのだろうが、まさしく天才である。
そればかりか便器に座る時と場所は違えど、ともに便秘と戦う同志への思いやりに溢れている。
もちろんチート無双に対する批判批評があるのもわかる。
だがそれは便秘などしたことない快便派によるものなのだ。
常にすっきりうんこではチート無双の面白さはわからない。
俺も快便派であるので、今日までチート無双の意味がわからなかった。
不明を恥じるばかりである。
快便派も食生活や環境の変化で便秘派にいつ転向するかも知れぬのだから、安易な批判をしてはいけない。
批判するならチート無双を越える便秘テンプレートを提示せねば、便秘派も納得しないだろう。
このように小説を読むときの主体どこにあるかは重要なのだ。
読書の主体がうんこにある時は、小説もうんこであらねばならぬのだ。
うんこ。




