第六話「奥六郡の覇者」
永承六年(1051年)十月十四日、陸奥国衙と出羽城の八千の軍勢は、陸奥国玉造郡鬼切部村において、奥六郡の軍勢に大敗。壊滅的な打撃を受けた。その報告が京に届くと、廟堂の公卿達は戦慄した。騒動の大なる有様は、長元元年(1028年)の平忠常による、安房国衙襲撃以来であった。京では、前回同様、安部頼良を中心とした蝦夷の軍勢が、すぐにも畿内まで押し寄せてくるとの流言飛語が飛び交った。
しかし、安部頼良は動かなかった。奥六郡の軍勢は、鬼切部の戦いの後、衣川以北に撤退していた。そして、その後も軍事行動には移らず、また、陸奥国衙及び朝廷に対して、何の動きも見せぬまま、不気味な沈黙を守り続けたのである。
同年十一月、関白藤原頼通を首班とする朝廷は、評定を開き、藤原登任の陸奥守解任と平繁成の出羽城介解任を決議した。騒動の張本人である二人を解任することで、安部頼良を懐柔し、動乱の拡大を抑えようとしたのかもしれない。
同時に、評定では、後任の陸奥守の人選が行われた。鬼切部の戦いでは、八千の国衙軍が壊滅した。安部頼良を抑える役割は、並の文官では務まらない。初めから、候補者は一人しかいない。今や、東国の武家の悉くが門客にすると言われる、源氏の棟梁、源頼義である。しかし、廟堂の公卿達は、頼義の陸奥守任官を躊躇した。源氏の軍事力が、今以上に増大することを恐れたのだ。
律令国家は、嵯峨朝の征夷の終焉以来、常備軍を持たない。故に、朝廷は、諸国の叛乱に際しては、在地武家の軍事力を頼る他は無い。長元の大乱が勃発した頃、諸国の武家には纏まりがなく、武家達は、官位と恩賞を目当てに、個々に朝廷の軍勢に加わった。
しかし、乱の後、東国の武家衆は、源氏に名簿を捧げて、主従関係を結び、その威令に従っている。源氏の棟梁が召集をかければ、武家衆は、雲霞の如く、その白旗の下に集まるであろう。今や、源氏は、この国で唯一にして、最大の軍事力であった。
坂東を征した源頼義が、奥州の武家及び奥六郡の蝦夷を傘下に治めれば、その富と権力は、朝廷を凌ぐ勢力となる。仮に、頼義が朝廷に弓引く事態になれば、この国には、源氏の叛乱を鎮圧できる軍事力は無い。廟堂の公卿の間では、古来、叛乱の絶えない坂東と奥州が、源氏を通じて結び付くことを恐れた。
奥六郡の叛乱を知った源頼義は、宇治の関白の私邸を訪れ、藤原頼通に直接、陸奥守任官を願い出た。当時、頼義は、常陸介の任期終了後、在京して猟官活動中であった。頼義が敬愛した小一条院は、前年の永承五年(1051年)二月二十一日に、薨去していた。
元々、清和源氏は、祖父の源満仲以来、摂関家に臣従し、その爪牙として戦ってきた。頼信の死以来、摂関家と疎遠になっていたが、頼義は、この好機を逃したくはなかった。奥州を傘下に治めることは、頼義の積年の野望であった。頼義は、莫大な貢物を公卿達にばら撒き、陸奥守任官を働きかけた。二ヶ月に及ぶ評定の末、遂に、頼通は決断した。
永承七年(1052年)正月の叙目において、源頼義は陸奥守に任官したのである。
陸奥守に任官した源頼義は、源氏の氏神、石清水八幡宮において戦勝祈願した後、佐伯経範・大宅光任・和気致輔・藤原景通・下毛野興重を伴い、相模国の鎌倉楯に赴いた。奥六郡の安部頼良が、国衙の軍勢を壊滅させた以上、陸奥への赴任は、安部氏追討を意味する。頼義は、合戦に備え、坂東の精兵を率いて、多賀城に下向するつもりであった。
二月上旬。鎌倉楯に到着した頼義は、屋敷の周囲を埋め尽くす群集に目を見張った。頼義は、相模に到着後、奥州に従軍してくれる郎党を募るつもりでいた。東国の武家衆は、荘園の管理者でもある。自身の所領を留守にして、遠方の奥州に従軍することは難しいはずである。東国の武家には、安部氏追討の宣旨は下されておらず、頼義に強制力はない。頼義は、郎党達の自発的な従軍を期待するしかないはずであった。
しかし、源頼義の陸奥守任官の噂は、瞬く間に東国中を駆け巡ると、源氏の郎党達は、競って鎌倉へと馳せ参じた。東国における源氏の声望は、頼義の想像を遥かに超えていた。
無論、東国の武家衆は、頼義への忠誠心のみで鎌倉へ参陣したのではない。合戦とは、武家にとって、自身の栄達への最大の好機なのである。長元の大乱以来、この国には、合戦が絶えて久しい。武家同士の所領争いや、諸国の群盗蜂起など、小規模な合戦は稀に発生しても、追討宣旨が下る様な公的な合戦は皆無であったと言える。武家衆は、安部氏追討の宣旨を、戦功を挙げて家名を興す、絶好の機会と捉えたのであった。
頼義は、東国が空白地帯になることを恐れ、従軍を許可する郎党達を選別した。源氏一門からは、源頼季(頼義の三弟)・満実父子、大和源氏の源頼遠(頼義の従兄弟)・有光父子。東国の武家衆で従軍したのは、以下の通りである。
河内の佐伯経範、和気致輔、藤原景通、藤原頼清。駿河の大宅光任・光房父子。相模の三浦為通、鎌倉章名。武蔵の平将常、秩父武基、豊島武常、小山田武任、熊谷維方。房総の平常将。信濃の海野幸家。鎌倉楯の留守居役は、舅の平直方であった。
また、頼義の陸奥守任官の噂は、常陸国鹿島郡にも届き、鹿島派の門弟の中にも、奥州への従軍を希望する者が続出した。鹿島派の門弟達が、武芸の技を磨くのは、あくまで、実戦で使用し、功成り名を上げるためである。平安時代は、後の戦国の世と異なり、大規模な合戦に参加する機会は少ない。門弟達は、この期を逃さず、修練の成果を世に知らしめ、官位官職を得て、栄達を望んだのである。
鹿島宗家の國摩真人は、師範の藤原則明と相談の上、奥州への従軍は、十六歳以上の者で、一ノ位以上の者に限って許すことにした。その結果、従軍が決定したのは、師範代の藤原季俊・平常長、一ノ位の物部長頼・藤原茂頼であった。
更に、頼義は、郎党達の私兵の中で、武芸の心得のある者にのみ従軍を許した。武家衆の私兵の大半は、諸国の荘園の農民達である。東国の農民全てを従軍させれば、その数は十万は下らない。しかし、それでは、農耕に支障を来たし、翌年以降、東国は大飢饉に陥ることになる。頼義は、農民の従軍を禁止することで、農作業への影響を極力抑えようとした。重要なのは兵の数ではない。頼義は、東国、特に坂東の選りすぐった精兵があれば、奥六郡の軍勢を難なく蹴散らすことができると読んでいたのである。
その頃、安部頼良は、奥六郡の更に奥の極北の地、宇曽利(下北半島中央)にいた。宇曽利には、噴火によって形成されたカルデラ湖を中心に、恐山山地の剣山が、天を突かんばかりに聳え立っている。その夜、宇曽利湖の空には、極北の天球を彩る星々が、鮮やかな輝きを見せていた。宇曽利湖の湖畔で、片膝を着いた頼良の正面には、金剛杖を手にした、一人の修験者が天球を眺めていた。
「龍王様。我等の懸念が当たったようです。源頼義が、陸奥守に任官いたしました。」
頼良の顔には、苦渋の表情が浮かんでいた。前年の十月、頼良は、奥六郡の兵四千を率いて、藤原登任・平繁成の八千の軍勢を壊滅させた。文官の登任と、実戦経験の乏しい繁成を打ち破るなど、頼良にとっては、赤子の手を捻るより容易い。
しかし、その結果、京の朝廷は、安部頼良が叛乱を起こしたと見做し、追討の兵が差し向けられることになったのだ。しかも、今回、陸奥国衙の軍勢を率いるのは、源氏の棟梁、源頼義。日本一の弓取りと謳われ、東国の武家衆を悉く傘下に治めたと言われる、この日の本の国、最強の武将である。
「うむ。それも、想定の範囲内じゃ。陸奥守の決定の後、極星の輝きは増しておる。頼義の奥州への到来も、北斗の導く運命であろう。天王が降臨されるためのな。」
龍王と呼ばれた男は、天球の中心に輝く、北極星を見つめながらつぶやいた。
「しかし、朝廷と前面衝突することになれば、戦は何十年も続き、奥州の大地は灰燼に帰すことになります。いかに阿修羅王といえど、津波の如く、何度も何度も押し寄せる国衙廷の軍勢に対して、勝利を続けることは難しいでしょう。かっての阿修羅王、阿弖流爲様や、平将門公のように・・・。」
「そうじゃ。長元の大乱の際、平忠常も、房総三国を亡国せしめながらも、わずか、三年で降伏したのであったな。我等が兵糧を贈り続けたにも関わらず。確か、その時に忠常を降伏させたのも、源氏の棟梁。」
「頼義の父、頼信です。源氏の力は、あの頃とは比較にならぬほど、強大化しました。戦は、出来るだけ回避した方が良いかと。」
「そうじゃな。登任と繁成に天誅を下したことで、渡嶋蝦夷達の怒りも収まりつつある。これ以上、戦を続けても、我等に益するところはない。」
「しかし、頼義と東国の武家衆は、今こそ戦功を挙げ、武名を興す好機と、戦を望んで、多賀城へ襲来します。我等が戦を望まなくとも、すぐにでも、奥六郡に攻め込んで来るのではありますまいか?」
「源氏といえども、所詮は摂関家の爪牙、忠実な番犬にすぎん。朝廷から、追討停止の宣旨が出れば、戦いたくとも戦えぬ。確か、上東門院様がご病気になられそうじゃな。」
「なるほど、上東門院様は、藤原道長公の姫君で、現関白頼通の姉。関白に、自ら追討を取り消させるのですな。」
「そうじゃ。早速、緊那羅王に命じよう。」
頼良の顔には、先程までとは打って変わったように、安堵の表情が広がった。
永承七年(1052年)二月。源頼義は、東国の兵二千を率いて白河関を越え、陸奥国衙多賀城に入城した。その堂々たる威風に、不安の渦中にあった陸奥の人心は落ち着きを見せ始めた。頼義は、陸奥国衙に着任すると、未だに多賀城に留まっていた、前任の藤原登任から、陸奥国衙の印鍵を引き継いだ。
「貴殿から印鍵を引き継ぐのは、二度目ですな。」
頼義は、長元の大乱の折の相模守任官時を思い出していた。あれから、二十四年。頼義も登任も、既に六十代半ばである。登任から引継ぐのが、常に戦乱の渦中であるのは、二人が戦乱を呼ぶためであろうか。
「貴殿も、くれぐれもご油断めさるるな。」
登任は、口惜しそうにつぶやくと、早々に新任の陸奥守の前から姿を消した。
頼義到着の報を聞きつけ、既に、陸奥国衙の在庁官人と郡司達は、朝議の間に集結していた。頼義が、国司の席に座すと、その周囲を、東国より付き従う武家衆が取り囲んだ。陸奥の在庁官人と郡司は、東国の武家衆に上座を譲り渡し、下座に並んだ。源氏とその郎党達は、まるで、陸奥国衙を占領した進駐軍の様に振舞った。
「経清!経清はおるか!」
頼義は、広い朝議の間に響き渡る声で、亘理郡司の名を呼んだ。
「はっ。ここに控えております。」
下座の群集の中から、経清の声が聞こえて来る。経清は、早足で前へ出ると、頼義の面前で平伏した。左右には、佐伯経範・大宅光任・和気致輔・藤原景通・下毛野興重等、経清にとっては、懐かしい顔ぶれが並んでいる。
「久しぶりじゃのう、経清。わしも、遂に、奥州へ来たぞ。」
頼義は、子供の様な笑顔を経清に向けた。源氏の郎党達は、この頼義の笑顔に弱い。頼義の無邪気な笑顔を見ると、それだけで自分も喜びを感じ、その笑顔に精一杯報いたいと思ってしまうのである。それは、経清も同様であった。
陸奥に来てからの経清は、藤原登任と安部頼良を比較し、頼良の威風に尊敬の念を抱いていた。しかし、今、こうして源氏の棟梁を前にすると、やはり、頼義こそが、自らの主君であるとの思いが込み上げてくる。
「師範。お久しぶりでございます。」
平服する経清の前に、鹿島派の藤原季俊・平常長、物部長頼・藤原茂頼が進み出て叩頭した。四人にとって、経清は、今でも鹿島派の師範であり、尊敬すべき師である。
「貴殿等も来たのか・・・。」
四人の顔を見た経清は、懐かしさや嬉しさを感じると共に、頼義が、本気で安部氏追討を実行するつもりであることを悟った。源氏と安部氏が正面から衝突すれば、その死闘は、双方に甚大な被害を及ぼすであろう。
「経清。我等は陸奥には不案内。頼りにしているぞ。」
経清は、何かを言いかけたが、言葉にならないもどかしさを感じた。⑤
「その後、奥六郡の情勢はどうなっておる?」
頼義の問いに、陸奥権守藤原説貞が前に進み出た。説貞は、前任の陸奥守藤原登任の腹心として陸奥に赴任し、権守に任官したが、登任と共に解任されることはなかった。逆に言えば、朝廷は、説貞など眼中に無かったのであろう。説貞は、最早、京には戻れず、宮城郡郡司として、陸奥に土着するしか、生きる道はない。
「謀反人の安部一門は、鬼切部の戦いの後、奥六郡に兵を引き揚げ、何の動きも見せておりませぬ。現在、必死で奥六郡の情報を収集しておりますが、今のところ、軍事行動を起こしたとの報告はありませぬ。」
説貞は、額に汗を流しながら、頼義の面前で必死に語った。説貞としては、何としても新任の陸奥守に取り入り、権守の地位を死守したい思いであった。
「安部頼良には、陸奥国衙に降伏する意思は無いのだな!」
頼義の怒声が響くと、説貞は、恐怖で顔を引きつらせた。
「前陸奥守様の奏上通り、安部一門は、朝廷への貢租を行わず、傭役を果たさず、勝手気ままに奥六郡を横行し、衣川以南に進出し、領域を侵しました。登任様は、安部一門の南下に対し、やむを得ず兵を動かしましたが、結果はご存知の通り、惨敗しました。安部一門の謀反の意思は明らかです。陸奥守様には、このまま、すぐにも坂東の精兵と陸奥国衙の兵を率いて、一気に奥六郡に攻め上がるのが上策と思います。」
説貞は、安部氏の棟梁、頼良の名を敢えて避けた。頼良の読みが、頼義と同じ「よりよし」であったからである。頼義にしてみれば、謀反人の名として自身の名が連呼されることは、不快極まりないであろう。
「お待ち下さい。」
説貞の話を黙って聞いていた経清は、途中で我慢が出来なくなって、身を乗り出した。陸奥の実態を知る在庁官人の中で、頼義に発言できるのは、自分しかいない。
「安部一門には、元々、謀反の意思などありませぬ。前陸奥守様は、朝廷への奏上で、貢租を行わず、傭役を果たさずと述べましたが、それは真っ赤な偽り。奥六郡は、長い間、粛々と決められた量の貢祖を行い、傭役を果たしてきました。それを、突然、登任様が、今までの倍の貢物を納めるよう、奥六郡に要求したのです。しかも、登任様は、それを国庫に納めるのではなく、我が物に独占しようとしました。その証拠に、奥六郡に課す税を倍にすることを、京に報告しておりませぬ!」
「ほう。」
経清の必死の訴えに、頼義は、驚いた表情を見せた。頼義には、無論、安部頼良が叛乱を起こすに至った経緯などわからない。京では、前任の藤原登任の奏上と、登任と共謀した頼宗の主張だけが、真実として語られていた。
「しかしな、経清。追討宣旨に対し、降伏せずに国衙に弓を引いたのは事実じゃ。いかなる理由があれ、このまま、安部一門が降伏しないのであれば、我等は、宣旨に従い、安部氏追討を果たすだけじゃ。」
頼義は、心の底では、安部一門が、降伏することを望んでいなかった。彼にとって、陸奥守任官は、奥州を掌中に治めるという宿願を果たす絶好の機会であった。更に、東国の武家衆は、安部氏追討の恩賞を目当てに、陸奥まで従軍している。源氏の棟梁としては、安部氏を滅ぼし、郎党達に奥六郡の地を恩賞として分け与えたいのである。
経清は、六年前、亘理赴任の挨拶のために、父の頼遠と共に、常陸国衙を訪れた時、頼義が二人に語った言葉を思い出した。
「東国の武家衆に、奥州の蝦夷、そして、黄金と良馬を兼ね備えることができれば、源氏の軍事力は、間違いなくこの国最強となる。さすれば、我等源氏は、摂関家の爪牙の身分から抜け出し、己の意思で、己の信じるモノのために、戦うことができるようになる。
その時、この日の本の国は、武家を中心とした、新しい姿に生まれ変わることができるのじゃ!」
経清は、奥州を掌中にするために、頼義が安部氏との戦いを望んでいることを悟った。その意味においては、頼義と登任に違いはない。しかし、頼義は、安部氏の軍事力を見くびっている。源氏と安部氏が正面から衝突すれば、頼良の傘下に加わるのは、奥六郡の軍勢だけではない。極北の地の蝦夷達も源氏との戦いに加わるでろう。そうなれば、戦火は奥州全土に広がり、この国は未曾有の大乱に巻き込まれることになる。
「陸奥守様。お願いがございます。」
経清は、戦乱を止められるのは自分しかいない、と命を懸ける覚悟を決めた。
「この経清を、陸奥守様の名代として、衣川にお遣わし下さい。私が、安部頼良殿を説得して、必ず、頼義様に降伏させてみせます。」
何かを決意した経清の気迫に、一瞬、頼義は気圧された。「この男、命を懸けている。」頼義は、経清の悲壮なまでの決意を受け止めることにした。
「わかった。そちを信じ、わしの名代として、衣川に遣わそう。じゃが、安部頼良に言うておけ。機会は一度しかない、とな。」
「はい。ありがとうございます。」
経清は、頼義の度量の大きさを感じ、心から感謝の言葉を述べた。
「経清、わしの名代として遣わす以上、もう一つ、やってもらわねばならぬことがある。衣川から、伊具郡司平永衡を連れ戻せ。国衙の在庁官人が謀反に加担するなど、その罪は、安部一門より重い。必ず、国衙の裁きを受けさせねばならぬ。」
頼義のもう一つの任務に、経清の顔は、一瞬にして青冷めた。
「しかし、平永衡殿は、鬼切部の合戦には加わっておりませぬ。衣川に向かったまま戻らぬだけで、安部氏に加担したとの証拠もございませぬ。」
事が永衡の追求に及ぶと、さすがに、永衡の兄弟をはじめ、親安部派の在庁官人達も前に進み出て、口々に永衡を擁護した。
「それを含め、吟味するために、永衡を連れ戻すのじゃ!」
頼義の有無を言わさぬ回答に、経清は、黙って平伏するしかなかった。
京。宇治殿と呼ばれる、時の最高権力者、関白藤原頼通には、奥州の騒乱以外にも悩みの種があった。事によると、安部氏以上に、頼通を悩ませていたかもしれない。
藤原頼通は、一家三后を輩出し、摂関家の全盛時代を築いた、藤原道長の長男である。長和六年(1017年)、二十六歳で摂政に就任し、寛仁三年(1019年)、二十八歳で関白の座に就任。以降、永承七年現在まで、三十年以上に渡って関白の座を占めている。
永承七年二月、上東門院が、重篤な病に陥った。上東門院とは、藤原道長の娘、彰子のことで、頼通の同母姉である。上東門院彰子は、一条天皇の皇后であり、後一条天皇・後朱雀天皇の母で、文字通りの国母であった。天皇の外祖父として、摂関の地位を独占する藤原摂関家にとって、上東門院の存在こそが、権力の最大の源泉である。
国母として摂関家を支え続けた姉の重篤に、頼通は動揺した。頼通には、数多くの妾がいた。その中の一人に、藤原永頼の娘がいた。娘の名は那羅子。頼通と那羅子の間には、那津子という娘がいた。那津子は、彰子の女房として、上東門院に近侍していた。
ある日、頼通の宇治の別邸で暮らす那羅子の許へ、陸奥の修験者が訪れた。修験者は、懐から文を差し出して彼女に渡すと、何も言わずに立ち去っていった。文を読んだ那羅子は、即座に別の文をしたためると、女中を娘の那津子の許へ走らせた。
数日後、那津子は、上東門院の遣いとして宇治を訪れ、父の頼通に面会した。
「上東門院様の病は、日に日に重くなっています。祈祷師の話では、諸国の戦乱で命を失った多くの者達の怨霊が、上東門院様を苦しめているとのことです。今以上に戦が続いて、多くの者が命を失えば失うほど、上東門院様のお命も危うくなります。」
那津子は、大粒の涙をこぼしながら、頼通に訴えた。
「そうであったか。今後、合戦が発生する可能性があるのは、奥州じゃ。安部氏追討の宣旨が出ておるからな。しかし、事は上東門院様のお命に関わることじゃ。全国に大赦令を発し、安部氏追討は取りやめよう。さすれば、怨霊の呪いも解け、上東門院様のご病気も平癒されるであろう。」
頼通は、一向に涙が止まらない娘を懸命に慰めようと、妻の那羅子を呼んだ。頼通が座を外し、母と二人切りになると、那津子の涙は急に止まった。
「母上、いや、緊那羅王様。万事、龍王様のご指示通りです。あとは、乾闥婆衆が、公卿達に黄金をばら撒けば、内大臣とて、関白の仰せに反対はしますまい。これで、全国に大赦が発令せられ、安部氏追討は取りやめになるでしょう。」
那津子は、先程までの涙が嘘のように、不敵な笑みを浮かべた。
緊那羅王と呼ばれた那羅子は、娘と共に満足気な表情を浮かべた。翌日以降、京の公卿達の屋敷を、陸奥の商人が頻繁に出入りした。その中には、藤原登任と共謀した、内大臣藤原頼宗の屋敷も含まれていた。
永承七年(1062年)二月二十日の朝議において、関白藤原頼通は、上東門院の病気平癒のため、全国に大赦を発令することを提案した。評議の場で、関白の提案に反対する公卿は、一人もいなかった。
永承七年(1052年)二月下旬。藤原経清は、郎党の壬生行宗と共に、衣川館に急行していた。陸奥守名代の経清には、二つの任務があった。一つは、安部頼良を降伏させること、もう一つは、平永衡を、多賀城に連れ帰ることであった。
経清は、憂鬱な気持ちで馬を走らせていた。自分から申し出たとはいえ、安部頼良も、重大な決意で国衙に挑んだはずである。簡単に降伏するとは思えない。
しかし、経清にとっては、二つ目の任務の方が、気が重かった。例え、安部頼良が降伏し、罪を許されたとしても、永衡は、多賀城の在庁官人である。郡司が国衙に叛いた罪は、許されない可能性が高い。国衙に降伏することになれば、頼良も、永衡を引き渡さざるをえない。永衡の身の安全のためには、頼良には降伏して欲しくないのである。
北上川を小船で遡った経清は、衣川の街に着くと、早速、衣川館に案内された。頼良は、経清の来訪を歓迎してくれたのである。
「以上が、新任の陸奥守様の仰せです・・・。」
経清は、頼良に対峙すると、単刀直入に頼義の言葉を述べた。そこは、衣川館にある頼良の執務室。頼良の他に、安部一門の良照・貞任・宗任・重任・則任が同席している。その席には、永衡の姿が見えない。
「国衙の方から戦を仕掛けておいて、なお、鬼切部で大敗していながら、降伏せよなどとは、笑止千万。」
経清が伝えた、新任の陸奥守の言葉に、貞任が、怒気を含んだ声を発した。
「で、永衡殿はどちらに?」
経清は、永衡の姿が見えないことが気になって、貞任には何も答えなかった。
「永衡殿のことは心配ない。後でお引き合わせいたそう。敢えて、この席には外してもらった。ところで、経清殿は、源氏と安部氏が戦をした場合、どちらが勝つとお思いかな?」
経清は、永衡の無事を確認し、安堵すると同時に、頼良の言葉に焦りを感じた。つまり、降伏しない、という意味であろうか?
「頼良殿。源氏の力を侮ってはなりませぬ。源氏には、坂東をはじめ、東国の武家衆の悉くが従っております。まして、源頼義様は、日本一の弓取り。安部一門といえど、容易には勝てませぬ。」
負ける。とは、経清は言わなかった。安部氏の軍事力は、底が知れない。奥六郡の背後にどの程度の蝦夷がいるのか、陸奥国衙では、誰も把握できていないからだ。
「例え、兵数が互角であっても、我等は源氏には負けぬ。坂東の精兵といえど、彼等は所詮、個人の集合に過ぎぬ。頼義殿は、兵法を知らぬ。」
頼良は、経清に対して、源氏に勝てる、と言い切った。
「兵法を知らぬとは、いかなる意味ですか?」
「頼義殿をはじめ、坂東の武者達は、一人一人は、確かに勇猛であろう。しかし、所詮、戦は、一人ではできぬ。集団対集団の戦いになる。源氏には、大規模な合戦において、兵の集団を運用した経験がない。」
頼良の言葉に、経清は、雷に打たれた思いがした。確かに、頼義を筆頭に、坂東の武家衆に、鹿島派の門弟は、一対一の戦いでは、無類の強さを発揮するであろう。しかし、この国には、長元の大乱以来、大規模な合戦は絶えて久しい。その長元の戦においても、忠常と直方は、局地的な戦闘を行っただけで、大軍対大軍の戦闘はない。
更に、源氏の頼信と頼義は、確かに忠常を降伏させたが、忠常とは、一戦も交えていない。つまり、大軍を指揮した実戦経験がないのである。あるのは、せいぜい、群盗蜂起の鎮圧程度であった。
「おわかりかな。経清殿。奥六郡は、その気になれば、万を越える大軍を揃えることができる。数万単位の大規模な合戦になれば、兵法に通じた我等が必ず勝つ。」
経清は、頼良の必勝の決意に、愕然とする思いであった。
「しかし、桓武朝の征夷同様、例え、頼義様が敗れても、朝廷は、安部氏追討を諦めないでしょう。三十八年に及ぶ長き戦いの末、かの阿弖流爲でさえも、最後には坂上田村麻呂将軍に降伏しました。追討が続く限り、この奥州の大地は焦土と化し、日の本の国は、未曾有の混乱に陥ることになります。問題は、勝てるかどうかではありません。私は、この国が、戦乱の世になるのを止めたいのです!」
経清は、必死だった。多賀城で、頼義にぶつけたのと同じ想いを、今度は、頼良にぶつけた。あの時、頼義は、経清の想いを受け止めてくれた。この想いを受け止めてくれないのであれば、安部頼良は、源頼義より度量が小さい男と、諦める他はない。
頼良は、確かに経清の想いを感じていた。剣の腕だけではない。経清には、為政者として、支配者として、人の上に立つべき大切な何かがある。今、安部頼良の思い描く理想の国造りの中に、ハッキリと経清の姿が見えていた。
「経清殿。わしらは、この奥州の大地に、民のための理想の国を造りたいのじゃ。しかし、京から派遣される貪欲な受領達は、自身の利益のみに執着し、民のことなど何も考えておらぬ。陸奥・出羽だけでなく、日の本の諸国全てがそうであろう。あまつさえ、登任と繁成の様に、私益のために戦を仕掛けてくる者まで出て来る。最早、我等に受領などいらぬ。我等は、我等だけで、我等の思い描いた国を作り上げる!」
頼良は、躊躇いも無く、明確に言い切った。経清は、そんな頼良に、頼義と同じ理想を感じた。源氏の棟梁と安部氏の棟梁は、戦などせずに、共に手を携えて、理想の国造りを目指せるのではないだろうか?
「頼良殿。源頼義様は、登任や繁成とは違います。頼義様は、貴殿と同じ様に、この国の有様を憂い、この日の本の国を、武家を中心とした、新しい国に生まれ変わらせたいとの大望を抱いております。源氏と安部氏の想いは、同じはずです!」
頼良を見る経清の言葉には、期待が込められていた。
「経清殿。それは違うぞ。我等は、最早、京の朝廷、律令国家など見限っておる。我等は、この奥州の大地に、朝廷の支配から脱却した、独立した国を造りたいのじゃ。」
「故に、源氏と共に、この日の本全体を・・・。」
「そう。源氏は、坂東や奥州のみならず、この国全体を変革しようとしておる。しかし、それは無理じゃ。いや、まだ早過ぎるのじゃ。律令制という巨大な官僚機構は、この国全体に深く根を下ろしておる。天慶の乱の平将門を見よ。坂東の民の絶大な支持の下、八カ国を瞬く間に席巻しながらも、最後は、朝廷の官位官職に釣られた、同じ坂東の武家どもに、あっけなく討たれてしまった。
源氏が、この国全体を無理矢理変革しようとすれば、それこそ、この国は、未曾有の大混乱に陥り、乱世が訪れる。しかし、奥州は違う。奥州、特に衣川以北には、律令の定めは根を張っておらぬ。奥州は、坂東よりも遥かに容易に、独立を果たせるであろう。我等は、源氏のもたらす混乱に、この極北の地を巻き込みたくないのじゃ。奥州には、朝廷も源氏もいらぬ!」
経清には、返す言葉が無かった。確かに、頼良の言う通りであった。律令国家の誕生以来、諸国では、数え切れぬ程の叛乱が起きた。しかし、そのどれもが成功しなかった。聖徳太子・天智天皇・天武天皇など、日本史上の名君達が、長い年月をかけて樹立した律令国家は、それほどこの国に強固な基盤を築いていたのだ。
そして、経清は、四年前、常陸国衙で頼義と話した時から、源氏の野望に気付いていた。
「東国の武家衆に、奥州の蝦夷、そして、黄金と良馬を兼ね備えることができれば、源氏の軍事力は、間違いなくこの国最強となる。」
頼義の野望は、確実に、この奥州を戦火に巻き込むことになる。今、経清は、ハッキリと気付いた。頼義の存在こそが、この国を未曾有の混乱に陥れるのだ。しかし、その変革なくしては、この国の民は救われぬ。このままでは、この国の民は、摂関家と受領達に永遠に搾取され続けることになる。変革のためには、戦乱という痛みが必要なのか?
経清には、何が正しいのか、わからなくなっていた。そんな経清の苦悩を見て取ったのか、頼良は、先程までとは打って変わった、穏やかな声で経清に語りかけた。
「経清殿。安心されよ。我等が降伏せずとも、戦は起こらぬ。追討は中止される。」
「それは、どういう意味ですか・・・?」
経清は、狐につままれたような表情で、頼良を見つめた。
「兵法とは、戦わずして勝つということじゃ。数日の間、衣川館に滞在しなされ。永衡殿も、罪には問われぬ。無論、我等もな。あとは、若者達で話し合われよ。」
頼良と良照は、謎の笑みを浮かべながら、執務室から立ち去った。経清が、その言葉を理解できぬ内に、入れ替わりに、永衡が部屋に入ってきた。
「永衡殿。ご無事であったか。」
永衡の無事な姿を確認し、経清は、心の底から喜びを感じた。
「経清殿。気遣っていただいたようで、誠に申し訳ない。」
永衡は、久しぶりに会った経清に、嬉しそうな表情を浮かべると、礼を述べた。
「経清殿。頼良殿の力は、我等の想像を遥かに超えておる。」
永衡の言葉に、経清は、再び、狐につままれた気分に陥った。
「上東門院様の平癒祈願のため、全国に大赦が発令されました。数日以内には、多賀城にも大赦令が届くでしょう。安部氏追討の宣旨は取り下げられ、安部一門の罪も、私の罪も消えることになります。」
「なっ・・・」
経清は、信じられぬ表情で永衡を見た。そして、頼良の「降伏せずとも、戦は起こらぬ。追討は中止される。」という言葉の意味を、ようやく理解した。
「しかし、この追討直前の時期に、何故・・・。まさか?」
「そうです。経清殿。我等が、朝廷を動かしたのです。」
経清の疑問に、今まで沈黙を守ってきた、宗任が答えた。
「父上が言った、戦わずして勝つとは、こういうことです。」
「しかし、どうやって?朝廷の有力な公卿に、安部一門と通じる者がいるのですか?」
経清の疑問は、永衡にも理解できる。追討の宣旨を覆すことなど、関白でも動かさぬ限り、不可能であろう。
「詳細は明かせませぬが、我等は、常に朝廷の動向を注視しております。そして、陸奥の黄金を使えば、朝廷の貪欲な公卿達を動かすことなど、容易いことです。しかし、我等も、さすがに繁成が、十三湊の襲撃を実行に移すとは、予想外でした・・・。」
「が、これで、我等の力を国衙に見せつけることができたではないか。わしとしては、このまま戦が続いても一向にかまわぬ。」
宗任の発言に、貞任が不快気につぶやいた。おそらく、政治的力量は、弟の宗任が兄を大きく上回っているのであろう。しかし、貞任の武力は侮れない。経清は、鬼切部で見た貞任の姿を忘れることができなかった。
「貞任殿は、阿修羅王の奥義を会得しているのですか?」
経清は、鬼切部以来、ずっと心に宿していた疑問を口に出してみた。刹那、その部屋にいた、永衡・宗任・重任・則任の顔に緊張が走った。皆、一様に口を閉ざしている。
「武芸に通じた経清殿であれば、噂ぐらいは耳にしていよう。阿修羅王の武芸とは、神代の時代から伝わる蝦夷の闘法。しかし、歴史上、その奥義を会得した者は、三人しかいない。阿弖流爲、平将門、そしてこのわしじゃ!」
貞任の言葉に、経清は戦慄した。阿修羅王の伝説。それは、朝廷の支配に抵抗する、叛逆者の王を意味する。
「おそらく、今の兄者に勝てる者は、この国にはおりますまい。鹿島派が、いかに最強を誇ろうと、阿修羅王には勝てませぬ。無論、日本一の弓取りでさえも。」
誇らしげに兄を見つめる、重任の言う通りであった。経清は、既に、鬼切部で悟っていた。この男には勝てないと。そして、源氏の棟梁、頼義でさえも。しかし・・・。経清の心の中に、一人の少年の姿が浮かび上がってきた。
「重任殿の言う通り、私や則明、頼義様では、貞任殿には敵わぬでしょう。しかし、あと数年の内に、この奥州に阿修羅王に匹敵する、否、凌駕する人物が現れます。」
経清は確信していた。彼こそが、この国最強の名に相応しいのではないか?
「ほう。それは面白い。わしも、自分より強い男と、本気で命のやり取りをしてみたい。して、その男の名は?」
貞任は、嬉しそうにつぶやくと、経清に問いかけた。
「源氏の棟梁、源頼義の長男、源義家様。世に八幡神の生まれ変わりと言われている。まだ十四歳の少年だが、その弓術は、既に神技に達している。鹿島派では、わずか一年で、二ノ位に昇っている。あと三年もあれば、間違いなく、御曹司こそが、私や頼義様を越え、天下第一の武勇の士となる。」
経清は、興奮を抑えられないように語り続けた。貞任は、そんな経清の言葉を、目を輝かせて聞き入っていた。阿修羅王の奥義の全てを駆使して、戦うことができる相手が現れる。それは、最強を極めた男のみが求める、渇望であったに違いない。
五日後。衣川館に留まっていた経清は、多賀城からの帰還命令を受けた。そこには、安部頼良の言葉通り、上東門院平癒祈願のため、諸国に大赦が発令された旨が記されていた。安部頼良と平永衡の罪は、赦されたのである。
更に二日後。藤原経清は、安部頼良・宗任・則任、そして、平永衡と共に、衣川館を後にし、多賀城に向かった。頼良は、既に罪人ではない。故に、多賀城には降伏に赴くのではなく、奥六郡の俘囚長として、堂々と、新任の陸奥守に挨拶に赴くのである。
多賀城では、大赦令を受け取った頼義が、佐伯経範・大宅光任・和気致輔・藤原景通等、旧来の腹心達の前で、怒声を発していた。さすがに、陸奥国衙の在庁官人達の前で、怒りを見せることはできなかった。朝廷の大赦令に激怒したことが伝われば、今度は、頼義が謀反人扱いされることになる。
「やられましたな。」
大赦令の文面を読み上げた経範は、冷ややかにつぶやいた。経範は、今回の大赦の発令が、偶然ではないことに気付いていた。そして、安部頼良の想像以上の力に、奥六郡の攻略が、武力だけでは解決できないことを実感した。
陸奥守源頼義は、満面の笑みで、安部頼良を迎えた。直情径行の頼義は、若い頃には何でも顔に出てしまったが、既に六十五歳。政略のために、感情を抑制出来るまでに成長していた。対する安部頼良も、極めて丁重な態度で、陸奥守に新任の挨拶を述べた。更に、頼良は、陸奥守様と同じ読みでは恐れ多いとして、その場で、頼良から頼時と改名した。
二人共、追討と大赦については、一切、触れなかった。慇懃な態度で交わされる言葉は、剣の代わりであった。源氏と安部氏の棟梁は、剣の代わりに、礼儀と丁重な言葉で、熾烈な戦いを繰り広げたのである。
翌年、天喜元年(1053年)、源頼義は、陸奥守に加え、鎮守府将軍に任官した。陸奥守と鎮守府将軍の兼任は、胆沢城に鎮守府が設置されて以来の快挙であった。安部頼時は、頻繁に多賀城に出仕し、源頼義は、笑顔でそれを迎え続けた。そして、数年の間、奥州には平穏な時間が流れた・・・。
天喜三年(1055年)。源義家は、十七歳の正月を迎えた。鹿島派に入門して、既に、四年半の月日が経過し、義家は、師範代の地位にあった。四年半の間に、鹿島派の席次も、随分と様変わりしていた。師範の経清、師範代の藤原季俊・平常長、一ノ位の物部長頼・藤原茂頼が、鹿島を去り、陸奥へ下向した。
その後、兵藤景経が師範に、伴助高・秩父武綱・平常貞、そして、源義家と藤原景季が、師範代の地位に就いた。かって、義家と共に季俊の下で修練に励んだ、清原貞衡・紀為清は、一ノ位に昇進している。
「できた・・・。」
的場に立つ義家は、感無量の想いでつぶやいた。義家の手には、宇佐八幡宮の神弓、ホムダ弓が握られている。義家は、既に、一年以上前より、この七人張りの強弓を自在に操ることができるようになっていた。残された課題は、宇佐派の奥義書に記された、究極の奥義を極めるだけであった。それが、今、成就したのである。
「さすがは、八幡神の生まれ変わりですな・・・。」
藤原景季は、呆然と的に突き刺さった矢を眺めていた。他に言うべき言葉が見つからない。それほど、今、目の前で見た神技が、人間の能力を遥かに超えていたのである。
「あとは、鹿島派の免許皆伝となれば、奥州へ下向できる。」
義家の目は、既に、極北の地を見据えていた。三年前、父の頼義が陸奥守に任官した時、義家は、共に陸奥へ赴きたいとの思いに駆られていた。しかし、宇佐派の奥義が会得できない上に、鹿島派の修練も途中で投げ出すようでは、とても実戦の役には立たない。義家は、自らの意思で、必死の思いで留まったのであった。
「あと、二日ですな。」
景季の言葉に、義家は大きく頷いた。鹿島派の免許皆伝のための最終試練が、二日後に迫っていた。鹿島派の師範代は、鹿島宗家の師範、國摩真人から、直接、奥義を伝授される。そして、奥義を極めた者だけが、免許皆伝を許され、師範の座に上ることができる。
師範代の義家と景季は、この一年、國摩真人の指導の下、奥義会得のために壮絶な修練を重ねてきた。二人は、今までの修練の成果の全てを賭け、最終試練に望むのである。
二日後、義家と景季は、各々、國摩真人との激しい打ち合いの中で、鹿島派の奥義の数々を披露した。その結果、見事、免許皆伝を許されたのである。
「源義家殿。藤原景季殿。おめでとう。明日から二人は、鹿島派の師範です。」
藤原則明が、二人に祝福の言葉を述べ、微笑んだ。新師範の誕生に、三百人を越える鹿島派の門弟達は、口々に義家と景季に祝辞を送った。そのほとんどが、二人より先に鹿島派に入門し、二人に敗れ、追い抜かれた門弟達であった。
藤原経清・藤原則明でさえ、入門してから師範になるまで、十年以上の歳月を費やした。それほどまでに、義家と景季の能力は、群を抜いてていたのである。
その夜、國摩真人は、鹿島宗家の人間だけが入室を許される奥の院に、義家一人を招いた。奥の院の台座には、一振りの刀が安置されていた。
「義家殿。この刀を手に取ってみよ。」
國摩真人は、台座に安置された刀を指差した。義家は、怪訝な表情を見せながらも、台座に腕を伸ばし、刀を手にした。その瞬間、刀身が輝き、義家の手が振るえた。義家は、身体中に、何か、神々しい力が漲ってくるのを感じた。それは、宇佐八幡宮において、初めてホムダ弓を手にした時と同じ感覚であった。
「やはり・・・」
刀身が光を放つ様子に、國摩真人は何かを納得したようであった。
「義家殿。それは刀、神剣、布都御魂じゃ。神剣は、義家殿を待っていたようじゃ。」
「布都御魂・・・」
義家は、驚きの表情を浮かべながら、輝く刀身をまじまじと眺めた。
布都御魂とは、神武東征の際、鹿島神宮の祭神、建御雷神が、神武天皇に与えた、伝説の神剣である。その後、布都御魂は、石上神宮・鹿島神宮・香取神宮のいづれかに安置されていると伝えられていた。
「布都御魂は、その所在を朝敵から隠すために、百年毎に、石上神宮・鹿島神宮・香取神宮の三神宮を遷座し続けた。この七十年は、鹿島神宮に安置されていたのじゃ。義家殿が、この鹿島派に入門した日、布都御魂が光を放った。わしも、最初は錯覚かと思っていたが、その後、義家殿が昇進し、師範の座に近づくにつれ、度々、神剣が光を放つ様になり、輝きは増していった。そして、今こそ、確信した。布都御魂は、義家殿が、建御雷神の奥義を極めるのを待っていたのじゃ。この神剣は、かって、初代の帝、神武大帝が使用し、大和を平定したと言われる剣じゃ。八幡神の生まれ変わりと言われ、ホムダの神弓を有する義家殿こそ、この神剣の所有者に相応しいであろう。神剣が、己の意思で、義家殿を選んだのじゃ。そして、ホムダ弓と布都御魂に選ばれた義家殿には、これから、想像を絶する苦難が待ち受けているに違いない。神弓と神剣は、我が国の危機を救うために、義家殿の許へ集うたのじゃ!」
神剣を一振りした義家は、まるで、風さえも切り裂くような感覚に囚われた。
「行け!極北の地、奥州へ。北斗の星々が、義家殿を待っている!」
國摩真人の言葉に、義家は、大きく頷いた。
天喜三年(1055年)二月。源義家は、四年半を過ごした常陸国鹿島郡を去り、奥州へ向かった。義家に従うのは、鹿島派師範の藤原則明・藤原景季、一ノ位の清原貞衡・紀為清であった。師範の則明は、國摩真人の薦めに従い、義家と共に陸奥へ下向することにした。以後、則明は、義家に影の如く付き添い、源氏の御曹司を守り続けることになる。
清原貞衡は、義家・景季が、次々と昇進を重ねていく中で、己の剣の才能に限界を感じていた。そして、同年齢の義家の神秘的な武勇の前に、抗い難い魅力を感じ、心から信服した。貞衡は、鹿島派において、剣の道を究めることを諦める代わりに、生涯の主君を見出したのである。源氏と安部氏の棟梁によって、奥州の大地には、平和な時が流れていた。しかし、彼等はまだ、知らなかった。それが、仮初の平和に過ぎぬことを。
天喜三年(1055年)二月十八日。多賀城に入城した源義家一行は、鎮守府将軍源頼義を始め、陸奥国衙の在庁官人達から、盛大な歓迎を受けた。母の直子は、四年半振りの我が子との再会に、涙を流して喜んだ。この時期、次弟の義綱は、諏訪派の門弟に連なって、信濃の地にいた。母と共に義家を出迎えたのは、十一歳の三弟、義光であった。
源頼義は、永承七年(1052年)、陸奥守に任官すると、安部頼良追討のため、坂東の精兵を率いて多賀城に赴任した。しかし、上東門院の平癒祈願による大赦発令のため、安部頼良の追討は取りやめになり、奥州には平穏が訪れた。
東国から召集した武家衆の内、自ら鋤・桑を手にする必要のある者は、悉く、自領に帰還させた。現在、多賀城に残っているのは、荘園領主とその直属の郎党、一千騎余りである。代わりに、頼義は、鎮守府将軍任官を機会に、郎党達に対して、家族を多賀城に招くことを許可した。無論、自身も、妻の直子と三男の義光を呼び寄せたのである。
「義家、遂に、鹿島派の免許皆伝となったそうじゃな。」
凛々しく成長した長男の姿に、頼義は、喜びを隠し切れなかった。その堂々たる体躯は、最早、御曹司と呼ぶには余りに雄々し過ぎた。既に、立派な源氏の棟梁である。
「御曹司こそ、天下第一の武勇の士と呼ぶに相応しい武将ですな。」
守り役の大宅光任をはじめ、源氏の郎党達は、感慨深げに義家を眺めた。
「しかし、奥州にも、天下第一を自称する武将がおりまする。」
この三年の間に、頼義の側近にまで上り詰めた陸奥権守藤原説貞が、悪意をこめた口調で、鎮守府将軍に囁いた。前任の陸奥守藤原登任の腹心であった説貞は、反安部派の在庁官人の筆頭として、安部一族に憎悪されている。最早、京には戻れぬ説貞にとって、生き延びる道は、鎮守府将軍の威光を借りる他はない。
「御曹司こそが、天下第一の武勇の士であることを知らしめるために、鎮守府将軍の御名で、武術大会を開いてはいかがですかな?」
姦計に長けた説貞は、子煩悩の頼義の心をくすぐるように提案した。この三年の間、説貞は、源頼義と安部頼時の関係を壊そうと必死であった。説貞としては、安部氏を滅ぼさぬままに、頼義の任期が終了し、奥州から去られては困るのである。鎮守府将軍の威光が消えれば、説貞は、間違いなく、安部一門に葬られるであろう。
一方、任期中に安部氏の追討を再開したい思いは、頼義も同じであった。頼時の面従腹背は、誰の目にも明らかであった。頼義が奥州から去れば、頼時が、源氏との縁を切って、自立するのは確実である。頼義としては、何としても、鎮守府将軍在任中に、奥州を掌中に治めるという悲願を達成したかった。
説貞の狙いは、頼義や経範・光任・景通にも理解できた。武術大会を通じて、源氏の武力を奥州に知らしめると共に、貞任を筆頭とする、安部一門の武力を把握しておきたいのである。頼義を始め、源氏の郎党達には、個人の武勇が合戦の勝敗を決するという、坂東の発想から抜け出ることが出来なかった。そのことが、後に、坂東の精兵達が、黄海の戦いにおいて、安部貞任に大敗を喫する遠因となった。
天喜三年(1055年)四月一日。鎮守府将軍源頼義は、陸奥国衙多賀城下において、翌月、五月一日に武術大会を開催する旨を、陸奥・出羽両国に布告した。腕に覚えのある者であれば、参加資格は問われない。優勝者には、黄金一万両と、馬十頭が与えられる。
武芸に心得のある者達は、続々と多賀城に集まった。その中には、仙北三郡の清原氏の一族である、清原武貞・橘貞頼・吉彦秀武・平国妙・深江是則の姿もあった。清原武貞は、清原武則の長男で、橘貞頼・吉彦秀武・平国妙は、武則の娘婿である。深江是則は、武則の随一の郎党であった。
清原武則は、海道平氏の祖、平安忠の孫である。平安忠は、出羽守として奥州に赴任した際に、仙北三郡の清原仲海の娘を妻とし、武頼をもうけた。武則は、その武頼の息子であるが、父が早世すると、仲海の息子、光方の養子として育てられた。光方の息子が、現在の清原氏の棟梁、光頼であり、光頼と武則は、兄弟として養育されたのである。
清原家の嫡流は、あくまでも光頼であるが、海道平氏の血統の武則には、貴種性が強い。武則には、四人の息子がいた。太郎武貞・三郎武道・五郎武衡・六郎貞衡である(次男と四男は早世)。更に、橘貞頼・吉彦秀武等の仙北三郡の有力豪族を娘婿に迎え、出羽北部において、義兄の光頼を凌ぐ勢力を築きつつあった。
平国妙は、海道平氏の平泰貞の息子で、経清の母方の叔父にあたる。また、平助衡は従兄弟にあたり、平忠清・忠衡・永衡兄弟は、従兄弟の息子であった。出羽清原氏・海道平氏は、複雑な血縁関係にあり、藤原経清も、その縁戚に連なっている。なお、平国妙は、若い頃には鹿島派で修行し、師範代にまで昇っている。一方、橘貞頼・深江是則は、諏訪派の門弟で、特に、深江是則は諏訪派では師範代に昇る腕前であった。
安部頼良は、武術大会開催の布告を見ると、源頼義の思惑を見て取り、貞任の参加を躊躇した。しかし、貞任は、武術大会において、義家と刃を交えることを望んでいた。貞任にしてみれば、逆に、安部一門の力を頼義に見せつけ、奥六郡への侵略を躊躇させようとの思惑があったのである。
五月一日。多賀城下に設けられた武術会場に、百人を超える武勇の士が集まった。さすがに百人では、勝ち抜き戦には時間がかかる。そのため、ますは予選を行い、予選を勝ち抜いた十六名が、本選に出場できることになった。予選は、弓術である。弓道場に設置された、十の遠的に矢を放ち、十本の内、的に当った数を競ったのである。
結果、矢が一本も的に当たらない様な、似非武芸者達は、次々と脱落した。予選の優勝者は、大方の予想通り、源義家であった。義家は、十の的全てのど真ん中に矢を打ち込み、一本も外さなかったのである。
予選を通過したのは、次の十六人であった。以下、予選通過の順位の通り。源義家・藤原則明・藤原経清・藤原景季・海野幸家・安部重任・橘貞頼・安部貞任・深江是則・藤原季俊・平常長・藤原茂頼・清原貞衡・平国妙・藤原業近・物部長頼。
なお、主催者の源頼義は出場せず、出羽守源兼長・奥六郡俘囚長安部頼良・仙北三郡俘囚長清原光頼・武則は、来賓として、決勝戦を見物した。
「予想通り、鹿島派の門弟達が多いな・・・。」
十六名の決勝進出者の名簿を眺めた頼義は、満足そうに頷いた。頼義は、既に六十八歳。まだまだ、若い者には負けぬとの気概があったが、さすがに、鎮守府将軍の敗北は政治的に重大な意味をもつため、経範・茂頼・説貞達の懸命な説得によって、自身の出場は諦めた。しかし、義家が出場する以上、源氏の名に相応しい活躍をしてくれると信じていた。
決勝戦は、勝ち抜き戦である。籤引の結果、一回戦の組み合わせは、以下の通りとなった。第一試合:安部貞任対物部長頼。第二試合:藤原景季対藤原茂頼。第三試合:藤原則明対清原貞衡。第四試合:深江是則対安部重任。第五試合:藤原業近対橘貞頼。第六試合:藤原経清対藤原季俊。第七試合:海野幸家対平常長。第八試合:源義家対平国妙。
選ばれた十六人の武勇の士は、多賀城下に設置された、演武場の周囲に着座した。
第一試合は、安部貞任対物部長頼の巨漢対決であった。双方、力と力の激しいぶつかり合いで、演武場の底が抜けそうな勢いであった。しかし、わずかに十合の剣戟の後、貞任の木刀が、長頼の木刀を叩き落した。
続く、第二試合は、藤原景季対藤原茂頼の鹿島派の同門対決である。しかし、免許皆伝を得て、師範に上り詰めた景季にとって、一ノ位のまま鹿島から去った、茂頼の敵ではなかった。結果は、景季の圧勝であった。
第三試合も、藤原則明対清原貞衡の同門対決であった。しかし、長年、鹿島派の師範を務めた則明を相手に、貞衡は、手も足も出ないままに敗北した。
第四試合は、深江是則対安部重任の仙北三郡と奥六郡の戦いである。諏訪派師範代の是則の鋭い突きが、重任を襲う。しかし、重任は、安部兄弟の中で、武芸は貞任に次ぐと言われている。簡単には負けない。激しい剣戟が続いた。そして、最後は、是則の蹴りが重任の木刀を叩き落し、勝負は着いた。是則の勝利であった。兄の貞任は、口惜しそうに演武場を去る、重任の肩を叩いて励ました。
奇しくも、第五試合も、藤原業近対橘貞頼の仙北三郡と奥六郡の戦いであった。業近は、阿修羅王の眷属と呼ばれ、安部氏郎党の筆頭を占める剛の者であった。対する貞頼も、清原一門の中で、筆頭の武芸を有し、迅速な動きで業近を苦しめた。しかし、最後には、業近の剛剣が、是則の木刀を叩き落し、業近の勝利に終わった。
第六試合は、藤原経清対藤原季俊の鹿島派の同門対決、師範対師範代の戦いであった。しかし、免許皆伝を得た師範と、奥義を会得していない師範代の差は歴然としていた。季俊は、経清の動きに翻弄され続け、疲れたところを、喉元に木刀を突きつけられた。
第七試合は、海野幸家対平常長の諏訪派対鹿島派の対決であった。双方、剣門の威信にかけて試合に臨んだが、諏訪派師範の幸家に対し、常長は鹿島派師範代である。一日の長が両者の勝敗を分けた。諏訪派師範の海野幸家の勝利であった。
最後の第八試合は、源義家対平国妙の鹿島派同門対決である。しかし、四十九歳の国妙が、十七歳の義家に勝てるはずもなかった。勝負は、一瞬にして終わった。義家の木刀が、平国妙の木刀を弾き飛ばしたのである。
続く、二回戦の組み合わせは次の通り。第一試合:安部貞任対藤原景季。第二試合:藤原則明対深江是則。第三試合:藤原業近対藤原経清。第四試合:海野幸家対源義家。
第一試合の安部貞任対藤原景季は、文字通り、安部一門と源氏の郎党の死闘となった。貞任は、奥州隋一の武将の名の通り、息をつく間も与えぬ程の速さで、次々と剛剣を繰り出す。対する景季も、義家の武芸指南役の名に賭けて、素早い身のこなしで貞任の剣を交わし続けた。時折、二人の木刀がぶつかり合うが、明らかに、貞任の膂力が上回っている。
二十合程打ち合ったであろうか。貞任の剛剣を受け止めた景季の木刀が、激しく軋みながら、真ん中から折れ曲がった。間髪入れず、貞任の蹴りが、景季の鳩尾を直撃した。貞任の木刀が、景季の喉笛に突きつけられる。勝負あった。
「あの景季が・・・。」
主催席で二人の試合を見物していた頼義が、呻き声を挙げた。景季の剣の腕は、藤原則明・藤原経清を除けば、源氏の郎党随一である。貞任の強さは、予想以上であった。
第二試合は、藤原則明対深江是則の鹿島派師範対諏訪派師範代の試合である。是則は、諏訪派の意地にかけて善戦したが、最後は、則明の安定した剣技に破れた。
第三試合は、藤原業近対藤原経清。貞任に次ぐと言われる、業近の剛剣が経清を襲う。業近の予測し難い動きに、経清は苦戦した。しかし、経清は、業近の剣を寸前で見切っていた。体術を駆使した経清の迅速な動きに、業近は、次第に翻弄されていった。経清は、業近の一瞬の隙を見逃さずに木刀を叩き落し、経清の勝利で終わった。
第四試合の海野幸家対源義家は、諏訪派師範対鹿島派師範の試合である。相手が源氏の御曹司といえど、諏訪派の古参の師範の面目に賭けて、幸家は負けるわけにはいかなかった。試合が始まっても、互いにピクリとも動かない。相手の隙を伺っているようだ。
痺れを切らした義家は、宙に舞い上がると、上段から木刀を振り下ろした。木刀が激しくぶつかり合う音が、演武場に響き渡る。刹那、義家は、空中で一回転すると幸家の背後に回り、強力な回し蹴りを見舞った。後ろに飛んでかわそうとする幸家を、尚も義家の鋭い突きが追った。「うっ」という呻き声と共に、義家の突きが、幸家の胸板を直撃する。
実剣であれば、間違いなく、幸家は死んでいる。義家の勝利であった。
「さすがじゃ。」
頼義は、我が子の勝利に、惜しみない拍手を送った。こうして、最後に残ったのは、源義家・安部貞任・藤原則明・藤原経清の四人であった。ある意味、当初からの予想通りの結果と言えよう。そして、ここから先の勝者を予測出来る者は、誰一人いない。
準決勝は、安部貞任対藤原則明、源義家対藤原経清の二試合である。
この日から一年後、この四人が、敵味方に別れて、奥州の大吹雪の中、壮絶な死闘を繰り広げることになるとは、誰一人、予想出来なかった。