当たり前。
僕は、物理の実験のとき、考えていた。物理の実験が楽しい一つの理由が、今「当たり前」に起きていることを改めて実験するからだ。「当たり前」。それは誰しもが直面する苦しくて、見えない縛りなのだ。僕も「当たり前」の縛りに苦しんだ。この文章を読んでくださっている方々もそういう場面があっただろう。
「当たり前」を辞書で調べてみると。だれが考えてもそうであるべきだと思うこと。当然なこと。また,そのさま。と出てくる。「当たり前」は定義なんてない。当然なことなのだ。
例えば友達との約束をするとする。9時30分に待ち合わせしていた。人はなぜその時間までに行かなければならないのか。もしこの待合人が苦手な人ならドタキャンだっていいはずだ。苦しい思いまで一緒に時を過ごさなくても家でYouTubeでも見てゆっくりすればいい。何故、目的地まで苦手な人のために向かわなくてはならないのか。きっと、その約束した本人はいくら苦手でも失礼などという罪悪感。または何を言われるか分からない恐怖など、今後のことを考えて今、我慢してゆっくりしようと勝手に頭で考えるはずだ。それが人間として、「当たり前」のことだから。それが何なのでしょうか。決して否定はしません。私のような、こういう理論の人がいるから社会の人間関係は廃れていく。人は「当たり前」に翻弄させることで世界の秩序が保たれていると思う。当たり前なら何をしてもいい。じゃあ、いじめも否定できない話である。
小学校の中は小学生によって作られる社会だ。先生という上司がいて同僚の存在の同級生。年が上がるごとに後輩ができる。委員会によって仕事の分担によって協力を知る。簡単な社会なのだ。もし小学生がある一人を嫌っている人がいたとする。その人が発言力のある人としよう。集団心理の一つからリーダー的な人についていきたがり、簡単に信じてしまうことがある。その事から周りの人はその人の考えに賛成してしまう。そしてその話を聞いた人々は自分自身の心の中でその人を嘲笑うようになる。たとえ自分が悪事を働いても好条件なら簡単に嫌いと思ってしまう人に罪を被せる。怒られている奴を見ると何故か、スカッとした気持ちになる。その気持ちは自分のストレスが楽になる。本当にそんな気持ちになるのだ。その悪循環が勝手に嫌われている子を痛めつけてしまう。これがいじめの一例である。
このようにまとめてしまったが、悪循環が小学校の一部で展開してしまう。これが「当たり前」の本当の姿だと、僕は考える。「当たり前」の根拠のない約束を勝手に制作し、あたかも今まであったようにふるまう。何か問題になれば風の様にその「当たり前」は消えてなくなり、また新しい場所で壮絶な「当たり前」のストーリーを繰り広げるのだ。それがいい方向に展開することも少なくない。
電車でお年寄りに席を譲る。これは誰かが言ったわけではない一つの事例だ。それが公共のマナーの一つとなった。これはいい循環だ。人が人を救い、誰もが安心できる世界だった。しかし、もう過去形の話だ。優先席などという強制的な「当たり前」を押し付けられたからだ。公共のマナーの悪化だ。人が感覚で行っていた道徳心が薄れていく原因の一つ。本来あるべき気持ちがないから小中学校では道徳の推進が行われている。これは逆に考えれば、世間一般的な考えが出来ていない子供の多さが出ている。人のことを考えない。助けない。報われなければ泣いてしまう。人なんてどうでもいい。自分さえよければ。そういう社会が完全に出来上がってしまっている。
このように、「当たり前」というのはすべて正しい訳じゃない。間違っていることもある。その「当たり前」は人がよく、吟味して使用しなくてはならない。日本語のなかで一番危険で、安易に使用してはならない。それが誰かを傷つけたり、苦しめたりする結末になるからだ。
僕は最初に物理の話をした。僕は思う。理科全般の実験には失敗がつきものである。きっと友達同士、恋人同士で喧嘩だってしたことがあるだろう。それは、お互いの「当たり前」の食い違いが大半だと考える。「当たり前」は自分の意見を貫き通してもいい。でもそれが自己中心的思考になるなら、それは避けた方がいい考え方でもある。
「~が当たり前だから。」
この言い訳は通用しない社会が一番いい。必ずルールが必要な訳でもない。暗黙の了解も必要ない。親切さがあるかどうか。それに結果はついてくる。喧嘩してもお互いに考え方を認め合える親切さ。それこそが成功の鍵への近道だ。「当たり前」の定義は自分で理解できればそれでいい。でも、人を巻き込むな。それ以上は強制しない。
それが僕の「当たり前」に対する理解の仕方だ。
後書き
どうもこんにちは。鈴木湊です。今回は初めて物語ではない作品を使って表現してみました。今回の作品はあくまで、自分の意見です。各読者さんの意見は反映する気はありません。なぜ、ここまで厳しいのかといいますと、学校でも、どこでも、自分の意見をはっきりと言う人間が減ったからです。僕の学校の国語の先生はこのことを「自分軸と他人軸」という心理理論に沿って話されていました。僕も同意見ですね。自分の意見をはっきりと胸を張って言える人。自分の周りには2人くらいしか見たことないですね。自分軸は、自分の意見に自信を持つこと。決して他人に意見を合わさせるとか、自己中心的思考ではありません。他人軸は、とにかく相手の意見に賛成しかせず、自分自身の意見を述べないことを指します。相手の意見に賛成するのは構いません。しかし、それに自分の考えをプラスアルファできないようなら、賛成する資格はないかなと思います。9割同じことを理由として述べても1割でも自分自身の意見が言うことが出来れば、それは立派な意見の一つです。根拠も場合によって求められません。自分の意見を言う。それが大切だと思います。
まだ、人生経験の少ない自分ですが、自分自身の意見を反映する方法として、小説など積極的に行っていることも自分が小説を書いている背景の一つです。
これからの小説活動も積極的に行っていきますので、今後とも、よろしくお願いします。