僕が感想を彼らに送る理由
僕が書いたのではない
「僕が」書いたのだ。
私が殺したのではない
「私が」殺したのだ。
彼女が死んだのではない
「彼女が」死んだのだ。
彼が発見したのではない。
「彼が」発見したのだ。
僕の狂想曲は、いつものように狂い咲く、
道端の鬱陶しい薔薇のように陰鬱とさせた。
植物に疎い僕は、
道端の雑草でさえも、「薔薇」と評する。
「僕」は何にでもなれる、
僕は制限されているが、
そんな定義を誰かがつけた気がするが、
定規を計る物でもない、
計るとすれば定義、
且つ、目の前の僕ではなく、
「僕」を計るべきだろう。
あれ、僕は「人」を殺したのか?
人を「殺した」のか?
「分からない」
という、「文学」とは常に人の「狂わせる」毒だ。
あるとすれば、この塩でさえも、
「僕」というのは「毒」に換えてしまう。
この音楽がなり続ける限り、
「僕」というのを僕が作品に封じ込める。
でなければ、それが「現実」を本当の現実に
換えてしまえかねないからだ。
狂気と芸術、いつだって、バランスというものは
ないことに我が命は首を吊りかけていると
「僕」は呼んでいる。
音楽が僕に筆を取らせたのであるから、
本当の「僕」は僕ではない!
という結論に至る。




