トイレで冷静になるのは今じゃない
後ろに付いてくる結月を気にせずにトイレに向かう。
「用を足した後なんだけど、拭くときはお尻に向かって拭いた方が衛生的だよ」
背後霊のように結月は助言をしてくる。
普通の声量で聞こえる程度の距離は開けている辺りに僕への配慮を感じることができた。
ここで結月と会話をしていては尿意が限界に達しそうなので気にせずにトイレへと入る。
完全に入りきる前に結月の方を見てみる。足音を立てずに距離を詰めてきており、B級映画さながらの安っぽい恐怖演出に少しだけ怖くなってしまった。
トイレは普通にトイレだ。
この語彙力は僕自身でもいかがなものか、と思うがトイレはトイレ以上でもトイレ以下でも無い。
「スパッツ脱ぐか」
思わず独り言が出てしまう。
変な汗のせいで蒸れたスパッツを潔く脱いで便座に座る。
結月から借りた漫画にはトイレで罪悪感が――という展開が多かったが、僕はイマイチその感情はわき上がってこなかった。
むしろ緊張して排尿できない。
今思い返してみれば、女体化してから一人でいるのは現在が初めてだったことを思い出す。
一人の空間で便座に座ってそんなことを考えていると、頭が冴えてきた。が、頭が冴えることは決して良い方にばかり転がるとは限らない。
事実、素朴な疑問としてどこから出てくるのかと言うことが気になってしまった。
これでは月曜日に病院に行ったときにするであろう尿検査が大惨事になるのではないか、と無用な心配事すらも頭に過ぎってしまう。
出るところがわからないとなると、スポーツ選手がやるドーピング検査のように見られながら排尿しなければならないのではなかろうか。
ならば今、出る所を確認するためにも自分の股間を見るべきだろう。
脳内会議で出た議題を自己完結させて目線を下げる。
「――んッ」
ほんの一瞬。
それこそ刹那的にだけ見た。
だがそれでも刺激が強く、声にならない声を上げて目線を再び扉へ戻す。
ぼんやりの眺める分には耐性が付いたと信じたいが、いざ凝視するとなるとまだ気恥ずかしい。
詰まるところ、銭湯に行ったときに稀に出会す、父と娘を見るような感覚なら大丈夫なのだ。
ただ、本当に至極稀にいる男風呂チャレンジとでも称して意図的に確固たる下心を持って、一人で入りに来ている女の子がいたときくらいの目線の困りようなのだ。
わかりにくい例えかもしれないが、当時中学生一年生の僕にとっては、この出来事は一大事だったのだ。
だが、何時まで経っても女体化した自分の身体すらまともに見られないとなると今後、男に戻れなかったときのことを考えると大変なことは火を見るより明らかだ。
なのでここは男らしく覚悟を決める。
再び目線を下げて股を見る。
一人称視点でこの角度で今の状態を見れるのは女子しかいないのだと思うと、今更だが好奇心が押し寄せてくる。
だが依然として緊張は解れておらず、尿意はあるが排泄までのプロセスに至れずにいる。
「お、落ち着こう。深呼吸、深呼吸」
独り言を言いながら意識して呼吸をする。
口では深呼吸と言っているのだが、実際しているのは浅くて速い呼吸だった。
自分の意識が排尿に向かえば向かうほど心臓の高鳴りは早まっていく。
「――んッ」
尿意が自分の意識では我慢できなくなってくると、心拍数は更に早まり心臓が喉から飛び出してしまいそうだ。
脚を広げて、迫ってくる排尿感を素直に受け入れる。
「あ、やべ」
少しだけ飛び散ってしまい慌てて股を閉じる。
余程溜まっていたのか勢いが強かった。
だが結局、またを閉じてしまったのでどこから出ているのかはわからないままだった。
排尿を終えたのと同時に僕の心拍数も安定してきた。冷静になったためか今になって罪悪感を感じる。
トイレに入る前に結月が拭くときはお尻に向かって拭くようにと言っていたことを思い出したので言うとおりにする。
男子でも少数派であるが排尿後にトイレットペーパーで残尿を拭き取る人もいる。僕は拭かない派だったので今回が初めてとなる。
男子禁制の女性にしかわかり得ない行動に気恥ずかしくなってしまう。
しかしここで素朴な疑問が僕の頭を過ぎってしまった。
潮風家のトイレは洋式でウォシュレットが付いているのだが、ボタンに「おしり」と「やわらか」があるがもう一つある「ビデ」は押したことが無かった。
ビデのマークを見るに女の人が使うんだろう、ぐらいの知識しか無い。
折角――いや語弊がある言い方になってしまったが今、僕の身体は女の子なのだ。使っても良いだろう。
僕の好奇心を理屈っぽく理由を付けてビデのボタンを押す。
「……」
イマイチ効果が感じられなかった。
僕は無言でビデを停止する。そのまま作業的に、トイレットペーパーで股を拭いて水を流す。
トイレから出ると結月が本当に待っていた。
「どうだった?」
興味津々といった様子だ。
結月の持っている漫画を考えてみたらトイレの後にこの台詞を言うのが道理なのだろう。僕もその漫画通り、罪悪感を抱いてしまったのでその流れに乗ってみる。
「罪悪感を感じたね」
「やっぱりそうなるんだね」
結月は納得したようでリビングへと戻っていった。