第五話「奥州の風雲」
奥州は、現在の東北地方一帯の地域で、令制国の内、陸奥国と出羽国の総称である。律令制においては、陸奥国を奥州と呼び、両国の総称は奥羽と呼ばれる。
令制国の制定以前、陸奥国は、道奥と呼ばれ、654年に足柄峠の東に八カ国が設置された際には、独立した国ではなく、常陸国の一部であった。一方、出羽国は、708年に越後国に設置された、出羽郡を起源とする。律令国家の北方進出に伴い、越後国の境界が北上し、712年、出羽郡は、出羽国として分割された。
奥州は、大和朝廷の東征の過程で、日本列島の先住者、狩猟・採集民が、最期に辿り着いた地であった。また、701年の大宝律令の制定後、公地に束縛されることを嫌い、流民化した人々が、新天地を求めた地でもあった。大和朝廷は、皇家に服属しない「まつろわぬ民」を、中華文明圏に倣い、蔑視を込めて、蝦夷と呼んだ。
陸奥国は、718年、陸奥国・石城国・石背国の三国に分割されたが、わずか数年で、再び陸奥国に再統合される。その要因となったのが、720年の史上最初の蝦夷の大反乱、養老の乱である。以後、「日本」という名の極東の律令国家は、811年(弘仁二年)の文室綿麻呂の征夷終結まで、奥州の蝦夷との間に、百年に及ぶ武力衝突の時代に入るのである。
養老の乱の後、朝廷は、陸奥国に鎮守府を設置。鎮兵制を導入した。鎮守府は、鎮兵を統括する役割を担う、令外の官(律令の規定にない役職)である。鎮兵は、律令制下の地方軍制、軍団制とは別に、城柵の警備のために、陸奥国・出羽国のみに配置され、鎮守府の最高司令官、鎮守府将軍(当時は、鎮守将軍)の指揮下に置かれた。
724年(神亀元年)、按察使大野東人によって築城されたのが、多賀城である。多賀城は、新しい陸奥国府であると同時に、律令国家の奥州支配の要衝として、軍事・行政の中心となった。鎮守府は、802年に胆沢城が創建されるまで、多賀城に置かれている。
また、出羽国には、出羽柵が築かれ、760年、秋田城に改称された。将軍職の中で、征夷将軍・征狄将軍は、非常時に任命される、臨時の司令官であったが、鎮守府将軍のみは、常駐の司令官であった。そのため、鎮守府将軍は、按察使・陸奥守など、他の役職との兼任が多い。
百年に及ぶ征夷の歴史の中で、蝦夷がその存亡を賭けて熾烈な戦いを挑んだのが、三十八年戦争である。特に、蝦夷の酋長、阿弖流爲と母礼は、北上川の戦いで、紀古佐美の朝廷の軍勢を壊滅に追い込み、京の朝廷と公卿達を震撼させた。
その後、最初は征夷副将軍として、続いて、征夷大将軍として奥州に下向した、坂上田村麻呂の指揮によって、官軍は、優位に立って征夷を進めた。とはいえ、神出鬼没な阿弖流爲の軍勢に対し、決定的な勝利を収めることができない。しかし、三十年以上に及ぶ長き戦いの果て、戦火が奥州の大地を焼き尽くすことを嘆いた、阿弖流爲と母礼は、遂に、田村麻呂に降伏した。二人は、朝廷に敗北して捕らえられたのではなく、戦火の拡大を防ぐため、自ら、田村麻呂に投降したのである。
田村麻呂は、この時、四十五歳。長きに渡って、朝廷と戦い続けた蝦夷の英雄が、自ら降伏を申し出たことに、田村麻呂は、誇り高き武人の一人として、感涙したであろう。優れた人格者であった田村麻呂は、阿弖流爲と母礼に、大墓公・盤具公の姓を与え、二人の助命嘆願を約束したのである。
しかし、坂上田村麻呂の願いも空しく、阿弖流爲と母礼は裏切られた。桓武天皇を筆頭に、廟堂の公卿達は、田村麻呂の助命嘆願を退けた。所詮、実戦経験の無い、天皇や公卿には、武人の心と約束が、理解できるはずもなかった。802年8月13日、阿弖流爲と母礼は、河内国において処刑された。奥州の蝦夷の間には、朝廷に対する深い恨みと、拭い難い不信感が残った。
奥六郡は、三十八年戦争の後、陸奥国に設置された、胆沢郡・江刺郡・和賀郡・紫波郡・稗貫郡・岩手郡の総称で、現在の岩手県中部に相当する。陸奥国の北限は、日本国の北限と同一であり、征夷の進展によって、その勢力圏は、北上を続けた。802年、坂上田村麻呂によって、胆沢城が築かれると、鎮守府を設置。奥州北部地域支配の拠点となった。続く、十世紀半ばの岩手郡成立によって、奥六郡が完成したと言われる。
811年の文室綿麻呂の征夷の後、国家的事業としての征夷は終焉したが、奥州から騒乱が消え失せたわけではない。878年、出羽国にて発生した元慶の乱では、蝦夷の襲撃によって出羽城が炎上するなど、日本各地から移住した移民系住民と、土着の蝦夷系住民との対立は解消されなかった。朝廷は、胆沢城に鎮守府を設置することで、形式的には奥六郡を支配したが、現実には、蝦夷系豪族を積極的に登用することで、蝦夷による蝦夷の間接統治を行った。俘囚長と呼ばれる、蝦夷系豪族の中から、国司を凌ぐ勢いで台頭したのが、陸奥国奥六郡の安部氏と、出羽国仙北三郡の清原氏である。
清原氏は、元慶の乱の際に、出羽権掾として現地に赴任した、清原令望の末裔と言われている。対して、安倍氏の出自は、謎に包まれている。
安倍氏の家伝によれば、安倍氏は、神武東征以前の大和の豪族、長脛彦の兄、安日彦の末裔である。長脛彦の妹、登美夜須毘売は、大和に降臨した天孫の饒速日命の妻で、長脛彦は、饒速日命に仕えた。『古事記』によれば、長脛彦は、神武天皇の大和入りを阻止し、天皇の兄、五瀬命を殺害し、自身は、饒速日命によって殺害されている。
長脛彦の兄の安日彦は、大和を去って東へ逃れ、弘前もしくは津軽に辿り着いたと言われる。日本列島の先住民、縄文人こそが、蝦夷であったことを考えると、弥生人に追われ、東へ逃れる縄文人のイメージと重なる伝承である。真偽はともかく、安倍氏が、日本国に敵対する存在としての自意識を有していたことは間違いないであろう。
一方、上記伝承とは別に、奥州に下向した中央豪族の安倍氏の一人が、現地に土着したとの説もある。奥州と関わりの深い安倍氏と言えば、筆頭に挙げられるのは、阿部比羅夫である。<阿部>氏は、平安時代初期頃、<安倍>に改姓し、陰陽道で有名な安倍清明を輩出している。また、下総国猿島郡の領主で、光仁・桓武朝の征夷に登場する鎮守副将軍、安倍墨縄との関わりも否定できない。
その後も、安倍氏は、鎮守府将軍安倍三寅・安倍比高、陸奥守安倍清行など、奥州に関わりの深い人物を輩出している。特に、安倍三寅は、清原令望と同様、元慶の乱の数年後、884年に陸奥国に赴任しているため、その縁者が、現地に土着して、俘囚長として蝦夷系住民を統率した可能性は否定できない。安倍氏の子孫は、奥州の金・良馬などの莫大な富を背景に、京の朝廷にとって、無視することのできない存在に成長したのである。
阿弖流爲と母礼の死から、約二百五十年。奥州の大地では、京の朝廷に対する、怨嗟の火種が燻り続けていた。その火種は、些細な切欠によって、燎原の火の如く燃え広がり、北天を焦がし続けるであろう。
そして、永承五年(1050年)、奥州の大地に、火を投じた男がいた。男の名は、藤原登任。藤原南家巨勢麻呂流藤原師長の息子で、相模守・出雲守・大和守等の諸国の受領を歴任した、京では中級官人であった。永承三年(1048年)に陸奥守に任官した登任は、奥六郡の豊富な富に目が眩み、その富を我が物にせんと、貪欲に触手を伸ばし始めた。
しかし、登任の前に立ち塞がった人物がいた。安部頼良。奥六郡の俘囚長である頼良は、貪欲な登任の手を払いのけ、陸奥国衙に対し、敢然と戦いを挑んだのである。
永承五年(1050年)十月、藤原経清は、鹿島派の師範職を辞し、陸奥国亘理郡に帰郷した。帰郷とは言っても、鹿島派師範の座にあった経清は、年に一、二度程度しか、亘理を訪れていない。父の頼遠は、四年前に亘理郡司職に就いたばかりであるため、経清にとって、故郷はあくまで下野の足利であった。
亘理の郡司館に就いた経清を迎えたのは、母の妙子と郎党の壬生行宗であった。壬生行宗は、下野の在地豪族、壬生氏の出身で、頼遠の亘理郡司就任に伴い、共に亘理に移住した。足利にいた頃から、頼遠の手足となって働き、武芸にも明るい。妻の縁戚を頼って、陸奥に赴いた頼遠にとって、唯一、心許せる郎党であった。
頼遠の病は重く、最早、この冬を越せないと言われている。頼遠は、経清を枕元に呼び寄せると、経清に郡司職の継承を願い、陸奥国衙の在庁官人としての忠告を与えた。
「見ての通り、わしは、もう長くはない。武家の名門、秀郷流藤原氏に生まれたわしは、父が早世した故に、坂東での栄達は望めずに、この陸奥の地に流れてきた。しかし、そのことを悔いてはおらぬ。寧ろ、陸奥こそが、わしの死に場所と思うておる。そして、そなたにも、陸奥に土着し、奥州の大地に骨を埋めてほしいのじゃ。
亘理の周辺の諸郡は、妙子の縁者の海道平氏の一族が郡司を務めておる。最早、我等は下野の秀郷流藤原氏の一族ではなく、海道平氏の一族なのじゃ。彼等と協力し、助け合い、この亘理の民を立派に治めて欲しい。
よいか、経清。陸奥国には、二人の支配者がいると考えよ。多賀城以南の地は、陸奥守の威令の及ぶ地であるが、多賀城以北の奥六郡の支配者は、国衙から蝦夷の俘囚長と呼ばれる、安部頼良殿じゃ。頼良殿は、度量の大きな人物で、仁者じゃ。奥六郡の民の悉くは、自分達の支配者は、陸奥守ではなく、頼良殿だと思うておる。その威令は、遠くない将来、多賀城以南の地にも広がってゆくであろう。
陸奥の地で生き延びるためには、決して、安部氏と争うてはならぬ。そなたは、安部氏と友好を結び、頼良殿と共に、奥州の民のために生きて欲しい。しかし、源氏の旧恩も忘れるでないぞ。源頼義様は、奥州の富に異常な関心を示しておられた。仮に、頼義様が、奥州に下向するようなことがあれば、その時は、そなたが源氏と安部氏の橋渡しとなれ。」
「わかりました。すべて、父上の仰せの通りにいたします。」
経清は、自分に向けて差し伸べられた父の手を握り締めた。その痩せ細った手は、父の死期が間近に迫っていることを実感させた。経清は、息を切らせながら、まるで遺言の様に語り続ける父に対し、涙を流しながら何度も頷いた。
危篤の父を見舞った経清は、壬生行宗を伴い、隣郡の伊具を訪れた。伊具郡司の平永衡は、海道平氏の平繁衡の息子で、その一族は、旧石城国を中心に、伊具・磐城・標葉・行方の四郡の郡司職に就任している。繁衡は、経清の母の妙子の従兄弟であったから、経清と永衡は、母方の又従兄弟にあたる。
経清より二つ年下の永衡は、この年、二十九歳。京において、藤原頼宗に仕えていたが、官位官職を得ることができなかった。二年前の永承三年、藤原登任が陸奥守任官すると、永衡は、頼宗の薦めで、登任の郎党として陸奥国に帰還した。同年、登任の命により、二十七歳の若さで、伊具郡司職に就任している。
経清は、昨年の正月、永衡の郡司就任を祝うため、父の頼遠と共に、伊具郡の永衡を訪れたことがあった。永衡は、秀郷流藤原氏の父子を丁重に出迎え、交誼を温めてくれた。その時の経清の目には、永衡は、心の清らかな、優しい人物と映った。経清は、陸奥国衙多賀城への出仕にあたり、現陸奥守藤原登任と陸奥国の現状について、永衡に教えを請うために、伊具郡に立ち寄ったのである。
永衡は、経清の訪問を待ち詫びたように、丁重に郡家に迎え入れてくれた。永衡もまた、この二つ年上の又従兄弟に好感を覚えていた。同時に、永衡は、陸奥国が置かれた現状の問題を解決するために、経清と手を携える必要性を感じていたのである。
「経清殿。よくぞ参られた。私も、経清殿にお越しいただけるのを、心待ちにしておりました。経清殿は、安部頼良殿をご存知ですか?」
永衡は、経清と向き合うと、開口一番、頼良の名を口にした。経清は、先日、父から聞かされた話の内容の概略を、永衡に伝えた。
「私も頼遠殿と同じ思いです。頼良殿は、優れた人物です。しかし、現在、陸奥国衙と奥六郡は、一触即発の状態にあります。陸奥守様は、京にいる時、奥州の商人の話から、奥六郡の富に目を付けました。そして、内大臣藤原頼宗様の許へ足しげく通いつめ、陸奥守任官を願い出ました。私は、頼宗様の屋敷で仕えておりましたから、そこで、登任様と知り合うたのです。その結果、二年前、登任様は、見事に陸奥守に任官しました。
登任様は、多賀城への赴任が決まると、藤原説貞殿をはじめ、京の下級官人を集め、自身の郎党としました。私も、頼宗様の命で、登任様にお仕えすることになりました。そして、郎党達を引き連れ、陸奥に下向してきたのです。
陸奥守様は、多賀城に赴任すると、私や説貞殿等、京から連れてきた腹心の郎党達に、奥六郡の実態を探らせました。最初の一年は、慎重に事を進めるために、綿密に調査を薦めました。その結果、安部一族の富が想像以上であることが判明すると、安部頼良殿に、国衙に治める税と黄金、そして奥六郡の馬を、例年の倍に増やせと要求しました。
頼良殿は、登任様を宥めるために、莫大な貢物を捧げ続けましたが、登任様の要求は留まるところを知りません。仮に、頼良殿が、登任様の要求を受け入れ、倍の税を納めても、それは国庫にではなく、登任様の懐と、おそらく、内大臣様への貢物になるでしょう。
更に悪いことに、登任様は、奥六郡の更に奥、極北の地の十三湊の存在に気付きました。十三湊は、安部一族の富の源泉です。登任様は、十三湊の交易権を頼良殿から奪い、奥六郡の富の全てを我が物にしようと企てております。
更に、頼良殿を牽制し、十三湊を手に入れるために、奥六郡に不穏な動きがあるとの讒言を弄し、平繁成様を出羽城介に任命するよう、内大臣様に働きかけました。結果、先月、繁成様は、遂に、出羽城介に任官しました。仮に、出羽城介が、軍勢を率いて十三湊を占領すれば、頼良殿も黙っていません。五万とも十万とも言われる、奥六郡の兵を動員し、出羽城を攻めるでしょう。そうなれば、奥州に動乱が勃発します。」
永衡は、苦悩に満ちた表情で、陸奥の現状を説明した。経清は、永衡の話に驚きを隠せなかった。陸奥国に不穏な空気が漂っているとの噂は聞いていたが、実態は、経清の想像以上に深刻であった。そして、ある疑問を口にした。
「永衡殿。十三湊とは、何処にあるのですか?」
「十三湊は、奥六郡の更に奥、いや、西の海に面しているので、仙北三郡の更に奥になります。この国の極北、十三湖の港で、対岸の渡嶋は目と鼻の先です。安部一族は、代々、十三湊において、渡嶋の蝦夷と交易し、黄金や珍獣の毛皮を入手していると言われております。否、渡嶋蝦夷のみならず、更に北方の流鬼国、大陸の粛慎・遼・高麗・宋等の異国とも交易しているとの噂があります。
安部一族の富の源泉は、その十三湊での交易から上がる収益であると言われております。登任様と繁成様は、その十三湊を奪おうと目論んでいるのです。」
「大陸との交易か・・・。」
内陸の下野で育った経清にとって、永衡の話は衝撃的であった。そして、この日の本の国のみならず、遠く海外に目を向け、国際的な視野で奥六郡を治める、安部頼良という男に興味を覚えた。
「永衡殿から見て、安部頼良殿は、どのような人物ですか?」
「頼良殿は、仁を尊び、義に篤く、礼を知り、智に優れ、信じるに足る人物です。奥六郡の民のみならず、陸奥国の民や郡司の中にも、頼良殿に心を寄せる者が大勢おります。
また、隣国の仙北三郡の清原氏も、頼良殿と誼を通じております。その勢威は、坂東における源氏に匹敵する、否、それ以上と言っても過言ではありません。」
「坂東の源氏以上か・・・。」
長元の大乱から約二十年、源氏に臣従し、坂東の大地で生きてきた経清にとって、源氏とその棟梁たる頼義は、この日の本の国、最大の英雄だと思っていた。父の頼遠を、そして、永衡をここまで信服させる安部頼良とは、どのような男なのか、経清は、自分の目で確かめてみたいと思った。
「経清殿に、申し上げておかなければならないことがあります。私は、この正月に、安部頼良殿のご息女、奈加殿と婚儀を挙げます。陸奥に戻って三年。その間、私は、陸奥守の使者として、多賀城と奥六郡の衣川館の間を何度も往復し、安部頼良殿という人物をつぶさに見て参りました。そして、衣川館で、ご息女の奈加殿と接する内に、その美しさと心の清らかさに魅かれ、晴れて、安部一族の婿に迎えられることになりました。」
「安部一族の婿・・・。しかし、現在の陸奥国衙と奥六郡の緊迫した状況下では、永衡殿の立場が危うくなりませぬか?」
経清は、永衡の優しい心根が、逆に、永衡自身を苦しめることになると懸念した。
「だからこそ、登任様と繁成様の野望を、食い止めなければならぬのです。多賀城と奥六郡の橋渡し役となって、奥州の平和を維持しなければなりません。今までの陸奥守は、奥六郡の莫大な富に薄々気付きながらも、国衙の定める租税と貢物を欠かさない以上、安部一族を挑発するようなことはしませんでした。
頼良殿のお力で、奥六郡に平和が続く限り、敢えて、騒乱を引き起こそうとする国司はいなかったのです。しかし、登任様は違います。登任様について調べたところ、過去の任国の出雲でも、苛烈な徴税を行い、在地豪族の反発を招いています。そして、その度に、義理の甥にあたる、繁成様の武力を利用し、反発を抑え付けてきたのです。
しかし、奥六郡における安部氏の力は、出雲の豪族とは比較になりません。まして、奥州は、元々は蝦夷の地。朝廷に対する怨嗟の声は根深く、火を投じる者があれば、燎原の火の如く、奥州全土に叛乱の炎が燃え上がります。奥州を亡国としないためにも、登任様には、黙々と陸奥守の任期を過ごしてもらわねばならないのです。
経清殿。私と共に、奥州のために、奥六郡との橋渡し役となって下され。幸い、多賀城の在庁官人の中にも、頼良殿に意を通じている者が多数おります。この奥州の地に騒乱を起こさぬため、我等にご協力下さい。」
永衡は、経清に深々と叩頭した。経清は、永衡の熱い思いに、黙って頷くだけだった。そして、郡司就任早々、大変な状況に巻き込まれたことを悟った。
翌月。藤原経清は、平永衡と共に、陸奥国衙多賀城に出仕した。経清は、評議の開始前に、陸奥守藤原登任の許へ出向くと、病床の父に代わり、亘理郡司の座に就く旨を報告した。無論、陸奥守への貢物も忘れなかった。貪欲な登任に、亘理郡司職の継承を認めさせるには、貢物が不可欠であることを、父の頼遠と永衡から教えられていたのである。
「そちは、鹿島派の師範であったな。合戦の際には、期待しておるぞ。」
登任は、貢物に目を取られながら、経清に言葉を投げた。既に、奥六郡との合戦を、既定路線と考えているような口ぶりであった。
経清が登任の許を辞した時、多賀城には、陸奥国衙の在庁官人や、各郡の郡司達が到着していた。その中には、永衡の二人の兄、磐城郡司平忠清、行方郡司平忠衡、そして、永衡の叔父で標葉郡司の平助衡の姿があった。朝議の時間になると、一同は朝議の間に集まり、藤原登任と藤原説貞が着座して、評定が開始された。
その日は、安部頼良の名代として、頼良の三男の宗任と、八男の則任が臨席していた。父の名代であれば、本来、嫡男の貞任(貞任は次男であるが、長男は早世)が務めるべきであるが、武骨者の貞任は、政治の話には不向きとの噂があった。
一方の宗任は、冷静沈着を旨とし、明晰な頭脳の持ち主のため、父の名代に相応しい人選であったと言えよう。一方、八男の則任は、気仙郡司金為尚の娘を母に持つ美丈夫で、陸奥国衙の在庁官人に根回しを行う上で、必要不可欠な存在であった。
「陸奥守様の要請に対する、頼良殿の回答はいかに?」
登任の傍らの藤原説貞が、宗任に問うた。藤原説貞は、陸奥権守のため、陸奥国衙においては、登任に継ぐ地位にある。説貞は、藤原式家の末裔と言われており、京の下級官人であったが、登任の陸奥守任官と同時に、登任に名簿を捧げて陸奥国に下向した。
陸奥国衙に入った登任は、内大臣藤原頼宗に願い出て、説貞に陸奥権守の官職を与え、かつ、多賀城のお膝下である宮城郡の前郡司を解任して、説貞を新郡司に据えた。謂わば、登任の最大の腹心である。
「再三、申し上げておりますように、租税を二倍にすることなど、不可能です。そんなことをすれば、奥六郡に飢餓が発生し、暴動が起こりかねませぬ。奥六郡は、これまで、朝廷に定められた租税を、一度も欠かすことなく納めております。どうか、例年通りの租税にてお願いいたします。」
初めて国衙に出仕した経清にも、登任と宗任の間で、何度も同じ押し問答が行われたであろうことが、想像出来た。登任の無謀な要求に対し、奥六郡の側は、決して、首を縦に振らないのだ。
「我等は、穀物を寄越せと言うておるのではない。黄金や毛皮、馬などの貢物を含めて、今までの倍を納めよと申しておるのじゃ。当方でも、奥六郡の調べはついておる。無いとは言わせぬぞ!」
登任は、語気を荒げて立ち上がると、宗任を睨み付けた。
「陸奥守様は、何か、勘違いをされておりますな。奥六郡は、陸奥守様が思うほど、豊かな国ではありませぬ。」
宗任は顔を上げると、開き直ったように登任を睨み返した。重苦しい沈黙が流れた。経清は、陸奥守相手に一歩も引かない宗任の胆力に、内心、小気味良い思いであった。永衡の話を聞くまでもなく、登任の貪欲さは、初対面の経清にさえも感じられた。ここで宗任が屈すれば、登任が、更に難題を押し付けてくることは明白である。
「とにかく、衣川に戻って、頼良に、自ら多賀城に出仕するように伝えよ。」
登任の不機嫌な言葉で、その日の評定は終了した。
評定の後、経清は永衡から、安部宗任・則任の兄弟と、気仙郡司金為尚・胆沢郡司金師道の紹介を受けた。気仙郡は、多賀城の北、三陸海岸沿いに位置する土地で、奥六郡と隣接する郡である。気仙郡司を世襲する金氏は、大化の改新で左大臣に任官した、阿部内麻呂の後裔氏族であった。金氏の祖は、貞観元年(859年)、初代気仙郡司として陸奥に下向し、貞観十三年(871年)に郡内で発掘した黄金を朝廷に献上したため、金姓を下賜されたと言われる。奥六郡の安部氏との関係は深く、金為尚の娘は、安部頼良の側室で、二人の間には、則任が生まれている。
また、為尚の次男、為行の娘の千里は、安部貞任の正室として嫁ぎ、二年前に千代童子を産んだ。当然ではあるが、金為尚は、陸奥国衙内における親安部派の筆頭格であった。為尚は、既に七十歳。長男の為時が、気仙郡の郡司職を継ぐ予定であった。
一方、磐井郡司金師道は、為尚の弟である。気仙郡の金氏は、代々、隣国の磐井郡に進出し、勢力を扶植した。その結果、十年前に、前郡司であった橘氏が断絶すると、金師道が、磐井郡の郡司職に就任したのである。磐井郡は、奥六郡の胆沢郡と隣接するため、師道は、安部氏との共存路線を痛切に望んでいた。
「宗任殿、則任殿、為尚殿。この方が、亘理郡司藤原経清殿です。」
「安部宗任にございます。経清殿の武勇は、奥州にも聞こえておりますぞ。」
宗任は、会釈すると、経清に微笑みかけた。続いて、経清は則任・為尚に会釈した。宗任は、数えで十九歳。その澄んだ瞳の奥には、理知的な光が煌いている。
「永衡殿。婚儀の参列者は決まりましたかな?」
宗任の問いに、永衡は、苦しそうな表情を見せた。
「兄の忠清と忠衡、叔父の助衡は出席なさる。陸奥守様には媒酌人を願い出ましたが、多忙との理由で、断られました。名代として、権守の説貞殿がお越しになるそうです。」
「金氏の一族は、全員参列させていただきますぞ。貞任殿の義父の為行は無論、この為尚・為時・師道・依方・則行・経永の一族七名でお祝い申し上げる。」
暗い表情の永衡に対し、為尚は、胸を張って明るく答えた。
「陸奥守様も、この緊迫した状況では、衣川に来るのが怖いのでしょう。何せ、衣川は安部の本拠地ですからな。しかし、説貞殿とは、やっかいな相手ですな・・・。」
登任には、安部氏の本拠地に自ら赴く勇気はない。衣川には国衙の威風も及ばず、頼良がその気になれば、簡単に登任を殺せるからだ。しかし、永衡と奈加の婚礼は、奥六郡の実態を把握する、絶好の機会ではあった。故に、登任は、腹心の説貞を名代として遣わし、衣川を検分させることにしたのである。
「それから、経清殿。貴殿にも、ぜひ、私の婚儀に参列していただきたい。」
永衡は、経清の方に向き直ると、深々と頭を下げた。
「経清殿にも、頼良殿にお会いしていただきたいのです。そして、奥六郡と衣川の地をご覧になって下され。頼良殿が、朝廷の影響力を可能な限り排除し、奥六郡の地にどのような国をお作りになっているか、その目で見ていただきたいのです。」
経清の心中は複雑であった。経清は、陸奥に来てまだ日が浅く、亘理郡司に就任したばかりである。陸奥国の現状について理解が浅いまま、親安部派と見做されることは危険であった。何より、陸奥守を敵に回す恐れがある。
しかし、永衡の真っ直ぐな気持ちに、経清は、答えざるを得なかった。陸奥国の行く末を見定めるためにも、自分自身の目で、安部頼良という男を見定めようと思った。
「永衡殿。喜んで参列させていただきます。宗任殿も、よろしくお願いいたします。」
「おお、経清殿もご参列下さるか。喜んで、衣川館にお迎えいたします。鹿島派師範の経清殿が参列なさると聞けば、父上は無論のこと、兄の貞任も喜びましょう。奥州隋一の武勇を誇る兄上は、優れた武勇の士との出会いを心待ちにしておりますからな。」
経清の言葉に、宗任は心から喜びの声を上げた。経清は、そんな宗任が、不思議と他人とは思えなかった。永衡同様、宗任とも、心を許せる友になれる気がした。
永承五年(1050年)正月。藤原経清は、陸奥国衙の在庁官人とその従者、総勢百名と共に、奥六郡の地に足を踏み入れた。正月の奥州の雪は深い。五艘の小船で北上川を北上した一行は、安部氏の本拠地、衣川の街に入った。
そこは、まさに奥州の都であった。街には、商人・職人の家が立ち並び、往来は活気に溢れ、人の波でごったがえしている。寺社仏閣も続々と建立されつつあり、その賑わいは、陸奥国衙の多賀城の城下町を凌駕していた。
衣川街に入った一行は、安部宗任の出迎えを受け、街の中心部の安部一族の屋敷に入った。その屋敷は「衣川館」と呼ばれているが、実質的には、奥六郡の政庁である。頼良は、その広大な衣川館において、奥六郡の政治の全てを采配していた。
「ようこそお出でくだされた。」
衣川館の広間に通された一行は、そこで、館の主、安部頼良の挨拶を受けた。
「これが、安部頼良・・・。」
経清は、初めて見る頼良の姿に、思わず息を呑んだ。その体から発せられる威風は、周囲の空気を圧する力を持ち、力強い瞳には、未来を見据えた鋭さが感じられる。その風格は、まさに奥六郡の王者であった。
「頼義様が風ならば、頼良殿は山というところか・・・」
経清は、自身の人生で出会った中で、一、二を争う人物が、同じ「よりよし」であることに、奇妙な符号を感じずにはいられなかった。この奥六郡の王者に、器量の小さい貪欲なだけの登任が、勝てるわけがない。
「陸奥権守藤原説貞でござる。この度は、陸奥守藤原登任の名代で参ったことを、お忘れなきよう。」
頼良の圧倒的な威風に貫禄負けした説貞は、ムキになって強気な言葉を発したが、どうしても、小心さが透けて見えてしまう。説貞に続いて、永衡の親族である、忠清・忠衡・助衡が、順に挨拶と祝いの言葉を述べた。
「亘理郡司、藤原経清にございます。」
「貴殿が、鹿島派の師範か。一度、剣を交わしてみたいものじゃ。」
突然、頼良の左に座した男が、身を乗り出して口を挟んだ。
「この男・・・強い」
その男を見た瞬間、経清は、自分の中の武人の血が騒ぐのを感じた。その魁偉な容貌、座していてもわかる程の長身。名乗らなくてもわかる。噂通りの男であった。
「貞任。名乗りもせぬのに無礼じゃぞ。」
「安部頼良の嫡男。安部貞任にござる。」
頼良に窘められた貞任が、経清を見据えたまま、名乗りを挙げた。本来、陸奥守名代の説貞に先に挨拶するのが筋であるが、貞任は、説貞など眼中に入らないかのようだ。
「藤原経清にございます。」
経清は、相手のペースに巻き込まれまいと、丁重に挨拶を返した。陸奥国衙側の挨拶が終わると、右手に並んでいた衣川館の客人が、挨拶と祝いの言葉を述べ始めた。
「清原真人光頼でございます。そして、こちらが長男の頼遠です。」
光頼と名乗った小柄な初老の男と、頼遠と呼ばれた壮年の男は、永衡と奈加に祝いの言葉を述べた後、陸奥国衙の在庁官人達に向き直って叩頭した。
清原光頼は、仙北三郡の俘囚長である。仙北三郡は、出羽国北部に広がる横手盆地の三郡、雄勝郡・平鹿郡・仙北郡の総称で、朝廷は、陸奥の奥六郡同様、出羽の仙北三郡の支配を、蝦夷の俘囚長に委任していた。
ただし、仙北三郡の出羽清原氏の出自は、蝦夷ではない。出羽清原氏は、九世紀後半の元慶の乱の際に、小野春風に従い出羽権掾として出羽に下向し、乱の平定後、出羽城介に任官した清原令望の子孫であった。
清原氏は、天武天皇の皇子、舎人親王の後裔を称する皇別氏族である。舎人親王の一族は、曾孫の夏野・通雄の代に、桓武天皇より清原真人姓を賜り、臣籍降下した。以降、清原氏は、京の中級官人として活躍すると同時に、その子孫は、諸国に分派した。
『枕草子』で有名な清少納言は、少納言清原元輔の娘で、正しくは、清(原)少納言娘(実名は不明)である。
奥六郡と仙北三郡は、奥羽山脈を挟んで隣接し、安部氏と清原氏は、共に俘囚長であるため、代々、交流が深い。朝廷は、奥六郡の安部氏が叛乱を起こした場合、仙北三郡の清原氏が同時蜂起し、奥州全体に叛乱の火が広がることを恐れていた。
光頼の挨拶の後、安部一門が、順に訪問の礼と祝いの言葉を述べた。まずは、一門の長老、安部富忠が、陸奥国衙の在庁官人一同に叩頭した。富忠は、頼良の伯父で、奥六郡の更に奥、極北の地の仁土呂志辺・久慈・糠部の酋長と言われる。しかし、多賀城の在庁官人達は、無論、極北にどんな大地が広がっているのか、知る由もない。
続いて、頼良の弟の良照・為元、更に、頼良の三男宗任・四男重任・五男家任・六男正任・八男則任(七男は早世)が、順に礼の言葉を述べて叩頭する。男性人が一通り終わると、左端で叩頭したままの女性二人が、ようやく面を上げた。
「長女の有加でございます。」
「次女の奈加でございます。」
永衡の言葉通り、美しく、優しそうな面立ちをした奈加は、蓮の花を思わせる清らかな女性であった。しかし、経清は、奈加よりも、姉の有加に目を奪われていた。妹と異なる、気の強そうな顔立ちからは、凛とした美しさと知性を感じさせる。奈加が蓮ならば、有加は、常陸に咲く、茨(薔薇)の花であった。
有加に対する、経清の熱い視線に気付いたのか、貞任が、
「経清殿は、有加に心を奪われたようじゃな。しかし、気をつけられよ。有加は、気性が荒い上に、武芸に優れておるぞ。昨年、仙北三郡の清原武貞殿から、有加を妻に迎えたいとの申し込みがあったが、自分より弱い男は嫌じゃというて、断りおったわ。もっとも、鹿島派師範の経清殿であれば、有加の相手に不足はないかもしれんがな。」
「貞任!やめんか!」
頼良の怒声で、貞任は、ようやく口をつぐんだ。経清は、有加に心を奪われたことを見透かされ、恥ずかしさで顔を赤く染めていた。永衡は、その時、経清同様、有加も頬を赤く染めていることを見逃さなかった。
三日後。衣川館において、伊具郡司平永衡と安部奈加の婚儀が、無事に執り行われた。衣川館では、十日間に渡り、婚礼祝いと陸奥国衙の在庁官人の饗応が盛大に繰り広げられた。経清は、饗応の間、永衡を中心とする海道平氏の一族、貞任・宗任・重任・則任等の安部兄弟、金一族と大いに酒を酌み交わした。奥州の武人達は、皆、さっぱりとした男らしい性格で、経清は、坂東にいる時と同様の居心地の良さを感じた。
陸奥守の名代である藤原説貞は、饗応の席にはほとんど顔を見せなかった。説貞は、衣川滞在中、町中を歩き周り、何かを調査しているようであった。十日間の饗応が終わると、陸奥国衙の在庁官人は、新婚の永衡を衣川館に残し、多賀城に帰還した。
経清は、もう一度、有加に会いたいと思ったが、彼女は、饗応の席には現れなかった。経清は、後ろ髪を引かれる思いで、衣川館を後にした。
多賀城に到着した一行を待ち受けていたのは、平繁成が、出羽城に入城したとの報せであった。平繁成は、余五将軍と呼ばれた平維茂の三男である。奥州において、元鎮守府将軍平維茂の名を知らぬ者は無い。平維茂は、平貞盛の弟、繁盛の孫(平兼忠の息子)で、養子として貞盛の十五番目(余五)の息子となった。
信濃国戸隠の鬼女、紅葉の退魔伝説を持つ名将であり、半世紀程前の長徳年間には、陸奥国の所領を巡って、藤原秀郷の孫、藤原諸任と合戦に及び、これを討ち取っている。陸奥守藤原登任の妻は、平維茂の妹であるから、繁成は、登任の妻の甥にあたる。
登任は、内大臣藤原頼宗と共謀し、奥六郡の富を我が物にせんと、昏い欲望の炎を燃やした。登任は、安部氏の軍事力をつぶさに調査すると、それに匹敵する軍事力を手に入れるため、朝廷に対し、安部頼良に謀反の気配があるとの讒言を弄した。そして、頼宗に願い出て、平繁成の出羽城介任官を奏上したのである。
出羽城は、朝廷の出羽国支配の拠点で、出羽介(出羽国の次官)が城主として入城する慣習であった。繁成は、父の維茂から越後の所領を継承し、越後から出羽南部にかけて、勢力を扶植しつつあった。永承五年(1050年)正月、繁成は、私兵三千を率いて、出羽城に入城したのである。
そして、永承五年(1051年)八月。奥州全土を震撼させる事件が勃発した。平繁成が、私兵三千を率いて、極北の港、十三湊を襲撃したのである。十三湊は、出羽国の国境を越え、律令国家の圏外の地である。故に、私兵を率いて十三湊を襲撃しても、朝廷は干渉しない。繁成の攻撃を予測していた十三湊の渡嶋蝦夷は、辛くも繁成軍を撃退したが、港の周辺の村々は略奪と放火によって、灰燼に帰した。
十三湊襲撃の報告に、多賀城の登任と陸奥国衙の反安部派は狂喜した。対して、平永衡・藤原経清・金為尚等、親安部派の在庁官人は衝撃を受けた。特に、永衡は、安部頼良の娘婿である。頼良が挙兵すれば、永衡は、舅とその一族を敵として戦わなければならない。永衡は、十三湊襲撃を知ると、郎党の藤原経光のみを伴い、衣川館に向かった。
襲撃を受けた渡嶋蝦夷の怒りの炎は、極北の地を沸騰させた。ここに至って、安部頼良は、遂に、陸奥国衙に叛旗を翻すことを決意したのである。そして、それこそが、陸奥守藤原登任と出羽城介平繁成の狙いであった。
1051年(永承六年)十月、陸奥守藤原登任と出羽城介平繁成は、奥六郡の俘囚長安倍頼良追討の兵を挙げた。追討の奏上文には、安部頼良が、朝廷への貢租を行わないこと、傭役を果たさないことなど、律令に背く罪状が列挙された。
関白藤原頼通を首班とする京の朝廷は、俘囚長の安部頼良が、決められた税を国衙に納める限り、奥六郡の政治に干渉しない方針であった。それは、登任と共謀した内大臣藤原頼宗といえど、容易に覆すことはできない。故に、奥六郡の富を独占しようとする登任は、頼良の側から兵を挙げさせる必要があった。頼良の謀反の事実が無い内に、陸奥国衙の兵を動かし、奥六郡を攻めれば、登任が罪に問われることになる。
そこで、平繁成が私兵を率いて、律令国家の圏外にある十三湊を襲撃させ、敢えて、渡嶋蝦夷を激怒させた。奥六郡の更に北には、渡嶋蝦夷の国が広がっている。奥六郡における、安部頼良の権威と経済力は、渡嶋蝦夷の存在に大きく依存している。頼良は、渡嶋蝦夷の叛乱を抑え切れず、遂に挙兵に踏み切ったのである。
十月九日。安部頼良率いる奥六郡の軍勢、四千が、衣川を出立し、南下を開始したとの報告を得た登任は、出羽城の平繁成の軍勢と合流すべく、多賀城を出陣した。率いるのは、陸奥国衙の兵、四千。登任は、四千の兵を、前軍・中軍・後軍の三軍に分けた。前軍の指揮官は、藤原説貞。その傘下に反安部派の在庁官人の兵、二千を配している。
中軍の本陣は、陸奥守藤原登任が、直接、国衙の兵千五百を指揮する。後軍は、金為時・藤原経清等、親安部派と目される在庁官人の兵、わずかに五百ばかりであった。登任は、親安部派の在庁官人達を信用せず、前軍の兵を主力とし、平繁成率いる、出羽城の兵四千と共に、奥六郡の四千の兵との決戦に挑むつもりであった。
陸奥・出羽両軍で倍の兵数を要する登任は、既に、勝利したつもりでいた。十月十二日、登任の許に、安部軍が、奥六郡の境界を越え、陸奥国玉造郡に入ったとの伝令が届いた。既に、繁成軍四千は、隣郡の出羽国村山郡の境界に到達している。登任は、繁成に伝令を発すると、玉造郡鬼切部村で進軍を停止し、滞陣のための陣営を設置した。鬼切部村において、多賀城の兵で安部軍を迎え撃ち、繁成軍に、背後から挟撃させようとしたのである。
鬼切部村は、奥州を貫く奥羽山脈の谷間の村で、周囲を峻険な山々で囲まれている。繁成の出羽城軍は、山の反対、出羽側に滞陣しているため、安部軍は、繁成軍の存在に気付かないはずである。陸奥国衙の兵四千と奥六郡の兵四千は、互角の兵数のため、頼良は、全軍を挙げて登任軍を攻撃するはずであった。
翌朝未明、登任の目論見通り、安部軍が、陸奥国衙軍の陣営を攻撃した。説貞の前軍二千が、安部軍を迎え撃つ。前軍は、安部軍の攻撃に難なく対応し、繁成軍の到着を待った。そして、同日正午、繁成軍四千が、背後から安部軍に襲い掛かった。繁成軍の攻撃が始まると、安部軍は、蜘蛛の子を散らす様に、我先にと逃げ出した。夕刻までには、鬼切部村の登任・繁成軍の視界から、安部軍の姿が、一人残らず消え失せたのである。
その夜、安部軍を撃退したことに気を良くした登任と繁成は、早々に戦勝祝いを始めた。各軍の兵達に、一斉に酒が振舞われたのである。浮かれ気分に沸き立つ陣営の中で、藤原経清をはじめ、親安部派の在庁官人達は、昼間の戦闘の経過に疑念を抱いていた。
「奥六郡の兵が少な過ぎる。四千どころか、二千にも満たなかったのではないか?」
経清と為時、忠衡は、兵達の輪から離れて、その日の合戦について話し合った。気仙郡司の金為尚は、老齢を理由に、今回の安部氏追討軍に参陣していない。代わりに、長男の為時が、経清達と共に後軍に配されていた。後軍の経清達は、昼間の戦闘には参加していない。故に、陣営の背後から、安部軍の攻撃を客観的に見極めることができた。
「うむ。それに、奥州で隋一の武勇を誇る、安部貞任殿の姿が見えなかった。貞任殿の性格を考えれば、この度の合戦に参加しないはずはない。」
経清の懸念に、為時が同調した。遠目には、安部軍を指揮していたのは、頼良の腹心、藤原業近のようで、安部一族の姿は一人も見えなかった。
「永衡は、まだ、衣川館に留まったままであろうか・・・。」
忠衡は、奥六郡に向かったまま、一向に戻らない弟の身を案じていた。
「あの頼良殿が、娘婿の永衡殿を害するとは思えない。おそらく、永衡殿は、自らの意思で奥六郡に留まっているのであろう。」
経清の答えに、忠衡は、一層、表情を険しくした。永衡が、自分の意思で奥六郡に留まるということは、弟が、謀反人として、朝廷の追捕を受ける身になることを意味する。
「いずれにせよ、このままで終わるとは思えない・・・。」
既に戦勝気分が蔓延する陣営の中で、三人だけが、暗い憂慮の淵に沈んでいた。
経清の憂慮は正しかった。翌朝未明、深い霧が、鬼切部村を包み込んだ。前夜は、星が澄んで見えるほど晴れ渡っていたため、誰もが、霧の発生を予測できなかった。
そして、霧の中、寝静まっていた朝廷軍八千の陣営を、安部軍が強襲した。酔い潰れていた朝廷軍は、目を覚ましても、深い霧のために視界が真っ白で、何が起こったのか把握できないまま、次々と軍馬の蹄に蹂躙されていった。今度は、登任・繁成軍が、蜘蛛の子を散らす様に逃げ出す番であった。前日の安部軍は、敢えて、登任の罠に嵌ったふりをして、陸奥国衙軍の陣営を少数の兵で襲撃した。そして、繁成軍と合流させた上で、一気に決戦を挑んだのである。登任と繁成の油断は、安部側の予想以上であったに違いない。
後軍は、経清達が、安部軍の攻撃の可能性をある程度予測していただけに、最も早く迎撃の態勢を整えた。しかし、後軍の兵は、わずかに五百。四千の安部軍に対し、戦況を覆す術は無かった。加えて、深い霧が視界を遮り、周囲の状況が把握できない。
陸奥国衙の前軍と中軍、それに出羽城の兵士達が未曾有の混乱に陥る中、経清は、逃げ惑う兵士達が、口々に不可解な叫び声を上げるのを聞いた。
「阿修羅が出たぞ!阿修羅が出たぞ!」
「阿修羅・・・?」
その時、経清は、霧の中で、凄まじい量の血飛沫が舞い上がるのを見たような気がした。兵士達の悲鳴と血飛沫は、徐々に、経清の側に近づいてくるように感じられる。
「あれは・・・。」
返り血で全身を真っ赤に染めた、安部貞任であった。刀を左右の両手に掲げ、触れる者全てを切り裂いて近づいて来る。まるで、周囲の霧さえも切り裂くような鋭い刃であった。次の瞬間、経清と貞任の目が合った。
「経清!」跳躍した貞任は、全身の力を込めて、経清に切りかかった。経清は、ギリギリのところで身をよじり、間一髪、貞任の剣をかわした。貞任は、着地すると、経清の方に向き直った。貞任の二刀流の刃が、経清に襲い掛かる。いかに経清といえど、二刀流を相手にするは初めてであり、防戦するのが精一杯であった。
その時、朝焼けの空に、法螺貝の音が鳴り響いた。安部軍の撤退の合図であろう。周囲を見渡した経清は、既に、戦場に立っているのが、己と貞任だけであることに気付いた。
「さすがは、鹿島派師範の剣術。この阿修羅王の武術の前に立っていられたのは、そなたが初めてじゃ。次こそは、決着をつけようぞ!」
貞任は、近くをさまよっていた馬に飛び乗ると、大声で笑いながら駆け去った。
「阿修羅王の武術・・・?」
ただ一人、戦場に取り残された経清は、貞任の言葉を反芻し、戦慄した。阿修羅王の武術とは、奥州の伝説の武術で、坂上田村麻呂と戦った、阿弖流爲が会得していたと言われる。また、百数十年前、坂東に独立王国を築いた平将門は、若き頃、鎮守府将軍に任官した、父の良将と共に奥州に赴き、かの地で、阿修羅王の奥義を会得したとの噂があった。
永承六年(1051年)十月十四日、鬼切部の戦いにおいて、陸奥国衙と出羽城の兵八千は、壊滅的な打撃を受けた。戦死者は、三千人に上る。登任と繁成は、命からがら、単身で多賀城に逃げ帰ったのである。
永承六年(1051年)夏。源義家が、鹿島派に入門して、十ヶ月が経過していた。義家は、武芸指南役の藤原景季、入門試合で敗れた清原貞衡と共に、師範代の藤原季俊に師事して稽古を重ねていた。季俊は、十人の師範代中の筆頭で、近く、免許皆伝を得て、藤原経清の跡を継いで、師範の地位に就くと噂されている。
藤原季俊は、上野の武家、藤原晴俊の息子で、藤原秀郷の長男、千晴の後裔である。坂東の武家の中で、源氏に臣従していない、数少ない武家であった。故に、源氏の御曹司を特別扱いしないことが考慮され、義家の師に選ばれたのであった。
実際、季俊の修練は過酷であった。この年、季俊は二十八歳。同じ師範代の平常長より、一つ年上である。十歳で鹿島派に入門して以来の十八年、官位官職を求めず、武の道にのみ生きてきた男であった。故に、剣術の稽古では、実戦を意識して容赦無く打ち込み、弟子達の体は、日々、痣だらけになっている。
季俊に師事していたのは、義家・景季・貞衡の他に、伴助高・源貞清・紀為清である。伴助高は、三河の豪族で、古代豪族大伴氏の末裔であった。源貞清は、摂津源氏の源頼綱の郎党で、嵯峨源氏の源師世の息子である。現段階では、伴助高は一ノ位、源貞清は二ノ位の席次に就いていた。
季俊の弟子の内、最年少は、十二歳の紀為清であった。紀為清は、頼義の郎党、和気致輔の孫で、致輔の息子の為輔が、紀伊国の豪族、紀清則の養子になって、紀姓を称した。紀為清は、三ヶ月前に鹿島派に入門し、入門試合の結果、四ノ位の席次に就いた。優しい面立ちの為清の武芸は、寸前の見切りを得意とし、貞衡の武芸に近い。
鹿島派の武芸の中心は、剣術であるが、他に、弓術・無手・槍術・相撲の修練がある。師範代の季俊は、特に無手の技を得意とし、無手においては、師範の藤原則明を越えると言われている。当然のことながら、最強の相撲取は、巨漢の物部長頼であった。
義家は、剣術においては、三ノ位であるが、弓術においては、並ぶ者がなかった。義家は、十三歳のこの年、既に五人張の弓を引けるようになっていた。鹿島派の中でも、五人張の強弓を引ける者は、巨漢の物部長頼ぐらいで、師範の藤原則明、剛勇の藤原季俊でさえ、四人張が限界である。
一方、遠的においては、宇佐派の弓術を学んだ義家に匹敵する者は、皆無であった。師範代の季俊は無論のこと、師範の則明でさえ、義家の弓の腕には適わなかった。それでも、義家は満足しなかった。九州の宇佐八幡宮まで赴き、宇佐派の奥義書とホムダ弓を手にしながらも、義家は、未だ、宇佐派の奥義を会得していない。
弓矢八幡の生まれ変わりの神託を受けた義家にとって、宇佐派の奥義が会得できないことは、自身の存在の否定に繋がる。義家は、季俊に課される過酷な修練の合間に、ホムダ弓と奥義書を手に、独力で弓術の修練に励んでいた。
その年の七月、義家と景季は、師の季俊から、上席試験を受けることを薦められた。この十ヶ月の間に、二人の腕前は、目を見張る程に向上していた。季俊の目には、二人が、既に、清原貞衡と物部長頼を越えたと映っている。
八月の半ば、義家と景季は、再び、演武場の壇上に立った。演武場の周囲では、三百人の門弟達が、二人の試合を今や遅しと待ち受けている。審判は、唯一の師範となった、藤原則明。則明の合図と共に、義家対貞衡の試合が始まった。
前回同様、二人は、共に睨み合ったまま、ピクリとも動かない。しかし、前回と異なり、義家には、完璧に見える貞衡の構えの隙が見え始めていた。そして、義家は、わざと貞衡から目を逸らせた。敢えて隙を作ることで、貞衡を誘ったのだ。それでも、貞衡は動かなかった。しかし、その瞬間、義家は、貞衡の迷いを見て取った。いかに貞衡でも、義家が隙を見せたことで、心に迷いが生じたのだ。
義家は、その迷いを見逃さなかった。正面上段に掲げられた木刀は、その頂点から弧を描き、貞衡の左腕を狙った。貞衡は、間一髪、後ろに飛んでかわしたが、義家は、更に一歩踏み込むと、再び、上段から強烈な一撃を浴びせた。
体勢を崩した貞衡は、義家の一撃を、受け切れなかった。貞衡の木刀が下を向いた瞬間、義家の木刀が、貞衡の喉元に突きつけられた。
「それまで!勝者、源義家!」
則明の判定で、試合は終了した。義家の勝利であった。
「参りました。」
貞衡は、呆然とした表情を見せながらも、潔く負けを認めた。
続いて、景季対長頼の試合が行われた。この十ヶ月の間に、季俊の下で、徹底的に筋力を鍛えた景季にとって、最早、長頼は敵ではなくなっていた。景季は、長頼の渾身の力を込めた刀を受け止め、互角に打ち合い、瞬発力で上回っていた。
最後は、景季の蹴りが、長頼の鳩尾を直撃し、喉元に刀を突きつけたところで、試合は終了した。長頼は、負けたことが信じられないように、項垂れたまま動かなかった。
試合の結果、義家は二ノ位に、景季は一ノ位に昇進した。義家と景季は、この後も、季俊の下で修練に励み、更に上席の地位を目指すことになる。