空気という化け物
成瀬は、荒川のメールで怒っています。
荒川はどんなメールを送ったのでしょうか…
「何か言い訳があるなら聞いてあげる」
俺は今、人生最大のピンチに陥っている。
俺は朝、いつも通りの時間に教室に入ったら、俺の机の横に雪女が座っていた。な、何を言ってるか分からねぇと思うが、俺も何が起きてるか分からなかった。恐怖だとか生命の危機だとか、そんなチャチなもんじゃ断じてねぇ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わっている気がするぜ…
まあ端的に説明すると、朝教室に入ると成瀬がいました。説明終了。
どうやら昨日の件について相当ご立腹のご様子だ。今は、成瀬に言われて正座をさせられている。
「えっと…あれは荒川様のご機嫌とりの為に申し上げた訳でございまして、決して成瀬様がお綺麗であるという事の否定という訳では」
「言い訳しない」
さっき言い訳あるなら聞くって言うたやんけ…
まあお怒りの女性に対し、まともな言い訳など通用しない事は、仁美で痛いほど分かっているので、もう諦めてるけどね。
「というかさ、それじゃあほのが可愛くないって言ってるみたいで腹立つんだけど」
しっかり聞いてんじゃねぇか…
「も、申し訳ありませんでした。わ、私としては最善の回答をしていたつもりが、成瀬様を傷つけるような結果を導いてしまったことを、深く反省し、これか」
「あたしはそういうの言葉を聞きたいんじゃないの。分かるでしょ?」
分かんねぇよ…。日本人特有の言葉をぼかす話し方やめてくれない?
まあ反論したら何倍にもなって返ってきそうなので、反論を諦め、打開策を足りない頭で考える。
俺が生き延びる方法を考えろ…。成瀬は怒っているのだから…
『土下座だろ土下座。誠心誠意謝れば、どんな女でも許してくれるってもんだ。浮気だろうが不倫だろうがな』
俺の中の悪魔がそう語りかけてくる。これはよくあるあれだな。心の中で、良心と悪意が葛藤するやつだ。
しかし、悪魔の言う事も一理ある。誠心誠意謝れば、成瀬も許してくれるのでは?
しかし、悪魔の言う事だけを参考にする訳にはいかない。ちゃんと天使の話も聞かなければ。
『ここは開き直って、彼女が怒っている理由を問いただすのはどうだろう』
俺の中のもう一人の悪魔がそう語りかけてくる。あれ?天使は…?
『ばっかお前!謝った方が後腐れ無くていいだろうが!女は港だ!甘い言葉吐けば、すぐに股開いて従順になる生き物なんだよ!』
『はっ!違うね!ここは彼女が怒っている理由を問いただして、彼女の本心、あわよくば弱みを聞き出すべきだろう?その方が後で有利に動けるってもんさ!』
俺の中の悪魔達が口論している。どうやら俺の中には天使はいないようだ。
彼らの主張を聞く限り、どうやら参考にしてはいけないということが、女心が分からない俺でも分かった。
ならば、俺独自の答えを見つけなければいけない。
俺が今、生き残る為に出来る最良の選択は…
「成瀬」
「…なに?」
「…可愛いよ…」
………何を言ってるんだ俺は………
『こいつ…怒ってる女を褒めるとか…』
『馬鹿だとは思ってたけどここまでとはね…』
俺の中の悪魔達が呆れている。そりゃそうだ。言った本人だって呆れているのだから。
とりあえずなんか言わなきゃと思って、咄嗟に出た言葉が可愛いだったんだよ。しょうがないよね!成瀬可愛いし!
いくら選択肢に迷っていたからって、怒っている女子に可愛いとか…。数ある選択の中で最悪の回答を導き出してしまったとしか思えない…
相当怒ってるだろうなぁ…と思い、成瀬の方を恐る恐る見ると、
「…………」
何やら少し顔を赤らめて、ぼーっとしていた。一体どうしたんですかねぇ…
「あの…成瀬さん?」
「!!……なに?」
俺が声を掛けると、直ぐにいつもの調子に戻った。何があったんでしょうか…
「ま、まあ、あんたも反省してるみたいだし、今日のところはこのくらいで勘弁してあげる」
そう言って、成瀬は教室を出て行った。も、もう、怒ってない…のか?
まあ、これで朝の平和は取り戻した事だし、ゆっくりラノベを
「ねぇ晃くん、私今とても機嫌悪いの。何故か分かるわよね?」
どうやら平和を取り戻すのは、もう少し先のようだ。泣いていいかな…?
鈴井の折檻を受け、今は朝のSHR、普段は何事も無く終わるはずなのだが、今日は少し違った。
「皆!ちょっと聞いて欲しい事があるの!」
SHR終了間際、仁美が大声でクラスに呼びかける。
仁美の声に驚く者も多かったが、直ぐに皆、聞く姿勢になる。
「ごめんなさい!私、リレー走れなくなりました」
よく通る声で放たれた衝撃発言に、クラスは騒然とする。
「り、理由を聞かせてもらえる?」
仁美の近くにいた女子が尋ねる。
「皆、私が勝樹と付き合ってるってのは知ってると思うけど…」
どんどん声がしりすぼみに小さくなっていくな。まあ、無理もないが。
仁美の言葉に皆頷く。どうやら周知の事実のようだ。
「でさ、勝樹もリレーの選手に決まって、それでもし、直接戦うって事になったら…」
なるほど、言葉が切れてしまったが、手を抜いてしまうかもしれないと言う事か。
もし好きな人がいて、その人に勝って欲しいと少しでも思ってしまったら、それが影響を及ぼすのは用意に想像できる。
本人にはその気が無くても、無意識に力を制限してしまう事もあるだろう。彼女はそれを危惧したのだ。
「皆!ほんとにごめんなさい!」
仁美は頭を下げる。人一倍正義感の強い彼女のことだ。この判断と謝罪は、相当な覚悟のもとだろう。
『気にしなくていいよ!仁美!』
誰かが発した言葉は、とても優しいものだった。
『そうそう、しょうがないって。私だって同じことするかもだし』
『一番辛いのは仁美だって分かってるから!だから謝らないで!』
クラス中から、仁美を慰める声が掛けられる。彼女がいかに信頼されているか、それが明確に分かる光景だった。
「皆…ごめん…」
仁美は今にも泣きそうになっていた。俺にはそれが、申し訳無いという涙なのか、嬉し涙なのかは分からなかったが、悪いものではないのだろう。
このクラスは、仁美の勝手と謝罪を受け入れた。それは、このクラスの団結力や、信頼関係の良さを如実に表していた。それは間違い無くいい事だ。
しかし、それと同時に、新たな問題が出来てしまっていた。
『じゃあよ、リレーは誰がやるんだ?』
男子の誰かが言った言葉は、的確にその問題点を指していた。
体育祭は今週末に控えている。新メンバーが決まったとして、バトンを渡す練習が、他に比べて圧倒的に少ない。それに、男子からバトンを貰い、男子にバトンを渡すということは、意外にもハードルが高い。仁美や荒川は、コミュ力の高さから容易に男子と馴染み、鈴井はそういった事をあまり気にしないタイプだった。つまり実は三人は、リレーをやる上ではうってつけのメンバーだったと言える。しかし、このクラスには、足が早く、尚且つコミュ力が高い女子はこれ以上は恐らくいない。俺が把握していないだけかもしれないが。そう考えると、この問題は簡単なようで、とても面倒なものだと言えるだろう。
『美沙ちゃんやったら?足速かったよね?』
誰かが促す様に言う。
「わ、私?」
成瀬の前の先にいた女子が答える。どうやら彼女が美沙のようだ。
『いいんじゃない?足速い人の方がいいと思うし』
『私も賛成。運動部だから走るの好きそうだしね』
『美沙ちゃんなら私達よりも貢献出来ると思うから。ね?』
「で、でも、私…」
『大丈夫!美沙ならきっとやれるよ!』
多くの女子が賛成する。それに対し、彼女は複雑な表情をする。一見、標的を見つけて押し付けている様にも見えるが、恐らく彼女達には悪意はない。純粋に推しているのだろう。だが、悪意なき凶器もこの世には存在する。何気無い言葉が誰かを傷つけたり、純粋に褒めていても当人には皮肉に聞こえたり。この場合は、空気による理不尽な暴力、とでも言おうか。多くの賛同者がいる事で、今この場には美沙という女子がやるという空気を作り出している。それは、断る事は許さないと、圧力を掛けている様なものだ。そして何よりたちが悪いのは、その空気を作り出した当人達に悪意のないところだ。もし彼女が強く拒めば、周りを傷つけかねないし、やんわりと断ろうとすれば、おだてる、同情を買うなどして押し通すだろう。本人に選択させる余地を与えず、にも関わらず、責任は選択した本人のみにのしかかる。理不尽なものだ。しかし、世界はいつだってそういうものだ。学校、会社、政治、そういった人が集まるところには必ずそういった空気は存在する。空気は、時代、そして歴史すらも変えてきた、決して逆らう事の許されない、この世の絶対の暗黙のルールだ。
今正にそういった空気がこの場に流れている。彼女にリレーをさせるという空気が。こうなってしまっては、彼女は今のところ打つ手はない。
だが、一つだけ、打開策がある。それは、この場に流れている空気を変えるというものだ。
今この場に流れている空気が、断る事は悪というものならば、その空気を変えてしまえばいい。逆らう事が許されないのが空気なら、逆らわずに済む空気を作り出せばいい。
俺は、そのきっかけを作る方法を知っている。
「やりたくなければ、やらなくてもいいんだぞ」
「…………え?」
彼女は驚いた様子で此方を見る。無理もない、突然話しかけられたんだからな。
「体育祭は楽しむものだからな。やりたくない事までやる必要はないさ」
「…で、でも…」
やはり俺だけじゃ効果は薄いか。彼女はまだ迷っているようだ。
「美沙、大丈夫。何かあったらそこの地味な男が全部責任取るみたいだから」
「なんで俺が全責任を…。半分くらいお前も負えよ」
「絶対嫌。灰田に頼んだら?」
「えぇ!?俺かよ!?」
健のオーバーな驚き様に、クラスにどっと笑いが起こる。彼女もクスクスと笑っている。よし、作戦成功だ。
「で、どうする?断っても健がなんとかしてくれるから大丈夫みたいだぞ」
「おい晃!さりげなく全責任を押し付けてんじゃねぇ!」
健のリアクションにまた笑いが起こる。流石だ、健。
「そう、だね。リレー、やってみようかな」
先程とは違い、スッキリした表情を浮かべている。どうやら、彼女自身は、リレーをやってもいいとは思っていたが、その場の空気に流されてしまうのが嫌だったのだろう。彼女に選択の余地が出来たことで、心に余裕が生まれたのだろう。今の彼女には迷いが無いように見える。
結果さえ見れば、変わっていない様にも取れるが、押し付けられたのと、本人が進んでやるのとでは意味がまるで違う。モチベーションはもちろんのこと、思い出にも影響する。押し付けられたとなれば、それは嫌な思い出として残るが、自分から進んでとなれば、少なくとも悪い思い出にはならないだろう。
いや、違うな。そんな理屈的なものじゃない。俺は、皆が笑顔でいられる様にしたかっただけなのだろう。
俺はいつだって皆と楽しみたいと、笑顔でいたいと、そう思っていた。しかし、かつて俺は選択を間違え、笑顔を奪ってしまった。だから今度は、選択を間違えない様に、今度こそ、笑顔でいられる様に。
だから俺は、あの時の俺とは決別した。
だから俺は、大好きだったバスケを辞めた。




