とかく人の世は
死について
人間、死亡率は100パーセント。
綾小路きみまろさんのネタで心に刺さったフレーズです。
私は小さい頃から比較的多くの死に触れてきたように思います。
そのためか常に死を意識してはビビって生きてきました。
明日にでも死ぬかも知れないとか、体調に異常を感じれば死ぬんじゃないかとか、旦那さんの帰りが遅いと『道の途中で死んでるのではないだろうか』といった感じです。
すぐ死が浮かぶし、大切な人が死んだら自分はどうなるかなと考えたり、何せ人はいつ死んでもおかしくないと思っているので、これは死亡フラグでこの人このまま死ぬんじゃなかろうかと思ったり。
我ながら嫌な思考傾向があります。
本当に死なれたときのための保険なのかなと自己分析していますが、なんの保険になっているというのか。よくわかりません。
予行練習みたいな?
我ながら度しがたい。
それはともかく。
死を恐れることの裏返しで、死に興味もあります。
できれば良い死に方をしたい。ピンピンコロリは無理でも、誰かに死に方を押し付けられたりはしたくないですね。つまり、事故はともかく殺されたり?
誰もが一度しか経験できないことです。みんな、ぶっつけ本番。
何せ死亡率100パーセント。
自分を殺す、自死を否定はしません。私は選ぶことはないだろうけど。
奨励も称賛もしないし迷っている人がいたら問答無用で止めたいけど。
否定しないというのは、他人を殺すよりよっぽど良いし、断然意味があると思うから。
と、このあたりの考えについては機会があればまた別の回で。
もう少し的を絞って、今回のメインは死と尊厳について。
尊厳死というと不治の病を宣告された人が過剰な延命治療を断って自然な死を受け入れるイメージですが、基本は尊厳を保ったまま死ぬこと、ですかね。
しかし尊厳とはなんぞや。
意識のないままチューブに繋がれ生かされるのは嫌だというのはわかります。でも高等な医療が実現する、ある意味では不自然かもしれない生の否定が、はたしてイコール尊厳を保った死なのか。
私は、自分の死について自分で選択しているという意味で、尊厳がうまれるのかなと思います。
つまりは病ではなくとも老いに嫌気がさして、そろそろ死にたいと死を選ぶのも尊厳死になります。
そこで思いだされるのが某評論家の死です。
自殺されたのですが、それを手伝った人がいて、自殺幇助で逮捕されました。
尊厳死を手助けしたら犯罪者となったってことですね。
自殺は一応罪じゃないのに自殺幇助は罪というのもおかしな感じがしないでもないですが、法はどこかにラインが必要なもの。
先に私も書いたように問答無用で止めたいと思う自殺と、まわりがこれは尊厳死なのだと思える自殺の判断は難しく、自殺の幇助は一律に罪とするしかないでしょう。これは自殺幇助罪の根拠が曖昧なまま考える私の意見です。遺族や友人知人が自殺幇助者を責めるか、手伝ってあげてくれて感謝するかも、先の判断とさえズレるのかもしれませんしね。
なんだか論旨がふらふらしていますが。
尊厳死や安楽死は自分ひとりでなすのは難しくて誰かに頼る部分が高確率であって。それによって迷惑をかけたり傷つけたりすることもあって。
でも、死それ自体は、極論、超個人的なもので、尊厳死かどうかは本人にしか決められないのですね。
ここでもうひとつ思い出すのは某女性アナウンサーの死です。
入院していて亡くなられたのだけれども、まわりに闘病していたことを伏せ、病名は家族にも伏せたままでの急死だったそうで。
家族にも全てを秘して死ぬ気持ちは、なかなか想像も難しく、理解なんておこがましいと感じるのですが、少しはわかるような気がする部分はあるなぁなんてニュースを見ていたのですが。
それはともかく、この方は死の理由(原因)は無理だけど死に方は自分で選んだのだなと印象に残りました。強いなって。
尊厳死とはこういうものなのかと感じました。
しかししかし、話は終わらない。
父親が、『本人の意志だしこれ以上は。娘のわがままを許して』といった発表をすると、報道陣もしんみりした様子で、これはこのままおさまるのかなと思いきや、いやいやワイドショーが盛り上がる!
まぁ故人の親しい人が、あの人はこんな人だったからどうこうと語るのは、まぁその人の勝手なんでしょうけど。家族にも闘病隠してた人が、こんなことテレビで語られたいのかね?と思ったり。そこら辺は親しかったのならどう考えてんですかと聞きたかったり。
極めつけは習い事の教師が(親しかったらしいですけど)、習い事を休んだ時期から考えて、闘病はあの頃からだったのかなとか話してるのってポカンですよ。
痛ましいって風に話してるけど、インタビューされたからだろうけど、それ話さなきゃダメかい?推測してまで言うことかい?
そしてすぐにネットで病名も流れましたね。
誰だよ!医者かよ?!職業倫理はどうした!!
愕然としました。
亡くなられた方にはプライバシーは無いのか。故人の意志はここまで踏みにじられるのかと、とてもガッカリしました。
悪気はどこにもない。でもとてつもなくエグい一連を見た気がしました。
ネットで流れた病名は後に否定され(情報ソースはお医者さんじゃなかったってことですかね、良かった)、正しくはこうですと訂正されたのは良かったのかなんなのか(間違った情報が流れるよりは?でもそもそもの故人の意志は?)。
とにかく尊厳死の難しさを改めて感じました。
死は超個人的なことでありながら、周囲への影響がとてつもなく大きいことでもあるので仕方ない部分もあると思うしかないのかなぁ。
なんだか落としどころを見失いだしました。
あと少しだけ。
死について。
自殺した先輩がいます。
学生時代に知り合って、年の離れた先輩なので、なにかの集まりでお会いするという関係でしたが、会えば仲良くしていただいてました。
そんな感じなので、元から少なかったですが社会人になってめっきり会うこともなくなり数年、その連絡は回ってきました。
先輩のことを日常思い出すことはなかったけれど、忘れてたわけはなく。ただただ驚き、ショックでした。
お葬式とは別に友人知人で先輩を偲ぶ会が行われ、参加しました。
会を企画した人も私の先輩で、亡くなった先輩に私より近い方でした。私よりもショックを受けていて、もっと気にかけていればと悔やまれていました。
それを聞いて私は、それはとても難しいと思いました。
相談でもされないかぎり、自殺をとめるのはとても難しい。家族だって無理だったりするんです。
私だって止めれたなら止めたかったと思うけれど、亡くなられなかったら先輩に連絡を入れてみようとは思いもしなかった自分を知ってるから、同じ嘆きはできないし、その先輩の嘆きは本物だとわかるけど、その後悔はしなくていいものだと考えたのです。
口にはしなかったけれど。
冷たい考えだなと思うけれど、生きている先輩に自殺した先輩のことで必要以上には落ち込んで欲しくないと思って。
私的にそちらの先輩の方が関係が深いという思い入れもあるだろうし、落ち込んだりできない自分の冷静さに巻き込む考えなのかもしれないし、自分の本意もわからないから、とにかく口にはしませんでしたが、先輩のその後悔を聞いたことはとても深く刻まれています。
もう何年も前のことです。
お葬式で、棺に故人へのメッセージを希望者は入れてくださいと紙が用意されていました。
押し付けがましいこともおためごかしも嫌で、冷たいかもしれない私の間違いない気持ちを書いて入れました。
「さみしいです」