プロローグ
大して良い記憶の無い中学校の卒業式が終わって早くも一週間が過ぎようとしていた。
一週間も完全なオフがあれば何でも出来る。
卒業旅行といった世間体で言うところの正しき青春を謳歌するのはもちろんのこと。高校こそは彼女・彼氏をゲットだ、と意気込む者達が高校デビューするために自分磨きに勤しむのはもちろんのこと。正統派の青春もさることながら、ネット界隈で絵師や動画配信者としての活動開始のための準備に励むのももちろんのこと。
この中学生から高校生までの準備期間とは、何か新しいことをするためにはもってこいの期間である。
そんな学生としては大切な春休みに僕は一体全体、何をしているんだ、と自分を嘆く。
卒業式の日から一日後。僕こと、潮風渚は体調不良で寝込んでいた。病院からは腸炎と診断され、処方された薬を飲んでいるが症状が緩和した気配は無い。
「お兄ちゃん、大丈夫? 死んでるー?」
自室に妹の結月がノックをせずに扉を開ける。
「妹よ。兄を勝手に殺すでないぞ。ってかノックしろ」
自分の声は病の影響か、悲しいくらいに出ていなかった。
蚊が鳴くような、文字通りの虫の息の状態で、僕にとってのお約束を言ってみる。
「あーこりゃダメだね。私のことを名前じゃ無くて名詞で呼んじゃってるよ」
結月は呆れた様子だった。ノックの件に関しては触れずに、片付いているとは到底言えない、兄貴の部屋にづかづかと足を踏み入れる。
「ふむふむ。なるほど、なるほど。お兄ちゃんは本派じゃ無いっと」
「弱みを探しに来たんだったら帰れよ。病気が移るぞ」
「別に観られて困るものはないからいいじゃん」
兄の注意を無視して、妹は僕のベットの横までやってくる。
一応、マスクは付けているようだったが、服装は真夏のような姿だった。スポブラにスパッツとスポーティー過ぎる。格好が格好なだけに、小遣い稼ぎにいかがわしいライブ配信をしていたのではないか、と心配してしまう。
「おかゆ置いとくよ。あと、なんかいる? 買い物行ってくるけど」
「あ、ありがと。何もいらないけど、服着てけよ」
「それじゃね。食べ終わっても、食器は部屋に置いといて良いよ」
結月はおかゆを置いて部屋から出ていった。
それからしばらくして「行ってきまーす」と健気な声が聞こえる。
妹が腕によりをかけて作ってくれたおかゆをありがたく頂戴して再び布団にくるまる。
文字通り、溶けてしまいそうなくらいに暑い。
熱い物を食べたからにしても次元が違う。
天井も次第に歪んでくる。
インフルエンザの時に見る意味不明の夢に似た感覚がある。
無理矢理にでも寝るために目を瞑ることにした。
どれくらい寝ていたのだろうか。
部屋は一面真っ暗で、既に日は落ちてしまっているようだった。
スマホで時刻を確認すると午後六時だった。久々にスマホを手に取ったが、全くと言って良いほど通知が来ていない事実にサプライズ的に寂しくなる。
だが、体調もいくらか回復した感じがする。
「お兄ちゃん、おき――えっ。えっ、お、お兄ちゃん! ちょっちょっ、え!? 」
物凄く動揺している様子だった。
かれこれ十数年間、今まで一緒に生活してきたが、ここまで結月がテンパる姿は初めて見る。
「ど、どうした結月――うん?」
自分が今、口に出してみて違和感を感じた。
先ほどまで蚊の泣くような声だったから久々に聞いた自分の声に違和感があるなんて言う次元では無い。ましてや、痰が絡んで喉が潰れたくらいの濁声になっているわけでも無い。
「声が……高い?」
声が高くなっていたのだ。
それも一オクターブとか言う次元ではない。
近所にいる男子小学生の集団がたまに奇声を発しているが、その時に耳にする声質とは根本的に違う。
どちらかと言えば、結月と近い声色。
「お、お兄ちゃん? お兄ちゃんだよね? い、一応……何だけど、その……名前は?」
「潮風渚……やっぱり声が変だな」
「声だけじゃ無いんだって! 鏡見て! 鏡!」
結月は物凄く慌てた様子で自分のスマホをカメラモードにして近づけてくる。
「え? な……え? これ僕?」
スマホの画面に映っていたのは童顔の女の子だった。
目線を結月にずらすと目と目が合った。
体感では無く現実で三分間、お互いを見つめ合った。
「まって、僕、女の子になってる!?」
我が家は一気に驚きの声で溢れた。きっと、ご近所の人に通報されてもおかしくない位の大声だったことだろう。
「お兄ちゃん一旦落ち着いて! ちょっとこっち来て!」
お互いに落ち着いてはいないが、結月が現状を確認するために手招きした。
ベットから出て立ってみると、わかったが服がブカブカだった。
下半身の衣類は今の身体とのサイズの違いでか布団に置き去りとなってしまっており、上着だけで上下を隠す感じになってしまっている。意図せずに彼シャツを来ているような気分を味わってしまっているのが妙に恥ずかしい。
「一応、お兄ちゃん確認だよ。お兄ちゃんの誕生日は?」
結月は改まって落ち着いた口調で尋問を始める。
「八月一日」
「私の誕生日は?」
「五月十一日」
「私達の両親は?」
「海外赴任中。僕らは英語アレルギーだから日本に残っている」
「じゃあ、最後。スマホのロックを解除して」
「はい、できた」
「よし、OK。やっぱりお兄ちゃんだ」
こほんっと結月は軽い咳払いをして仕切り直す。
こうして自分の妹と面と向かい合って、目を合わせるのは何年ぶりだろうか。
お互いに妙な恥ずかしさがあり目線を逸らす。
「ねえ、お兄ちゃん。ちょっと、失礼するよ」
「え? ちょっ――」
バサッと一瞬の隙を突いて結月は僕の上着をめくる。
脱がされた上着で顔面が覆われて息苦しい。
対して首から下は肌寒い。
「ゆ、結月! 何して――」
「もうちょっと我慢して!」
結月は力任せにベットへ押し倒してくる。
頭部を上着で隠されて、それ以外はスッポンポンの人間を押し倒すのは事案である。
身体全身に未だ感じたことの無い未知の柔らかさを感じる。ひょっとしなくとも、普段、衣類を着てベットインをしているわけだから、裸でシーツを感じるのは今回が初めてだからそう感じているだけか。
お腹にこそばゆく、生々しい温度の空気がかかる。
「な、なあ、我が妹よ。今、何しようとしてる?」
結月の反応は無い。
ただ、生ぬるい空気だけが上半身へと移動しているのを感じる。空気が送られるスパンが段々と早くなっており、興奮度合いが高まっているように感じる。
「さ、さわるよ」
「どこを!?」
有無を言わさずに、結月は胸を揉んでくる。
なんだか変にくすぐったい。
「うん。わかった」
そう一言呟いて、結月は僕の上着を元に戻す。
自分でも感じたことの無い、変な気まずさを感じる。
結月の方はなんだか嬉しそうで、若干、頬を赤らめていた。
「結論を言うよ、お兄ちゃん」
顔を赤らめたまま、結月は真面目な表情になる。
「お兄ちゃん、女の子になっちゃってるね」