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源義家と藤原清衡  作者: Harry
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第七話「十三湊」

 天喜三年(1055年)五月一日。鎮守府将軍の名において、多賀城下で開催された武術大会は、準決勝と決勝を残すのみになった。最後に残った四人は、源義家・安部貞任・藤原則明・藤原経清。義家・則明・経清は鹿島派師範であり、貞任は、伝説の武術、阿修羅王の奥義を極めたと言われている。誰が最終勝者となってもおかしくない。

 準決勝の組合せは、安部貞任対藤原則明、源義家対藤原経清である。第一試合に出場するために、壇上に上ろうとする則明に、貞任が声をかけた。

「わしは、安部一門の名誉を背負ってこの武術大会に臨んでいる。則明殿の双肩にも、鹿島派の威信がかかっているであろう。そこで、互いに本気で戦うためにも、奥義を尽くしたい。我が阿修羅王の剣術は、本来は二刀流。木刀を、二本使っても良いかな?」

「よろしいでしょう。二刀流が使えなかったから負けたのだと、言い訳はされたくはないですからな。」

則明の快諾に、貞任は、演武場の脇にいた藤原業近から、二本目の木刀を受け取った。

「はじめ!」

審判の佐伯経範の合図と共に、双方、剣を構えた。貞任の構えは二刀流。この時代を代表する武芸の二大門派、鹿島派・諏訪派にも、二刀流の剣術は無い。則明も、二刀流の相手と対峙するのは、初めてであった。

「二刀を一度に使うには、相当な膂力が必要なはずです。木刀とはいえ、貞任殿は、二刀を同時に振り回せるのでしょうか?」

演武場の脇で、経清と共に試合を見ていた景季が、経清に問いかけた。

「私は、鬼切部で、二刀流の貞任殿と対峙した。その時は、木刀どころか、鋼鉄の剣を二本、自分の手足の様に使いこなしていた。貞任殿の二刀流は恐ろしいぞ・・・。」

経清は、つぶやくように景季に答えた。経清は、三年前、鬼切部の戦いの最中、貞任と対峙した時のことを思い出した。あの時、貞任は、空を切るように敵兵を倒し、全身に返り血を浴びた、阿修羅の如き形相であった。

 演武場の壇上では、緊迫した空気が二人を包んでいた。先に仕掛けたのは、貞任の方であった。二本の木刀が、則明に襲い掛かる。則明が、二刀を同時に受け止めようとした刹那、右の刀が弧を描いた。則明の左脇腹を狙っている。則明は、貞任の右手を蹴り上げ、寸出の所で刀の軌道を変えると、後ろに跳び下がった。

 貞任は、間髪入れずに則明に襲い掛かっていく。やはり、則明といえども、初めて相対する二刀流に翻弄されているようだ。試合は、貞任優勢のまま展開してゆく。則明は、貞任の剣をギリギリの所でかわしながらも、演武場の隅の柱の方へと追い詰められていった。その時だった。則明は、宙に舞い上がると、柱を蹴った。その反動を利用したスピードで、貞任に鋭い突きが繰り出される。

「鹿島派の奥義、鷹の爪か・・・」

経清・義家・景季等の鹿島派師範は、固唾を飲んで奥義の行方を見守った。貞任は、二本の木刀を交差させて、宙から襲い掛かる則明の突きを受け止めた。次の瞬間、木刀に手をかけたまま、則明が、空中から反動をつけて蹴りを放った。さすがの貞任もかわしきれず、蹴りはまともに貞任の右肩に当たった。鷹の爪が、右肩を襲ったのである。

 しかし、貞任は崩れなかった。貞任は、交差させた木刀を強引に左右に開くと、今度は、バランスを崩した則明の腹に蹴りを入れた。空中で体勢を整える間も無く、則明は、貞任の蹴りをまともに食らった。則明の木刀が、音を立てて壇上に落ちた。

「それまで!」

経範は、貞任の勝利と判定した。頼義をはじめ、源氏の郎党達は騒然となった。特に、鹿島派の門弟達にとっては衝撃的であった。坂東において、鹿島派師範の藤原則明と藤原経清の存在は、絶対的であった。今まで、誰一人として、則明と経清が敗北するところを、見たことが無かったのである。

「さすがだ・・・」

鬼切部で貞任と対峙した経清には、ある程度、予測出来た結果であった。この男に勝てるとすれば、源氏の御曹司、義家しかいないであろう。しかし、義家は、まだ十七歳。次の自分との試合に負けるようでは、貞任に勝つことは出来ない。

「次の試合。源義家対藤原経清。」

佐伯経範の合図で、義家と経清は、壇上に上った。義家にとって、経清と則明は、鹿島派に入門するきっかけを作った存在であった。二人の強さに憧れ、義家は、鹿島派で修行することを決めた。その憧れの一人、則明は、貞任に敗北した。今度は、自分自身が、少年の日の憧れの存在に勝てるのか。義家は、感慨深い思いで経清と対峙した。

「はじめ!」

経範の合図と同時に、義家は、経清に向かって突進した。経清に対する、気後れを振り払うための先制攻撃である。経清は、難なく義家をかわすと、ガラ空きになった義家の背中に、木刀を振り下ろした。次の瞬間、義家は、振り返りもせずに蹴りを繰り出した。寸前で義家の動きを見切った経清は、後ろに跳び退った。

 義家は、間髪入れずに、再び経清に襲い掛かる。一進一退の攻防が続く。鋭い攻撃を繰り返す義家に、疲れの色は見えない。恐るべき気力である。次第に防戦一方になった経清は、体勢を立て直すために、一旦、義家から距離を取った。そして、腰を屈めて姿勢を低く取ると、そのまま、義家の足をめがけて突きを繰り出した。

「白虎か。」

景季が、鹿島派奥義の名をつぶやいた。義家は、宙に舞い上がって経清の突きをかわす。が、虎の牙は、着地しようとする義家の足を、虎視眈々と狙っている。義家は、虚空で一回転すると、頭上から経清に突きを繰り出した。経清は、真横に転がり、その突きをかわず。義家は、空中で再度反転すると、フワリと壇上に降り立った。息をも突かせぬ二人の攻防に、観客達は沸き立った。

「さすがは、八幡神の生まれ代わりと言われるだけのことはある。たった四年半で、ここまで腕を上げられたか・・・。」

経清は、目の前の十七歳の少年の成長に、驚きを隠せなかった。経清の言葉に、義家は、笑顔で答えた。少年の日、憧れの武将であった経清と互角に戦える喜びに、義家の胸は打ち震えていた。

 二人は、全身全霊の力を木刀に込めた。二人共、次を最後の一撃にするつもりであった。義家と経清は、上段に構えたまま、正面から激突した。次の瞬間、経清の木刀が宙を舞った。義家の膂力が、経清を上回ったのだ。

「私の負けです。」

経清は、素直に義家に一礼した。義家は、勝ち誇った態度は少しも見せず、経清に礼を返した。勝敗の差は、膂力の差であった。剣技においては、自分はまだ、経清には及ばない。義家は、素直にそのことを受け入れていた。

「やったぞ!義家が、あの経清に勝った!」

義家の勝利に、誰よりもはしゃいでいたのは、鎮守府将軍の頼義であった。若き英雄の誕生に、源氏の郎党達も沸き立っていた。

 試合は、決勝戦を残すのみとなった。最後に勝ち残ったのは、源義家と安部貞任。主催席の頼義と来賓席の頼時は、互いに顔を見合わせた。義家と貞任は、各々の息子であると同時に、源氏と安部氏の後継者でもある。この試合の結果には、陸奥国衙と奥六郡、源氏と安部氏の意地と誇りがかかっていた。

 しかし、壇上の義家と貞任の胸には、そのような気負いは全く無かった。貞任は、義家が経清に勝利した瞬間、今までに感じたことの無い高揚感に捉われた。貞任の三十七年の人生の中で、自分に匹敵する力を持つ強敵に出会ったことは、ただの一度も無かった。鹿島派師範の藤原経清や則明にさえ、脅威は感じられなかった。

 しかし、今、貞任は出会った。己の生涯の中で、おそらく、唯一であろう強敵、源義家に。貞任には、安部氏の誇りも、奥六郡の意地も、どうでも良くなっていた。それは、義家も同様であった。鹿島派最強の師範、則明を倒し、奥州隋一、否、おそらくは、現時点では、この国最強の武将、安部貞任に勝つ。この時の義家は、己が源氏の御曹司であることさえ、忘れていたに違いない。

 緊迫した空気の中、演武場の壇上に上がった義家の姿を見た観客席から、どよめきが起こった。義家が、両手に木刀を持っていたのである。無論、貞任も、二本の木刀を手にしている。義家は、貞任と則明の試合を見て、二刀流に勝つためには、自身も二刀を使うしかないことを悟っていた。演武場の脇に座していた経清は、同門の則明・景季と顔を見合わせた。無論、二人は、義家が二刀を使うところなど、見たことが無い。

「付け焼刃の二刀流が通じるかな?」

貞任は、義家を挑発するようにせせら笑った。義家は、貞任には答えず、左手に持つ木刀を何度も振り下ろし、感覚を確かめていた。

 「なあ、貞任殿。私も貴殿も、賞金として、黄金や馬など貰っても嬉しくはあるまい。」

左手の木刀の感触を確かめながら、義家が、おもむろに貞任に話しかけた。

「そうじゃな。」

貞任は、軽く頷きながらも、義家の質問の真意がわからなかった。確かに、二人共、有り余る程の富を有する家に生まれたため、賞金など必要ない。そもそも、賞金の黄金も馬も、陸奥国衙の出費であり、奥六郡が納めた租税である。源氏と安部氏の御曹司にとって、いつでも入手可能な物に過ぎない。

「そこで、我等二人だけで、賭けをしないか?」

「ほう。面白そうだな。貴殿が勝ったら、何が欲しい?」

義家の提案に、貞任は乗り気になった。負けた方が、勝った方の望みを適える。武術大会や賞金など関係無い。互いに戦う二人が、自分達で、褒美を決めるのである。貞任は、義家を改めて見直した。とても、格式に囚われた、朝廷の武将とは思えない。

「私が勝ったら、十三湊に連れて行って欲しい。」

「なっ。」

義家の言葉に、貞任は驚きの表情を浮かべて、相手を凝視した。

「そう驚くことは無いでしょう。無論、無位無官の私は、朝廷のために調査に行くのではありませぬ。ただ、私は、奥六郡の更に奥に、何があるのか、この目で見たいのです。最果ての地に行ってみたい。それが、私の望みです。」

そう語る義家の目は、純粋な輝きに満ちていた。藤原登任の陸奥守任官以来、奥六郡の富を巡って、奥州では策謀家達の権謀術数が渦巻いていた。貞任の心にも、いつしか、人を疑い、警戒する習慣が身に付いてしまった。

貞任は、義家の瞳に、陰鬱な策謀など微塵も無い、冒険心に溢れた少年の面影を見出していた。貞任は、義家の純粋な瞳に、ふと、自分が忘れていた、大切な何かを思い出した様な気がした。それは、穢れの無い心とでも呼ぶべきかもしれない。

「よかろう。」

貞任は、義家の申し出を快諾した。父の頼時や、龍王は反対するであろう。しかし、貞任は、義家の目を信じた。自分が、反対する人々を説得すれば良い。

「で、貞任殿は、私に勝ったら、何を望まれる?」

今度は、貞任が、義家の問いに答える番であった。

「そうじゃな。藤原経清殿を、我が妹、有加の婿に頂きたい。」

「なっ。」

今度は、義家が驚く番であった。

「それは、経清殿と有加殿のお気持ち次第ですが・・・。二人が互いに望んでいるのであれば、私からも、父上にお願いすることをお約束いたそう。もっとも、私が勝っても、そうするつもりですが。」

義家は、貞任の申し出を受け入れると、ニコリと微笑んだ。

「二人共、準備はよろしいかな?」

審判役の経範は、壇上に上がると、二人に声をかけた。義家と貞任は、互いに顔を見合わせ、大きく頷いた。既に、二人の心には、友情に似た何かが芽生えかけている。

「はじめ!」

経範の合図で、最後の対決が始まった。双方、両手に木刀を持ち、二刀流の構えのまま、微動だにしない。先に動いたのは、貞任であった。貞任は、義家の左手の木刀を狙って攻撃を繰り出した。当然であろう。二刀流の経験が無く、右利きの義家には、左手の剣裁きが満足に出来ないからだ。だが、貞任の読みは外れた。義家は、左手の木刀で、器用に貞任の攻撃を裁いてゆく。

「義家様は、二刀流の稽古をしたことがあるのか?」

驚いた経清が、傍らの則明と景季に問いかけた。

「いや。しかし、私は、義家様が、左手で剣を使う稽古をしているところを見たことがあります。戦場では、利き腕を怪我する可能性がある。その時、戦えなくなって、戦場から逃げ出すのは恥だと。」

「二刀流は初めてでも、左手でも剣が使えるということか・・・。しかし、たった四年半で、鹿島派の師範に上り詰めながら、独自にそのような修練までしていたのか・・・。」

「更に、義家様は、その間に、宇佐派の奥義をも極められました・・・。」

景季の言葉に、則明は、かっては門下生であった義家を、改めて、感嘆の思いで眺めた。天賦の才だけではない。常人では不可能な修練を積んだことで、義家は、今、決勝の場に立っているのである。則明は、義家と直接対峙する機会は無かったが、最早、自分を超えていることを実感した。

壇上で対峙する貞任も、義家の左手が、弱点にはならないことを悟っていた。しかも、時間が経つに連れて、義家の両手の呼吸が合い始めた。貞任が、血の滲む思いをして身に付けた二刀流を、義家は、戦いながら習得しているのだ。

「恐るべき男よ・・・」

貞任は、目の前の十七歳の少年が、八幡神の生まれ代わりであるとの噂を信じたくなった。しかし、恐怖は感じない。寧ろ、貞任の心は、喜びに打ち震えていた。この少年こそ、自分自身の全身全霊を賭けて戦うことができる、唯一の相手なのだ。

「今こそ見せよう。我が、阿修羅王の奥義を。」

貞任の気の流れが変わったことを感じた義家は、咄嗟に後ろに跳び退ると、相手との距離を取った。貞任の両手が、ゆっくりと弧を描く。そして、その速度が、徐々に早くなり、まるで、貞任の腕が増えたような錯覚を覚えた。

「これが、阿修羅王の剣術・・・」

「そうだ。残念ながら、わしには、腕が二本しかない。だが、その動きによって、我が両腕は、六本にも千本にもなる!」

無数の木刀が、義家を襲う。義家には、貞任の腕が、何本あるのかわからなかった。

「ちっ!」

受け止めることは不可能と判断した義家は、高く舞い上がると、演武場の柱を蹴って、貞任に突きを放った。則明が見せた鹿島派の奥義、鷹の爪だ。

「甘い!二度も同じ技は通じぬわ!」

貞任は、上を向いたまま飛び上がると、義家の体を思い切り蹴り上げた。

「ぐっ!」

呻き声を挙げながら、義家は、更に上空へと蹴り飛ばされ、そのまま、壇上に叩き付けられた。そこへ、貞任が、とどめの一撃を突きつける。義家は、何とか転がってかわすと、勢いをつけて立ち上がった。

「このままでは・・・」

負ける。そう思った義家は、咄嗟に両目を閉じた。貞任の腕は、現実には二本しかない。無数に見えるのは、目が錯覚しているからだ。ならば、いっそのこと、見なければ良い。貞任が突進してくるのが感じられる。義家は、体を捻って貞任の身体ごとかわすと、宙に舞い上がって一回転した。そして、貞任の頭上に蹴りを浴びせた。

「ぐっ!」

さしもの貞任も、脳天に蹴りが直撃すると、がっくりと膝を着いた。脳震盪を起こしたようだ。義家は、隙を逃さず、貞任の木刀を叩き落そうとした。が、貞任は、フラつきながらも、腕の力だけで、それを受け止めた。

貞任が、息を切らせながら、ゆっくりと立ち上がる。対する義家も、呼吸が乱れ、肩が上がっていた。両者共に、死力を尽くして戦い合い、体力はほとんど残っていない。

「それまで!両者、引き分け!」

経範は、迷いながらも、試合を止めることにした。これ以上、戦いを続ければ、どちらかが、大怪我を負いかねない。

義家と貞任は、互いに顔を見合わせると、納得したように大きく頷いた。まるで、試合開始時の再現であった。二人は、互いの健闘を称えると、がっしりと腕を合わせた。

「負けはしなかったが、わしは、貴殿を十三湊に案内するぞ!」

「私も、貞任殿との約束は守ります。経清殿のこと、父上にお願いしてみます。」

義家と貞任は、互いに、満面の笑みを相手に贈った。

 演武場の周囲では、割れんばかりの拍手喝采が起こった。頼義は、息子の健闘を称えると同時に、改めて貞任の武勇を実感し、脅威を感じた。奥六郡に貞任がある限り、必ず、陸奥国衙多賀城が、安部の軍勢に蹂躙される日が来るであろう。どうしても、貞任だけは、排除しなければならない。

 来賓席の頼時は、そんな頼義の表情に不安を感じていた。源頼義の陸奥守の任期が終了するまで、あと一年。源氏の棟梁さえ、多賀城からいなくなれば、最早、陸奥国衙など、敵ではない。頼時は、奥州の平和のために、今まで以上に身を粉にして、頼義の信頼を得ることを、固く心に誓った。


 天喜三年(1055年)五月二十日。源義家と藤原経清は、安部貞任に招待され、奥六郡の衣川館にいた。義家には、藤原景季・清原貞衡が、従者として同行した。義家一行を迎えたのは、貞任・宗任・家任・則任の兄弟の他、頼時の娘婿、平永衡である。

 平永衡は、鬼切部の合戦の際、衣川に留まったため、謀反の罪に問われていたが、上東門院の平癒祈願の大赦令によって、安部一門と共に罪を赦されていた。以来、伊具郡司として、陸奥国衙多賀城に出仕し、鎮守府将軍源頼義に仕えている。

 永衡は、鎮守府将軍の名代として、経清と共に多賀城と衣川を往復し、両者間の調停役を担っていた。彼は、頼時の娘の奈加と夫婦となった後も、奈加を伊具には連れずに、従来通り、衣川に住まわせていた。二人の間には、昨年の秋、成丸が誕生している。

 その日、奥六郡の俘囚長の安部頼時は、北方への視察のため、不在であった。貞任が、義家を衣川に招いたのは、無論、武術大会の折の約束通り、義家を十三湊に案内するためであった。経清を招いたのは、源頼義に対し、義家の安全を保証するためであろう。

 頼義としては、自身の郎党を義家の従者に付けたい思いであったが、大宅光任・藤原景通等が同行すれば、安部氏側は、政治的意図があると警戒せざるを得ない。そこで、未だ若く、無位無官の藤原景季・清原貞衡が、従者として選ばれたのであった。更に、貞衡は、仙北三郡の清原武則の六男であり、安部一門にも顔を知られている。

 貞任は、義家一行が到着すると、衣川館において、盛大な酒宴を催した。義家・景季・貞衡・経清は、安部一族の若き兄弟達の歓迎を受け、心ゆくまで楽しんでいた。景季は、当初は警戒を怠らなかったが、貞任・宗任・家任・重任・則任達の屈託の無い、明るい笑顔に誘われて、次第に心を許していった。

「義家殿。これが、我が妹の有加と奈加にござるよ。」

酒宴の最中、安部頼時の娘、有加・奈加の姉妹が、宴席の場に現れた。

「安部頼時の長女、有加にございます。」

「安部頼時の次女で、平永衡の妻、奈加でございます。」

叩頭する有加の美しさに打たれ、義家は、一気に酔いが醒めた様な気がした。一方の貞衡は、奈加の美しさに呆然としている。

「鎮守府将軍源頼義の長男、源義家です。」

義家は、いつになく緊張した面持ちで、丁寧な挨拶を返した。義家の郎党の景季は、御曹司の幼少期より、常に側近くに従ってきたが、剛毅な性格の義家が、これほど緊張している様子を見るのは初めてであった。

「義家殿が、緊張されておるぞ。貴殿も、有加に心魅かれたのかな?」

「いえ、決してそのような・・・。」

貞任のからかう言葉に、義家は顔を赤らめ、しどろもどろになっていた。こういう場面での義家は、やはり、十七歳の少年らしい純朴さが前面に出てしまう。

「藤原景通の長男、藤原景季です。」

「仙北三郡の清原武則の六男、清原貞衡です。」

貞衡は、鹿島派に入門する前に、伯父の光頼と共に、何度か衣川館を訪れたことがあった。そのため、頼時・貞任・宗任・家任等の男性陣とは旧知の間柄であったが、有加と奈加の姉妹に会うのは初めてであった。

「有加。貞衡殿は、武貞殿とは違って、礼節を心得、鹿島派でも一ノ位に昇る、勇猛な武勇の士じゃぞ。」

 清原貞衡の名を聞いた時、有加の表情が微かに歪んだのを見てとり、貞任がたしなめた。清原武則の長男、武貞は、荒川太郎と呼ばれ、無類の女好きとの悪評が広まっている。また、郎党を率いて農家に押し入り、娘を強引にかどわかす荒くれ者との評判であったが、荒っぽい性格の割には、武勇に優れているとは言い難い。先日の武術大会においても、十の内、三矢しか的を射抜くことができずに、予選落ちしている。

 数年前、清原武則から安部頼時に、長男の武貞の妻として、有加を貰い受けたいとの申し入れがあった。気の強い有加は、武貞の悪評を嫌い、絶対に嫌だと言って断った。以来、清原武則とその息子達に、良い感情を抱いてはいない。

「その折には、有加殿にご不快な思いをさせたようで、申し訳ございませぬ。」

貞衡は、貞任の言葉の意味を理解すると、有加に対して、丁寧に頭を下げた。実際、貞衡は、長兄の武貞を嫌っていた。否、父の武則とその一族を嫌っていたと言っても良い。武貞の母は、安部富忠の娘、貞子で、武則の最愛の妻である。武則は、武貞を目に入れても痛くない程にかわいがり、領内で、度々問題を起こしても、笑って見過ごしていた。

 一方、貞衡の母は、仙北三郡の農民の娘で、貞衡を産み落とした後、すぐに亡くなっていた。武則は、その娘の名前すら覚えておらず、母の身分が余りにも低い故に、貞衡は、清原一族の中でも浮いた存在であった。幼少の頃には、兄の武貞から、奴婢の様に扱われている。貞衡は、父と兄弟を憎み、その故にこそ、清原の家には二度と戻らぬ決意を固め、鹿島派に入門したのであった。

「ところで、経清殿。わしと義家殿は、試合の前に、二人だけで賭けをしてのう。」

貞任が、おもむろに経清に話しかけた。義家と貞任の賭けは、その場にいる誰もが知っていた。故に、今、こうして衣川館に集ったのである。その話を思い出し、経清と有加は顔を赤らめた。貞任が賭けたのが、二人の婚礼であったからだ。

「そうです。経清殿と有加殿に異存がなければ、私から、父上に口添えいたします。」

義家は、経清と有加の表情を交互に伺いながら、口添えを申し出た。男女の間の事にうとい義家でも、頬を赤く染めた二人の顔を見れば、経清と有加が、互いに魅かれあっていることが、明らかにわかる。

「そうじゃ。父上には、わしと宗任から、口添えをしておこう。源氏の御曹司の義家殿と、この貞任が協力すれば、成し遂げられぬことなどは何もない。あとは、二人だけで、ゆっくりと気持ちを確かめ合うが良い。」

経清は、貞任の言葉に、なおも顔を赤らめると同時に、このまま、源義家と安部貞任が、共に協力してこの国を変革してくれるのではと、微かな希望を抱いていた。


 その頃、安部頼時は、宇曽利の湖にいた。三年前、源頼義が陸奥守に任官した時と同様、頼時は、宇曽利の湖畔で、金剛杖を手にした修験者と共にいた。極北の天球には、北極星とその周囲を巡る七つの星々が、鮮やかな輝きを見せている。

「龍王様、阿修羅王が、源氏の御曹司を十三湊に案内する様です。」

片膝を着いた頼時は、龍王の顔色を伺いながら報告する。

「源氏の御曹司、源義家か。確か、八幡神の生まれ変わりと言われておるとか。実際、御主のその目には、いかなる男に映ったか?」

龍王は、天球の北極星を見つめながら、頼時に問い返した。

「はい。武術大会では、あの藤原経清を倒し、阿修羅王とも互角に戦いました。しかも、御年十七歳。このまま成長すれば、阿修羅王さえ凌駕する、武神になり得ます。あるいは、宇佐八幡宮において、本当に神託があったのやもしれませぬ。ただ、性格的には、純粋で、欲望とは無縁の男と思います。我等に仇なす存在になるかは、まだわかりませぬ。」

「うむ。源義家という男、まさに戦乱の寵児ともいうべき宿命を背負っておる。多くの罪無き者を殺し、八幡太郎はおそろしやと、世情から恐れられる存在となろう。」

「それでは、その八幡太郎が引き起こす戦乱を未然に防ぐために、夜叉王に願い、早急に源義家の命を消した方が良いのでは?」

頼時の問いに、龍王は、金剛杖で天空の星々を指し示した。

「いや。天王の覇業の成就の過程で、八幡太郎の果たす役割は大きい。故に、軽々しくその命の灯を消してはならん。見よ。極星を守護する北斗の七星が、赤々と輝いておる。源義家という男の宿星は、北斗七星。おそらくは、天王の覇業を輔くる存在となろう。

だが、そこに至るまでに、北斗七星の武将によって、この奥州の大地には、未曾有の血が流されることになる。天王の治める地、黄金楽土をこの世に現出させるための、産みの苦しみというべきか・・・。」

龍王には、見えていたのかもしれない。三年間続いた奥州の平和が破れ、奥六郡を舞台に、源氏と安部氏の壮絶な死闘が繰り広げられる光景が。

「源義家を、この宇曽利に案内せよ。」

あまりにも唐突な命令に、頼時は、怪訝そうな顔をして、龍王を見返した。

「わしも直に会って、この目で判断したい。北斗七星の宿命を持つ男を。」

龍王は、この日初めて、天球から目を離すと、傍らの頼時の目をじっと見つめた。頼時は、龍王の眼差しを直視できずに、目を逸らすように叩頭した。

「ところで、藤原経清と有加の婚礼はどうなっておる?」

龍王が、唐突に話題を変えた。

「はい。当人同士は問題なく。あとは、源頼義の許しを得るばかりですが、こちらについては、義家が協力し、口添えしてくれるそうです。」

「そうか。天王は、北斗七星の導きによって生まれ出ることになるのか・・・。」

龍王の言葉に、頼時は、天王の正体を初めて理解したような気がした。


 十三湊は、津軽半島の西海岸、十三湖の砂州の上に形成された、当時の日本有数、奥州最大の港湾都市である。十三湖は、津軽の明峰岩木山に源を発した岩木川が北流し、日本海に注ぐ直前、砂洲に阻まれて形成した湖で、湖を塞ぐように南から延びた砂州の上に、港町が立ち並んでいる。

 源義家一行は、衣川館を出ると、北上川を北上した。十三湊への旅に同行したのは、源義家・藤原景季・清原貞衡・藤原経清・平永衡に、案内役の安部貞任を加えた、計六名である。経清と永衡は、安部氏の婿(経清は婿候補)として、奥六郡とその北に広がる大地を見て欲しいとの貞任の要望を快諾し、同行を決めたのであった。

 北上川を船で北上した一行は、奥六郡最北の地、岩手郡の厨川柵に入った。厨川柵は、雫石川と北上川の合流地点の断崖絶壁に建てられた天然の要害で、嫗戸柵と連柵を成している。厨川の城主は安部貞任で、貞任は厨川次郎とも呼ばれる。貞任を除く一行は、初めて目にする厨川柵の堅牢さに、ただただ、驚くばかりであった。

 当時の日本には、防衛のための城は皆無に近い。鎮守府胆沢城は、既に打ち捨てられ、陸奥国衙多賀城と出羽城は、長きに渡る平和の間に、城壁を失い、防衛能力は完全に失われていた。坂東には、城と呼べる建物は皆無で、武家の館は、平屋の建物に簡単な生垣で囲った程度である。当時の武家には、そもそも籠城という概念が無いのである。

 厨川柵で一夜を過ごした一行は、翌日、いよいよ、奥六郡の北の境界を越え、爾薩体に入った。奥六郡の北方の爾薩体・閉伊は、三十八年戦争の末期、文室綿麻呂が到達した地で、当時の律令国家にもその名が知られていた。その更に北方には、都母・宇曽利・津軽など、朝廷が把握していない、未知の大地が広がっている。

 爾薩体から西北に進んだ一行は、本州西北岸の果ての地、津軽に入った。馬で歩を進める一行は、津軽に至る道程で、農作業に従事する何人もの農民達の姿を見かけた。田畑が広がる風景は、陸奥・出羽両国の領域内と、さしたる違いはない。農民は、顔の彫りが深く、何点か蝦夷の特徴を備えているが、話す言語は、義家達とほとんど変わらなかった。しかし、農民達の顔が、皆、生き生きとして見えるのは、気のせいだろうか。

「この辺りの民は、律令国家の公地から逃亡してきた流民達が多い。流民達は、山野が広がる土地を開墾し、農耕を広め、元々の住民であった、蝦夷達と混血した。律令国家の重い租税から逃れてきた流民達にとって、この北方の地は、まさに楽園であろう。確かに気候は厳しく、民は大雪と戦っておるが、租税と称して苛烈に全てを奪い去る、貪欲な受領は存在しないからな。」

「爾薩体や津軽も、安部一族の領地なのか?」

経清は、陸奥国衙がこのことを知れば、必ずや、この地に郡を設置し、租税を徴収するであろうと想像しながら、貞任に問うた。

「爾薩体の中で、仁土呂志辺・久慈・糠部は、大伯父の富忠殿の領地じゃ。他の地域は、渡嶋蝦夷の一族が治めておる。」

「渡嶋蝦夷・・・」

聞き慣れぬ言葉に、義家と景季は、質問の眼差しを経清に向けた。しかし、経清とて、陸奥に来てからその名を聞いたことがあるぐらいで、詳しい説明など出来ない。その時、経清に助け船を出したのは、仙北三郡出身の貞衡であった。

「渡嶋とは、津軽の更に北方の海に存在する、広大な大地です。四百年以上昔、斉明帝の御世に、阿部比羅夫将軍が、渡嶋に遠征したとの伝承があります。渡嶋には、奥州とは比較にならぬほど、多くの蝦夷が暮らし、渡嶋の更に北方の島の流鬼国(現在のサハリン)と、かっては唐土の東北に存在した、渤海国と交易を行っておりました。

渤海国が、契丹族の建国した、遼によって滅ぼされた後は、多くの移民が、渡嶋に流れ着きました。今回の目的地の十三湊は、渡嶋蝦夷と奥六郡・仙北三郡の交易拠点です。無論、渡嶋蝦夷だけでなく、大陸の宋や半島の高麗とも交易しております。」

義家は、貞衡の語る北方世界の模様に、一段と興味を覚えた。京や坂東にいるだけでは、決して得ることの出来ない知識である。京の朝廷は、遣唐使の派遣を中止した後、博多において、細々と交易を行っていたに過ぎない。

 博多の商人の交易対象は、せいぜい、大陸の宋と半島の高麗程度で、大陸のの北方にどのような国々が存在しているのか、全く無関心であった。無論、坂東では、異国の情報など、入手は不可能に近く、誰一人、関心を示さない。

「そうじゃ。渡嶋の日高見国には、陸奥とは比較にならない量の黄金が埋蔵されており、渡嶋蝦夷達は、その黄金によって、異国から珍しい品々を買い、それを他国に売っておるのじゃ。また、津軽・宇曽利など、渡嶋に限りなく近い地域には、渡嶋蝦夷達が、農耕を営み、朝廷とは別の国を築いておる。どこまで把握しておるかはわからぬが、奥六郡とその背後の渡嶋蝦夷の富を狙い、戦を仕掛けてきたのが、前陸奥守の藤原登任じゃ。」

貞衡の説明に、貞任が補足した。義家は、ようやく、鬼切部の合戦が勃発した理由を理解した。貪欲な受領にとっては、律令国家の圏外にある渡嶋蝦夷の富は、喉から手が出るほど欲しいに違いなかった。同時に義家は、八年前、祖父の頼信の死の床で、大江成衡・匡房父子が語っていた話の内容を思い出した。

「未だに誰にも、この国の新しい姿は見えておりません。律令国家に代わり得る、新しい政治の仕組みが生み出されない限り、どれだけ、朝廷がその権威を失おうとも、律令国家が続くことは間違いありません。」

その新しい国は、今、この極北の地にあるのでは無いだろうか。渡嶋蝦夷は、律令国家の外で、律令制とは異なる政治体制の下、自分達の国を築いている。彼等の国の制度を参考にすることで、律令制に代わる、新しい国の姿が見えてくるのではないだろうか?

 そして、安部一族は、奥六郡の地に、渡嶋蝦夷と共に、京の朝廷の支配から脱却した、新しい国造りを目指しているのではないのであろうか?であれば、源氏と安部氏は、共に手を取り合って、新しい国造りに邁進できるのではなかろうか。

「もうすぐ、十三湊じゃ。」

貞任の声に、義家は、空想の世界から一気に引き戻される思いであった。


 十三湊に到着した一行は、安部貞行の商館に入った。安部貞行は、頼時の従兄弟で、奥六郡の物産を十三湊に運び込み、蔵を管理する、安部一門の代理人の役割を果たしていた。渡嶋蝦夷の他、異国の商人とも取引をし、その才能は、武将というよりも商人に近い。

 十三湊の港町には、渡嶋蝦夷・流鬼国・粛慎・遼・高麗・宋の商人の館も立ち並んでいる。貞行の館の隣には、仙北三郡の清原一門の代理人、吉彦雅綱の商館があった。清原氏も、安部氏と同様、十三湊の交易によって、莫大な利益を得ていたのである。

 貞行の館で一泊した一行は、翌日、彼の案内で、十三湊の宗主の館を訪れた。宗主は、代々、乾闥婆王と呼ばれ、十三湊を開港した渡嶋蝦夷の代官として、港町の中で起こった揉め事や、紛争を調停する役割を担っている。また、海賊や外敵の侵入に対しては、近隣の渡嶋蝦夷を集めて、武力による防衛の役割も担っていた。

 先年、平繁成が、十三湊を襲撃した時も、乾闥婆王が中心になって戦い、港町の防衛には成功したものの、十三湊防衛のために兵を借り出された近隣の村々は、繁成軍の非道な放火によって、焼き払われてしまった。故に、渡嶋蝦夷の怒りを抑え切れずに、奥六郡の安部一族が、陸奥国衙の軍勢と戦う必要に迫られたのである。

「ようこそ、お出で下されました。この町は、この国でも数少ない異国情緒の溢れる町。十分に楽しんで下さい。」

乾闥婆王の歓迎に、一同は、丁重に礼の言葉を述べた。乾闥婆王は、年の頃は、凡そ六十歳ぐらいであろうか。既に、髪にも髭にも、白いものが混じり始めている。彫りが深く、二重のその容貌からは、蝦夷の血を色濃く引いていることがわかる。

 乾闥婆王自身、若い頃には、貿易船に乗って、北の流鬼国や、大陸の宋・遼、半島の高麗にも訪れたことがあった。義家にとって、乾闥婆王が語る異国の物語は、若き冒険心を高ぶらせるに十分な内容であった。

「私も、異国に行ってみたい。大きな船に乗って、大海原を駆け巡ってみたい。」

義家は、大型船の舳先に立って、大海原を航行する自分を思い描き、気持ちが高揚するのを感じた。もし、源氏の御曹司として生まれていなければ、船乗りになって、海を渡り、異国を旅する道を選んでいたかもしれない。

 十七年の間、そのほとんどを坂東と畿内で過ごした義家にとって、この北の果ての港町は、見る物全てが新鮮であり、義家の世界観を大きく変えた。義家は、十三湊を訪問できたことに、心の底から喜びを感じていた。

「貞任殿。十三湊に案内してくれて、本当にありがとう。」

義家は、貞任に心の底から礼を述べた。それは、義家に同行した、景季・貞衡・経清・永衡も同様であった。貞任も、そんな義家の姿に、ますます、好感を覚えた。義家が、源氏の棟梁であれば、安部一族は、源氏と戦う必要は無いのかもしれない。

「明日、渡嶋の船と遼の船が、港にやって参ります。ぜひ、ご覧になって下さい。」

「ありがとうございます。楽しみにしております。」

義家は、やや興奮した口調で、乾闥婆王に礼を述べた。


 翌日の午前、十三湖の砂州を散策していた一行は、西方から十三湊に向かって帆を進める、一艘の船を発見した。船体には、二本の柱が聳えた立ち、各々、大きな帆が張られた大型船である。

「あれが、乾闥婆王殿が仰っていた、遼の船であろう。」

目を細めて船を眺める一行に、貞任が説明した。と、その時、船上から、一本の煙が立ち上るのが見えた。よく見ると、遼の船の脇には、小型の船が横付けになっている。

「刀伊じゃ!」

貞任が叫ぶと同時に、乾闥婆王を中心に、武装した兵士達が、海岸沿いに集結し始めた。

「貞任殿。刀伊とは?」

周囲の状況が呑み込めない一同を代表して、経清が尋ねる。

「刀伊とは、謂わば、海賊じゃ。三十数年前の寛仁三年(1019年)、壱岐・対馬、更には筑前国に海賊が侵入した事件を知っておるか?」

貞任の答えに、一同は、ようやく刀伊という言葉に思い至った。寛仁三年(1019年)三月二十七日、九州と朝鮮半島の間の対馬に、突如、海賊が侵入した。五十艘以上の船団で襲来した海賊の総数は、凡そ三千人。対馬の各地で、略奪・放火・殺戮を繰り返した。

 同日、海賊の船団は壱岐に到達。対馬と壱岐は、海賊の襲撃で、壊滅的な状況に陥った。壱岐守藤原理忠は、百四十七人の兵を率いて海賊の討伐に向かうが、相手は三千。多勢に無勢で、国衙の兵達は、玉砕して果てた。

 更に、翌月の四月八日、海賊は、筑前国怡土郡に上陸。八日~十二日にかけての四日間、海賊は、博多とその周辺を荒らし回った。四月十二日、大宰権帥藤原隆家が、現地の豪族を糾合して一斉に反撃に転じ、ようやく海賊を撃退した。

「刀伊の正体は、かって、渤海国の北方(現在の満州)に割拠した、黒水靺鞨の後裔、女真族じゃ。女真族は、渤海国の滅亡後、一部は遼に服属したが、中には、未だに遼と戦い続けている部族もいる。

遼に服属しない部族は、陸では馬賊に、海では海賊になって、周辺の海を荒らし回っているのじゃ。博多に襲来したのも、女真族の一部族じゃ。北の海では、遼や渡嶋・流鬼国の船団が、頻繁に被害に合っている。今、遼の船を襲っているのも、間違いなく、女真の海賊共であろう。」

貞任が解説している間に、船影は、ますます港に近づいて来る。遼の船は、何とか十三湊まで辿り着こうと必死なのであろう。しかし、遼の船の後ろに、五艘もの船影を認めた、貞任の顔色が変わった。今まで、遼の船に隠れて見えなかったのだ。

「女真の海賊共は、このまま上陸して、十三湊を襲うつもりじゃ。」

言うが早いか、貞任は、乾闥婆王の下へ報告に走った。義家達も、貞任に続いて港町を走り抜ける。海岸沿いには、乾闥婆王の配下、五十名の兵達が集結していた。その中には、安部貞行・吉彦雅綱の姿もある。乾闥婆王も、既に、海賊の新たな五艘の船影を認め、臨戦態勢に入っているようだ。

十三湊の砂州は、海岸沿いに長く、海賊が、どの地点から上陸して来るかわからない。防衛のためには、兵力を分散させるしかない。

「貞任殿。我等も、防衛に参加しよう。」

義家の提案に、貞任は、大きく頷いた。景季・貞衡・経清・永衡も、互いに顔を見合わせると、目配せして頷いた。十三湊の兵達は、海岸沿いに広く散開し、海賊の上陸を待ち受けた。遼の船と海賊の船、合わせて七艘は、横に一列に並んで、陸地に近づいて来る。船縁には、海賊達が立ち並び、陸上に弓矢を放つ準備をしていた。

「遼の船は、既に制圧されていると思え!船から下りる者は、悉く敵と見做せ!」

乾闥婆王の掛け声を合図に、十三湊の五十名の兵達が、一斉に弓を構えた。まだ、海賊船は海上にあり、互いに、矢の飛距離の遥かに圏外に位置している。

 義家は、ホムダ弓を構えると、船縁の海賊に向け、矢を放った。空気を切り裂く鋭い音と共に、義家の矢は、寸分違わず、船上の海賊の額に突き刺さった。陸上の兵達と船上の海賊達の間に、同時にどよめきが起こった。

 海賊達は、義家に向かって、一斉に矢を放った。しかし、矢は半分にも満たぬ飛距離で失速し、次々と海中に落下する。通常の弓では、決して届くはずのない距離なのである。すれ違いに放たれた、義家の二本目の矢が、別の海賊の額を貫いた。海賊達は、必死に矢を弓に番えていた。

すると、今度は、義家は、二本の矢を手にすると、角度をつけて同時に番え、弓弦を引き絞った。

「まさか・・・。」

貞任・貞衡・経清・永衡が、驚きの表情を浮かべ、義家の手元を見る。景季だけが、義家を見ようともせずに、海賊達を見据えたままであった。義家の弓から放たれた二本の矢は、ほとんど同時に、二人の海賊の額に突き刺さった。

「そんな馬鹿な・・・。」

「宇佐派奥義、双燕箭。」

驚愕の表情を浮かべる四人に答える様に、義家が呟いた。驚いたのは、無論、四人だけではない。乾闥婆王をはじめとする十三湊の兵士達は、信じられぬものを見るような目つきで、義家を見た。船上の海賊達は、義家の神弓に反撃の意欲を失ったのか、ざわめきながら、船縁に身を潜める。

「これが、八幡太郎義家・・・。」

貞任は、生まれて初めて、他人に対し、心の底から恐怖の念を抱いた。木刀での試合は、互角であった。貞任にとって、自分と対等に戦える男の登場は、歓迎すべき喜びであった。そして、それでも、最後には、自分が勝つと信じていた。

 しかし、今、義家の神弓を目の当たりにして、貞任は心の中で恐怖した。戦場で出会った時、自分は、この男に勝てるのだろうか?貞任は、この国最強と信じて疑わなかった自分の前に、巨大な壁が出現したことを悟った。

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