よくある婚約破棄だと思われます
「いいか! 俺は本当の愛に目覚めたんだ!
おまえみたいな山猿とはこれ以上、婚約を続けていられない!」
貴族だけが通うことを許される学園。
ここには、将来の国政を担う数多の子女が通い、適正を見て専門職や高級官僚、そして騎士に振り分けられていく。
そんなエリートが集う学園では、今年度の卒業パーティを迎えていた。
普段の地味な制服を脱ぎ、男女ともに華やかな装いに身を包み、あるもの達はカップルで、あるもの達は決意の告白を胸に秘め、会場は熱気に満ちている。
そんなまっただ中にあったから、朗々と響いた声とその内容に、会場はしんと静まりかえった。
熱気が急速に冷え、皆の視点が一カ所に集まる。
そこには、誰もが憧れる第三王子エドアルドと、その婚約者ミシェル・オリバー侯爵令嬢、そして不安げに怯えるキャサリン・セリア男爵令嬢がいた。
楽隊も演奏を辞め、困惑しきりと指揮者の指示を待つ。
その指揮者もまた、国のトップクラスにいる少年・少女の一幕に、有象無象と一緒に広間の中央を見ていた。
「あら、殿下、わたくし、寡聞にして存じ上げませんでしたわ。
山猿と婚約なさっていたとは。
人類枠がわたくしで、猿枠がその方ですの?
なんて懐の深い」
ミシェルの冷ややかな青い目が、王子の背後に隠れ震える男爵令嬢に突き刺さる。
「祝福申し上げればいいのかしら?
しかし、婚約破棄されたのですよね?
では、お悔やみ申し上げればよろしいんですの?
難しいですわね」
キャサリンが一際震え、王子のマントの裾を握ってぷるぷると震える。
愛らしい顔立ちが泣きそうにゆがんでいると、誰もが手を差し伸べたくなる風情があった。
一方、エドアルド王子は、端正な面を厳しくゆがめ、侯爵令嬢を睨み付ける。
「おまえは耳が悪いのか、頭が悪いのか」
言葉を飲み込むようにする王子に対し、ミシェルは余裕を持って微笑んだ。
「お言葉ですが殿下、わたくしに悪いところは一切ございませんわ。
生まれてこの方、優秀で理解が早いと褒められこそすれ、愚かだと言われたことはございませんもの。
もし、わたくしが先ほどの殿下の言葉を正しく理解していなかったのだとすれば、それは殿下の言い方が悪いのです」
きっぱりと言い切る。
広間にいた人々はぎょっとして侯爵令嬢を見た。
第三とは言え、エドアルドは立派な王族である。
そして、ミシェルはたかだか『侯爵家の令嬢』だ。侯爵本人ですらない。
元々、ミシェル・オリバー侯爵令嬢は、歯に衣着せぬ物言いで有名だ。
裏表のない性格、といえば聞こえが良いが、分け隔てなくきつい発言をする。
相手が教師であっても、誤りには毅然と言い返す。
つい先日は確か、放蕩者の公爵家嫡男にけんかを売り、令嬢の方が数日の謹慎処分を言い渡されたはずだった。
そのため、平民や下位の貴族には人気が高いが、上位貴族には嫌われていた。
それがよもや、王族相手にも発揮されていたとは。
皆が息をのみ注目したのは仕方のないことだったのである。
「山猿とは、おまえのことだ、ミシェル・オリバー」
エドアルドは精一杯の忍耐力でもって感情を抑制しているように見える。
王家の宝石とも言われる碧玉の瞳をミシェルに据え、あえて抑揚を押さえて言葉を続けた。
「俺との初めての顔合わせの際、おまえが木登りの最中であったこと、忘れたとは言わせないぞ」
とても個人的な話題に遡ったことで、聴衆は驚きつつも嘲笑を浮かべた。
確か、第三王子と侯爵令嬢が婚約を結んだのは、双方が僅か六歳の時だったはず。
まぁ、それでも、令嬢ともあろうものが、幼年期とは言え木登りを行っていたなど前代未聞。特に、才色兼備の侯爵令嬢と呼ばれるミシェルにとっては、痛恨の瑕疵だろう。
皆がなんとなくわくわくしつつ、ミシェルに視線を移動させる。
対するミシェルは、淡い緑色の扇で口元を隠し、豪奢な金髪を揺らして小首をかしげる。
「勿論、覚えております殿下。
わたくしが木の上から手を差し伸べて差し上げましたのに、殿下は枝二本を上るのがやっと。
それ以上、上がることも下がることもできず、泣きながら侍従を呼んでいらっしゃいましたのよね?
わたくし、これがわたくしの将来の伴侶になる方、と感動に打ち震えましたわ」
「おまえが震えていたのは爆笑してたからであろう!」
王子の突っ込みが早くてその音に紛れたが、確かに広間にいる少なくない人数が吹き出した。
エドアルドの鋭い眼差しがキッと広間中を見渡したので、その少なくない人数は慌てて面を伏せる。
「殿下、レディの心の内を暴くものではございませんわ。
あれは、殿下の愛らしい姿に打ち震えていた、それでよろしいじゃございませんの?」
「ミシェル! おまえの! そう言うところが!」
地団駄を踏む王子。
緊迫感に満ちていた広間の空気が、なんとなく和む。
それを素早く見て取ったのは、ミシェルともう一人、キャサリン・セリアであった。
おずおずといった風に王子のマントから出てきた小動物的男爵令嬢は、ミシェルをしっかりと見返し、健気にも震える声を張り上げた。
「そうやって、殿下に恥をかかせてばかり!
ミシェル様は、殿下のお心をなんだと思っていらっしゃるの?」
ストロベリーブロンドの髪をほわほわと揺らし声を張り上げる様は、まるでリスのように愛らしい。
「キャサリン・セリア嬢、あなたは何故、わたくしたちの間に言葉を挟んでくるのです?」
ミシェルは余裕を崩さずに問いかける。
しかし、聴衆にとっては一目瞭然。これはどう見ても、王子の寵愛を巡っての三角関係。さらに踏み込むなら、王子の関心は、小うるさい侯爵令嬢よりも、小動物的愛らしさのある男爵令嬢に向いている。
この世紀のスキャンダルに居合わせた幸運を喜びつつ、聴衆は侯爵令嬢がコテンパンにされる未来を待った。
「わ、私はエドアルド様の付き添いです!
殿下から、今日は是非、この場で一緒にいてほしいと請われたのです!」
勝ち誇ったようにキャサリンが言う。
だが、ミシェルの余裕は崩れない。
「わたくしが聞いているのは、何故、二人の会話にあなたが口を挟んでくるのか、ということですわ」
キャサリンの顔に、小動物らしからぬ怒気がさす。
「それは、エドアルド様があなた様に愛想を尽かされたからですわ、ミシェル・オリバー様」
キャサリンは王子の前に進み出て、ミシェルと対峙した。
「あなたのした数々のいやがらせについては、全部、エドアルド様に打ち明けてありますからね!」
「数々のいやがらせ?」
ミシェルの理知的な目が、エドアルドに向けられる。
エドアルドは頷いて、片手をキャサリンの肩に置いた。キャサリンの顔が喜色を浮かべ、次いで、目前のミシェルを勝ち誇ったように見上げる。
「キャサリン・セリア嬢から、おまえが彼女に行った行状について、王家に話が来ている。
徒党をくみ、彼女のドレスをパーティ会場で破ったこと。
彼女に届いた領地からの書状を、おまえの一存で没収し届かないようにしていたこと。
彼女を階段の上から突き飛ばし、殺そうとしたこと」
最後の罪状に、聴衆は言葉を失った。
単なる痴情のもつれというには、あまりにも似つかわしくない内容。
学生の卒業パーティで話題にするには、重すぎる罪状。
このスキャンダルは、政界を巻き込んでの大スキャンダルになるのかもしれない。
もたらされるかも知れない変化に、多くの者の心が沸き立つ。
「心当たりはあるか?」
エドアルドの厳しい表情は、単なる寵愛の競い合いではなく、重罪に対してのものだったのか、と聴衆は理解した。
ミシェルは一つため息をこぼし、パチン、と扇を閉ざした。
「ございます」
惨めな言い訳を期待していた聴衆は、がっかりしてミシェルを見る。
長いまつげを伏せ、令嬢は立ち尽くしていた。
「ほら、ご覧なさい!
皆が聞いていてよ! ミシェル・オリバー!
あなたが殿下のご寵愛を取り戻すため、どれほどえげつないことをしたのか!」
嬉々として張り上げられたキャサリン・セリアの声が、キンキンと広間中に響き渡る。
エドアルドがさらに眉をしかめた。
キャサリンは、王子の表情を確認し、勢い込んでミシェルを指さした。
「私なんて、もう少しで殺されるところだったのだわ!
なんて恐ろしい女! 表情一つ変えずに私を突き落としたのよ?
それもこれも、すべては殿下のお心を取り戻すため!
でも、残念だったわね!
殿下はあなたのことなんて、これっぽっちも好きじゃないのよ?
山猿のあなたを捨てて。殿下は可愛らしい私を選んだのだから!
この、キャサリン・セリアを!」
口から泡を飛ばし、キャサリンは目をつり上げてミシェルを罵った。
あっさり認めたと言うことは、この演目はここで終わりなのだろう。
だが、だとすると、侯爵家は失墜し、その地位に誰が入るのか。
単純に考えるならば、セリア男爵家だろうが、たかだか男爵家だ。王家に嫁を出すには不相応だろう。
だとすれば、キャサリンはしかるべき家に養子として入り、そこから王家に入るのが順当だ。
満面の笑みを浮かべるキャサリンの周りに、あっという間に人だかりができた。
「おめでとう! 大変だったね」
「なんてつらい目にあっていたのでしょう。今後は是非頼りにしてね」
「諦めず筋を通すその姿勢に感服したよ。是非とも、家ぐるみでお付き合いを」
「それにしても、侯爵家をかさに着て、なんて非道を」
「殿下とはもう、お約束していらっしゃるの?」
「もうすぐ我が家で茶会を行いますの、是非、いらっしゃってくださらない?」
その一つ一つに、キャサリンは渾身の笑みを浮かべて丁寧に答えている。
先ほどつり上がっていた目は落ち着きを取り戻し、元の優しげな垂れ目に戻っているが、大勢の相手をしつつも、その目は勝ち誇ってチラチラとミシェルを見ることをやめなかった。
輪に加わっていないのは、ミシェルと……そしてエドアルド。
そのほかにも、戸惑いを浮かべつつ周囲を見回す学生達や貴族達がいたが、それは少数だった。
「エドアルド様! 皆さん、私たちのことを祝福してくださっています!」
頬を上気させ、弾みながらエドアルドの腕に手を絡ませる。
しかし、次の瞬間、その手は呆気なく払われた。
「エドアルド……様?」
「まだ、……ミシェルの申し開きを聞いていないのでな」
素っ気なく響くエドアルドの声に、キャサリンは眉をひそめ、敵意を込めてミシェルをにらんだ。
ミシェル・オリバーは立っていた。
人の目を避けることなく、凜と。
折れることのないその矜持に、キャサリンの周りにできていた人垣が割れた。
「あら、申し開きを認めていただけますの?
わたくし、このままでもよろしゅうございましたのに」
いたずらっぽく艶然と微笑むミシェルを、エドアルドは苦虫を潰したような顔で睨み付ける。
「……ない、とは言わせないぞ」
「かしこまりました。殿下の仰せのままに」
ミシェルは深い青いドレスで貴婦人の礼をし、再び立ち上がると、傲然と聴衆を睥睨した。
「第一の罪、徒党と組みセリア嬢のドレスを破った件。
山猿よりもさらに深奥の田舎に住んでいらっしゃったご令嬢は、禁色をご存じなかったようです。
ですので、わたくしの侍女と友人らに協力いただき、周りの目に入るよりも先に禁色をとらせていただきました」
禁色とは、王家の色だ。
王族以外が身につけることを許されない色。
黄金地に深紅の糸が縫い込まれた光沢がある布を身につけることは、場合によっては、謀反の疑いにも直結する。
「第二の罪、男爵領からの書状をわたくしの一存で押収した件。
セリア嬢と領地の間の書状の量は、明らかに常軌を逸しておりました。
学園事務よりその報告を受けましたので、失礼かとは存じましたが、押収させていただきました。
内容は、一見すると、娘を心配するお父様の心情を綴ったお手紙でしたが……、キャサリン様、ご存じ? 一定の間隔で出てくる脈絡のない名詞と数字。
抜き出していくと、あら不思議、帳簿になるようなんですの。
ただ、残念ながら、名詞部分については解読がすんでいないのですけどね。
……男爵領は火薬の産地で名高く、近年、産出量が減っているそうですわね。
あなたが懇意になさっている商人、なんと仰ったかしら、五日に一回はいらっしゃる方、隣国に本拠を持っていらっしゃるんですって?」
学園の理事長は前オリバー侯爵、つまりミシェルの祖父に当たる。
ミシェルが理事長の権力を笠に着ることをしないので皆忘れがちだが、侯爵家は学園内の治安維持もその役目に持っていた。
「本当に。単なる田舎者だったらよかったのですけどね。
そうしたら、わたくしの居場所だって、譲って差し上げたのに……」
「ミシェル!」
エドアルドが怒鳴り、ミシェルは困ったように微笑みながら、扇を開いて口元を隠した。
今や、キャサリン・セリアは一人だった。
先ほどまで彼女を囲っていた人の輪は、徐々に遠ざかっている。
青ざめながらも、キャサリンはミシェルを殺しそうな顔で見つめ続けた。
その視線を正面から受け止め、ミシェルもまっすぐ立っていた。
「蛇足ではございますが、第三の罪、セリア嬢を階段から突き落とした件。
あれは、第一王子ロバート殿下のお誕生日でございましたわね。
隣国の大使様が随分と大勢の護衛を引き連れておいででしたわ。
……あのとき、セリア嬢はエドアルド殿下にせがんで、ロバート殿下に挨拶したいから呼び出してほしいとお願いなさったのでしょう?
田舎者が未来の王に気後れして、人目のつかないところでご挨拶したいとお願いする。
確かに自然でしたわ。
エドアルド様もころっとだまされておいでで」
「ころっとだまされてなどいない! なんかおかしいと思ってた!」
「でも、お願いを聞いて差し上げたのでしょう?
ですから、こちらも強硬手段に出るしかございませんでしたの。
セリア嬢、あなたがあのとき足を捻挫なさったのは、突き詰めていけば殿下がいい格好しいのスケ……浅慮だったからです。
そのときに書状の件でもっと証拠が集められていれば、わたくしもあなたを突き飛ばさずにすんだのですわ。
すべては、あなたご自身と、そこの泣き虫でおばかなエロアルド……失礼、エドアルド様のせいですわ。
わたくしを恨むのはお門違いですわよ」
形の良い鼻がつんとそらされる。
「言いたい放題だな」
呆れたようにエドアルドが言い、伸ばされたキャサリンの腕の前で、ミシェルの手を取る。
「あら、山猿なんかの手をお取りになるの?
殿下は猿山の大将になるのかしら?」
微笑を浮かべたミシェルの指先に、エドアルドは唇を落とす。
「根に持つな。おまえが、キャサリンを連れ、皆の前でおまえを罵倒しろ、と言ったんだろう?」
「えぇ。まさかの山猿。まさかの出会い頭でしたわ。
仕方なく、わたくしも殿下の秘密を打ち明けざるを得ませんでした。
心より謝罪いたしますわ。侍従とわたくしの家人とわたくしの家族と……諸々を除いて、二人きりの秘密でしたのにね。
真実を申し上げて王族を辱め……」
「もういい、おまえは黙っていろ」
エドアルドはミシェルの手をぐいっと引っ張り、令嬢の口を自分の口で塞ぐ。
女子学生からはきゃぁ~という歓声が、男子学生からはおぉ~という感心の声が、並み居るその親たちは息をのむ気配が、さざ波のように広がった。
途端に、それまで優雅に冷静を保っていた唯一の存在、ミシェル・オリバーが真っ赤になって膝からくずおれた。
エドアルドはそれを満足げに抱き留め、先ほどのミシェルが乗り移ったかのように、堂々と聴衆を睥睨した。
「最近、第三王子にミシェル・オリバーがふさわしくない、という噂がまことしやかに広められていたが、すべては今見たとおりだ。
オリバー侯爵家の忠誠も、ミシェルの資質も、ミシェルの俺への想いも」
「エドアルド様?」
「あ? あぁ……とにかくだな、ミシェル・オリバーが俺にふさわしくないという妄言は金輪際なしにしてもらおう。
今後、それを口にする者は、俺への、延いては王家への反逆と見なす。
いいな」
座り込み放心状態のキャサリンと、並み居る貴族達老若男女を置いて、エドアルドはミシェルの腰をしっかりと抱いたまま広間を出た。
出てすぐに衛兵にキャサリンの拘束を命じ、二人はそのまま王家所有の馬車に乗り込む。
馬車はゆっくりと動き出し、学園の敷地を出た。
ホッと息をついたのはどちらだったのか。
エドアルドが先に笑み崩れ、それに誘われるようにミシェルも微笑んだ。
「うまくいったようだな……」
エドアルドは行儀悪く背もたれに背中を預け、座面の中程まで腰をずらした。
ミシェルまでそのように姿勢を崩すことはできないが、さすがのご令嬢も肩の力を抜いた。
「お疲れ様でした、エドアルド様」
扇を膝に置き、にっこりと微笑む。普段はすました顔かきつい表情しか見せないミシェルが、脱力して笑み崩れると、急に普通の少女めいて儚くなる。
エドアルドはその笑顔をぼーっと眺めた後、慌てて馬車の窓の外を見やった。耳まで赤くなっていたが、いろいろな用意で忙しいミシェルはそれには気づかない。
「こちらが、本日の参加者名簿です」
そんな王子の膝の上に、そっと名簿がのせられた。
「キャサリンの周囲にいた貴族達、覚えたか?」
「勿論です。わたくしの友人たちにもお願いしてありますので、後ほど名簿に付き合わせて、結果を殿下にお送りしますわ」
第一・第二王子はすでに結婚し、子を成している。
次代は安泰と言われていたが、ここに来て隣国の勢力が急激に拡大していた。
この国の国境線の強さに隣国もそれほど手出しできないでいるが、王家の中にその手の者がいれば、中から崩せるのではないか。
そう考える者がいても決しておかしくはない。
そして、そう考えたときに一番籠絡しやすいと目されるのが、学園に在学中の第三王子。
ましてや、第三王子には評判の悪い婚約者がいる。
王子と婚約者の口論は有名で、これまで何度も婚約の危機を迎えていた。
すべては今日、この日のため。
王国内の不穏分子をあぶり出すための婚約であり、卒業パーティだった。
「面白いぐらい、うまくいくものだ」
窓の外を見ながら、エドアルドが呟く。
ミシェルはこっくりと頷いた。
「そのために、様々に布石をしたのです。
第一王子様の即位前に、静かにしておきませんと」
青い瞳が酷薄に細められる。
エドアルドはそこが馬車であることも忘れて立ち上がり、驚くミシェルの両脇に乱暴に腕をついた。
「そんな顔をするな」
「エド……アルド…………様」
「おまえが喜んでそんなことをしているわけじゃないこと、俺は……俺だけは知ってる」
「あり……がとう……ございます」
餌を求める魚のように、はくはくと口を動かしながら。ミシェルはなんとか声を出す。
間近にいるエドアルドは、何もかもを見通すように、ミシェルの瞳をのぞき込んでいた。にやりといたずらっぽく笑い……。
「次におまえの考えそうなことを当ててやろうか?」
「は? ……はい」
「傷がついた婚約者として、おまえはふられて、俺には新しい婚約者があてがわれる。違うか?」
「うぇ? あ……あの……」
ミシェルは挙動不審になり視線をそらそうとする。
しかし、狭い馬車の中で逃げ場はない。
ましてや、ミシェルはエドアルドにより両脇を塞がれている、いわゆる壁ドンの状態だ。
困惑したまま、ミシェルは弱々しく言った。
「殿下もはっきり仰ったではありませんか。婚約を続けるつもりはない、と。
オリバー侯爵家は王家の盾。父もわたくしも、十分理解しております」
「あぁ、そうだ。こんな山猿、俺はこれ以上婚約を続けるつもりはない」
はっきり告げられた内容に涙がにじみそうになる、が、そういう割には距離が近すぎないか。
ミシェルは固まったまま、とにかく顔だけ背け続ける。
首の筋がおかしくなりそうだが、正面を向くと鼻が触れるほど近くにエドアルドがいるのだから、しかたない。
自分の吐く息の匂いさえ気になって、息を殺して馬車が王宮に到着するのを待つ。
「木の上にいた山猿が、俺になんと言ったか、覚えているか?」
「殿下! あれは子供の戯言……」
「覚えているんだな?」
ミシェルはかすかに頷いた。
ミシェルは泣き出したエドアルドに向かって言った内容をしっかりと覚えていた。
「殿下がお決めください、わたくしの手を取るか、侍従によって下ろされるか」
今思えば、なんとも不敬な台詞である。
だが、エドアルドはしっかり涙を拭い、ミシェルの手を取った。
あのときの強い眼差し、きらめく碧玉に、ミシェルは心を決めた。
自分のすべてを使って、エドアルドを助けていく、と。
エドアルドが第三王子として国に仕えるというのであれば、その国を全身全霊を持って助けていく、と。
「……しかし、殿下。もう、手を離してくださっても大丈夫です。
殿下は立派に一人で木に登る方法を覚えました。
侯爵家という盾をどのように使うべきか、学ばれました。
もう、あなたの後ろ盾に侯爵家は必要ございませんわ」
膝に置いた扇をぎゅっと握りしめ、そう嘯く。
その手を、ミシェルよりもずっと大きくて熱い手が覆った。
首筋に、熱病患者のような、熱い吐息が降りかかる。
「婚約は続けない……」
首に触れる唇も熱い。やけどをしそうだ。
「……はい……」
「こんな茶番はも終わりだ」
「えぇ……」
「だから、おまえは今後、第三王子の婚約者を名乗ることは許さない」
「……かしこまりました」
頬が熱い。
まぶたが熱くてたまらない。
「……、おまえ、自分が決めたことで泣いてるのか?」
「だって……」
あなたが触れるところが全部熱いから、熱が移ってしまったのだ。
ミシェルは言葉にならないそれを、熱いしずくで外に送り出す。
そうすれば、少しでも体内の熱量が減るのではないか、と。
ふ、と頬をぬらしていたしずくが、吸い取られる。
ミシェルがゆっくりまぶたを開くと、憧れて止まない碧玉が、彼女だけを映していた。
涙を流し続ける、年若い女が一人。
化粧も崩れてしまい、なんともみっともない姿だ。
「だから、おまえはこの馬車を降りた瞬間から、こう名乗るんだ」
そらすことを許さない碧玉は、ミシェルをその中に捕らえたまま、熱い吐息を伴う唇が耳元でささやく。
「第三王子エドアルドの妻、と」
はい、と答えようとした言葉は、熱い吐息に飲み込まれ、ミシェルが音とすることはなかった。