N月n日
N月n日、午前8時。
鈍い痛みと同時に体が宙に浮いた。世界がスローモーションになる。やけに落ち着いた頭が、私は車に轢かれたのだと認知した。ゆっくりと迫るアスファルトがだんだん近くなり、人生に幕が下りた。
目を覚ますと同時に勢いよく上体を起こし、慌てて枕元のスマホで日時を確認する。
N月n日、午前6時。
あの事故は夢だったらしい。安堵のため息を吐くと緊張が解けたのか体に疲労と共に不快感がある。酷く寝汗をかいたようだ。重い腰を上げてシャワーを浴びるべく自室のドアを開けた。
シャワーに打たれながら、昨夜の悪夢を思い出す。酷く現実味を帯びた夢であった。巨大な質量を持った鉄の塊の衝撃。体が宙を舞ってからの、時が静止したかのような瞬間。迫るコンクリートへの恐怖。目を覚ました今でも不気味な程鮮明に感じる。汗と同時にこの感触も洗い流せる様にといつもより時間をかけた。
N月n日、午前7時。
制服に着替えてリビングに出ると弟が朝食を用意してくれていた。両親は共働きである上に激務で家に帰れない日が多い、そのため我が家では器用な弟が家事の殆どを担っている。テーブルの上に目を向ける。夕飯の残りの肉じゃがと、一見悪ふざけに思えるほど茶碗に盛られたご飯、そして卵焼きに味噌汁。朝からこんな量を平らげられるのは、育ち盛りの運動部か相撲取りくらいだろう。どちらでもない私には完食など不可能なので味噌汁を飲み干すと、残りは育ち盛りの弟に譲ることにした。
「そんなだから貧相なんだよ、ちゃんと飯食え。」
大柄でよく日に焼けた浅黒い坊主頭が台所で弁当を作りながら咎めてきた。少し部活で活躍しているからなのか年長者である姉への態度が高圧的に感じる。
「行ってきます。」
不遜な弟の言葉から逃げるように外の世界へ飛び出した。
夏は過ぎ去ったと言うのに一向に涼しくならない所か、油断のせいか一層暑く感じる。蒸し風呂のような息苦しさを感じる程の湿度も相まって、逃げ出す先を間違えたような気になる。猛烈に照らしつける日差しを反射的に手で隠しながら渋々と灼熱の世界へ踏み出すと、大柄な人影がこちらに向かって手を挙げた後近づいて来た。友人のUだ。
「ようb、相変わらず小さいな」
日焼けを気にしない健康的な褐色のUが運動部らしい快活な笑みで肩を叩いてくる。抗議の目を向けるが、仰ぎ見る姿勢になる分自分の小ささが身にしみて悲しくなった。清々しく青い雲一つ無い空が憎らしく思える程の猛烈な残暑の中、私たちは午睡をするべく学校へ向かう。
N月n日午前8時。
コンビニの角の信号機の前でふと昨晩の事を思い出す。あの悪夢ではこの後信号を無視した乗用車に追突する予定だ。しかし飽くまで架空の出来事、実際に起こり得るはずはないだろう。深呼吸をして気を落ち着かせる。暴走車など通りはしない。事実、左右の車道を確認すると閑散としていて車一台見当たらないじゃないか。しかし、どれ程自分を言いくるめようとしても、不安はぬぐい去れない所か一向に増すばかりだ。もしかしてこの信号が変わると私は死んでしまうのでは無いだろうか。恐怖で呼吸が浅くなる。青になって直ぐに渡るのは危険だ、安全に渡れるように確認してから。小学生の様だと自覚しているが念には念を入れないと気が済まない。必死に思考を巡らせてUを引き留める策を案じる。信号が青に変わる。だめだ、かくなる上は。
「ごめんB、靴紐解けた。」
強い力で肩を引かれる。同時に先ほどまで姿が見えなかった筈の白い自家用車が数歩先を横切った。普段通り歩いていたら確実に衝突していた場所を。こけたふりでこの危機を回避するつもりでいた私はバランスを崩し尻餅をついた。尾てい骨を伝わる軽い痛みと前を歩く小学生達の小馬鹿にするような視線。追突死に比べればずいぶんとマシだと快く受け入れる。偶然とはいえ命を救ってくれた友人への感謝を心で呟きながら転倒させられたことを冗談めいた口調で非難する。
「わるい、この靴紐が悪いんだ」
悪びれもせずにはにかんで大きな手を差し伸べて来る。しゃがんでいていつも以上に見上げているからだろうか、太陽を背負って此方を向いているのも相まって、Uが後光の差す神様に見えた。
差し伸べられた手を取り、信号を渡りきると、先ほどまで張り裂けんばかりであった心臓もいくらかマシになった。他愛も無い会話を挟みながら数分歩くと駅に着く。近くの駐輪所を借りたなら後数分は優雅な朝を送れるのだけど、普段バイト代と悪戦苦闘している私にとって月の数千円は死活問題なのだ。そしてUも私に付き合わされる形で一緒に通学している。閑散とした田舎町の、寂れた改札を抜けるとホームもやはりそれなりである。端から端まで徒歩で30秒もかからない短さに加えて、四方八方どこを向いても山の緑が視界に入る。加えて1日に数本しか停車しないといった具合だ。
N月n日午前8;20
「まもなく、電車が到着します」
線路の奥から電車が顔を覗かせる。片田舎にふさわしい4両編成だ。ぼんやりと到着を待っていた私の背中に突然鈍い衝撃が走った。それと同時に体が線路に投げ出される。どうして?誰かの恨みを買った覚えは無い。私のいた場所では知らない人が興奮した様子で肩を上下させている。彼は誰?何のために?混乱する私の眼前に電車が迫ってきた。もう何をしても間に合わない、諦観と同時に走馬燈が巡。
N月n日午前6時
目を覚ますと同時に勢いよく上体を起こす。心臓の動悸が酷く呼吸も浅い。また夢をみていたのだろうか、否。確信は無いが直感がそうでは無いと告げている。枕元のスマホに表示された日時は1度目の目覚めと同じだ。寝起きの鈍い頭で状況を整理する。1度目の事故、目覚め、2度目の通学。突拍子も無い話だが、私はあの時点で本当に死んでしまっていて、何らかの理由で時間が戻ったのではないか。或いは、本当に夢であったとしても用心するに越したことは無い。とにかく、迫り来る死から今日を逃げ延びてみせよう。きっとこれは神様が私に生きるチャンスをくれているのだ。
N月n日午前8:20
また駅の改札に来た。このままホームまで向かい、電車が見ると、線路に突き飛ばされる。勿論今回はそれを見越して到着までホームのベンチに腰を下ろす作戦を立てた。傾向を掴めば後は対策あるのみだ。しかしどうしてだろうか、夢と異なりUは定期券を見失ったようで鞄の中を必死に漁っている。
「すまんb、定期がないんだ。」
激しく鞄をまさぐりながら此方に申し訳なさそうな笑みを向ける。いつも制服のポケットに定期券を携帯しているUにしては珍しい光景だ。しかし、計画とは異なるものの電車の到着までこのままならば、突き飛ばされる心配も無いので問題ない。肩の力を抜いて一息つく。長い間鞄と苦闘していたUが、電車の到着と同時に嬉しそうに定期券を掲げた。偶然にも彼女はまた私を救ったのだ。いや、本当にそうなのだろうか。改札に定期券をかざす友人に少し疑いを持つ。Uも何らかの切っ掛けで私の危機を知っていたのではないか。速度を調節して併走する友人に疑惑の眼差しを向けた。
改札からホームまで駆け抜け、何とか電車に滑り込んだ。駆け込み乗車は褒められたものでは無いが次を待つと確実に遅刻するので致し方ない。通勤時間だというのに寂しさを感じる車内の座席には、まばらに人が座っていた。肩で息をしながら腰を下ろすと前に立つUと目が合った。つり革に体重を預けた姿勢で、はつらつとした目に余裕のある表情が浮かんでいる。小馬鹿にする口調で話しかけてきている様に見えたが、激しい拍動を鎮めるのに精一杯で反応するどころではなかった。
「二度あることは三度あるって言うし今日は気をつけた方がいいんじゃねえか?」
しまったと言うような表情で目をそらした。上手い誤魔化しが思いつかないのか口を開閉させている。雨あられの様に降り注いでいたUの世間話が止み、微かに不穏な空気が流れる。
「なにかあった?急に静かになって」
不思議そうな顔を作り仰ぎ見る。私が失言を聞き逃したのを認識したUはほっとしたのか一層勢いを増して話を続けた。上の空で聞き流しながら、友人の言葉を反芻する。
(二度あることは三度あるって言うし今日は気をつけた方がいいんじゃねえか?)
明らかに不自然だ。私がこけたのも電車まで走ったのもUが原因である。自省ならまだしも、相手に投げかける言葉では無いはず。それにあの誤魔化すような様子、私の身に起こる危険を知っているのは自分だけだと思っているらしい。途端に申し訳なさがこみ上げてきた。笑顔で語りかけている友人は、きっと今も不安なのだろう。今日1日、私はいつ死んでもおかしくないのだから。
「U、実はさ」
真剣な表情で見上げる。打ち明けることで何が変わる訳では無いが、少しはUの気も楽になるはずだ。それに、黙って頼り切るのは私自身も気のいいものではない。
突然世界が傾き出した。いや、どうやら傾いたのは電車の方らしい。置き石でもしてあったのだろう。今日は全く付いてない。次は学校に行くのもやめておこう。私は自身の諦めの早さと今日の不幸加減に半ば呆れつつ、体を強く打ち付けた。
N月n日午前6時
N月n日午前6時
N月n日午前6時
N月n日午前6時
….
あれから何度繰り返したのだろう。寝室引きこもり作戦は、強盗が押し入り弟を巻き添えにして失敗。更に私の死因コレクションも焼死、圧死、爆死などなどバリエーション豊かになってきた。流石にネタが尽きたのか前回など、頭上に隕石が降る始末だ。そして死を繰り返していく内に気づいた事だが、上手く回避しても結局どこかで躓き、さらに後になる程被害が甚大になり巻き込む犠牲者の数も増えている。頭を抱えながら考える振りをして気を紛らわせる。結論は既に出ていた。逃れられないのなら初めの車に轢かれて死ぬのが最良だ。運転手には申し訳ないが、脇見運転で信号を無視しているのだから私殺しの罪を被ってもらう。結局諦めただけであるが、隕石の次を考えるだけでも恐ろしい。決意を固めたものの震えは止まらない。当然のことだろう、処刑台に自ら足を運ぶのだから。焦点の定まらない目と音を鳴らす歯を何とか鎮めるとリビングへと足を運んだ。
この光景は何度目だろうか、日の当たるテーブルに朝食が用意されている。相変わらずとんでもない量だが見納めだと思うと挑戦する気も少し沸いてくる。ここで時間をかけると自動車が過ぎてしまうので味噌汁だけ飲み干し弟の声から逃げるように玄関へ向かう。
「行ってきます。」
玄関を出ると憎らしいほどの晴天が目に飛び込む。この空も今日で見納めだ。一呼吸置くと頬を軽く叩き気合いを入れる。問題はここからだ。
「ようB、元気そうだな」
気丈に振る舞っているが疲労が一目で判るほど憔悴している。
「ねえ、U」
私の決心を打ち明けようとして引っ込める。聞いた所できっと彼女は説得しようとするだろうし、そうなれば折れて甘えてしまうだろうから。
「いや、やっぱりなんでもない。」
言葉を引っ込めて笑みかける。上手く誤魔化せただろうか。しかし、本当に友人を思うのなら、しっかり自分の意思は伝えなければならない。
「なあB」
Uは真剣な面持ちで私の前に立った。何か思い詰めているようだ、先ほどの言葉はどうやら耳に届いていなかったらしい。
「今日は良い天気だし、学校サボらないか?急にどこか散歩したくなったんだ。」
かなり無理矢理な誘い文句だ。それは彼女も自覚しているらしく暑さとは別の汗をかいている。
「だめだよ、ちゃんと学校に行かないと」
当然のように嗜める。本当は逃げ出したい、でもどうしようも無い事はUだって薄々感づいているはずだ。
「ねえ、U」
今度こそ私の決心を伝えようと思う。何度もつらい目を繰り返しそれでも諦めるつもりの無い親友に。もう頑張らなくてもいいんだと。
「U、私と友達でいてくれて、私のために頑張ってくれてありがとう」
精一杯の笑顔を作ってみせる。
「なんだ、改まって」
詰まった様な声でUは答えた。
N月n日午前8時
私たちはいつも通りに登校する。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
初心者の拙い物語の内容が伝わっていましたら幸いです。
よろしければ、改善点、感想などお願いします。
今後も出来れば定期的に更新していきたいと思いますので、よろしくお願いします。